第48話 崩れる


 時計の音だけがカチ、カチと聞こえていた。薄暗い室内で、朱里はぼうっと椅子に座っていた。その前方にあるダイニングテーブルには美味しそうな料理にラップが掛けられている。だけど何故か今日は食欲が湧かなかった。


「……」


 この広い家で朱里は一人だった。夜遅いというのに、自分以外誰も帰ってこない。両親も、姉二人も。御堂の直系であるが故に、父も母もどちらも多忙で日本各地を飛び回っている。椎名も1部隊の隊長になってからは自宅に帰ることが少なくなった。先程別れる際も、「調べたいことがあるから、今日は支部に泊まるわ」と言い残った。もうひとりの姉は別の任務に当たっており、最近は会っていない。


 寂しいという感情はもはや覚えない。姉はともかく、両親は昔からこうだ。朱里や椎名が幼い頃から、家にいないことが多く、帰るのは月に数度あればいいほうで、食事などの身の回りのお世話はいつもお抱えの家政婦がやってくれていた。今、目の前のテーブルにある料理も家政婦が作ったもので、味、栄養ともにどちらも十分だろう。朱里もそれに不満を覚えたことはない。ただ、今日に限っては食事する気分ではなかった。


「……」


 朱里は食事には手を付けずに、自室に入った。力が抜けたようにベッドに倒れ込む。そしてスマホを開き、ただ画面を眺めていた。


「”無名”が近くにいる」


 先程椎名に言われた言葉が浮かぶ。

 どこかで薄々感じていた部分もある。だが、これほど近いとは考えていなかった。


 それにあの場所。あの中心付近には彼の自宅がある。

 何度も通っていたあの古びたアパートを思い出す。


「……恋詩」


 自然と朱里の手は、フォトアルバムを開いていた。

 彼の写真がスマホの画面上で流れ始める。

 

 どこかでそれを眺める自分を責める声が聞こえる。それはきっと叛鬼師としての自分の声。でも、もはや自分にはもうこれしかないのだ。


 彼から貰ったプレゼントも、二人の思い出の品も全て燃やした。

 燃やすしかなかった。それを隠していればいずれ見つかってしまう。

 そうすれば今度こそ――


「……」

 

 流れていく写真をただ見つめながら、過去に浸るうちに朱里の意識は闇に落ちていった。



 


 日が昇る前に目が覚める。そして朝の鍛錬を終え、朱里は学校に向かった。

 朝の喧騒の中で朱里は思考を巡らせる。

 どうすればいい? 今、この瞬間にも”無名”は近くにいるかもしれない。

 そう思うと、いつも以上に気を抜くことはできなかった。


 朱里はあの日のことを思い出す。半分が鬼、半分が人の奇妙な面を被り戦う存在との戦いを。”無名”という存在は不思議に満ちている。なぜ、あのような存在が突然この街に現れたのか。なぜ、あそこまでの力を持ちながら、今までその気配すら悟らせなかったのか。


 わからない。何もかも。

 恐らく敵ではないのだろう。あの日、自分たちに怪我はなかった。

 殺されても間違いなくおかしくなかった。


 あの日、死者が出なかったのは”無名”に自分達を殺すという意志がなかったからに他ならない。そうでなければ最初の数分で、生命を終えていたはずだ。とそこまで考えたとき、後ろから自身を呼ぶ声が聞こえた。


「あーちゃん~!」


 振り向くと友人の少女が、手を挙げてこちらに振っていた。

 友人と共に、歩きながら学校に向かう。テストが間近ということもあり、勉強の話が中心だった。他には、昨日テレビで放送していたという恋愛ドラマの話だったり、アイドルの話。正直に言えば、テレビやアイドルの話は得意ではないものの、友人と話すだけで、さっきまでの張り詰めた空気が薄れる気がした。


 


 



 「あ、雨だ」友人の一人が、窓の外を見て言った。雨が落ちる音と共に、気温が少し下がった気がした。朱里は帰る準備を途中で止め、これからどうしようかと考えた。

傘は持っているが、この雨だ。濡れることは避けられないだろう。少し止むまで待つか、それとも少し濡れることを覚悟して外に出るか。家の人間を呼ぶという方法もあるが、それはあまりしたくなかった。


「あーちゃん、今日残る?」

 友人たちは今日、学校に残り勉强するようであった。そういえば、勉強を教えてくれと頼まれていたことを思い出す。朱里は少し悩んだあと、しばらく雨が止むまでの間残ることとした。


 雨の中、静かに時間が流れる。友人たちと机をあわせて座り、共に勉强する。朱里自身は既に高校の範囲の勉強が終わっているため、少し確認するだけで大丈夫であったが、友人たちは少し大変そうだ。


「私、お菓子買ってくるね」

「いってらしゃい」


 朱里は財布を持って、教室から出た。別に学校から出るわけではなく、2階にある休憩所に向かうためだ。そこにはお菓子の自動販売機などがあり、こうして放課後残る際は時折利用していた。


 そこにある程度近づいたところで朱里は足を止めた。声が聞こえたのだ。

 彼の、佐藤恋詩の声が。少しだけ休憩所を覗くと、隅のテーブルに恋詩ともうひとりの女生徒の姿があり、穏やかに会話を楽しんでいた。テーブルの上に勉強道具が広げられていることから、恋詩達も今日は学校で残って勉強をするつもりなのだろう。


 ドクンドクンと心臓が鳴る。どうする? 今は遠慮しようか。中に入れば間違いなく気づかれる。朱里は扉に背を向け、立ち止まった。彼の向かい側に座っていた女子は、確か一ノ瀬結衣と言っただろうか。ほとんど喋ったことはない生徒。


 久しぶりに聞く彼の声は、どこか楽しそうだった。朱里はその楽しそうな声が聞こえるたびに身体の中で”何か”が痛む気がした。朱里はもう既に、お菓子のことなどはどうでもよくなっているのに、そこから立ち去らなかった。自分でもよくわからない強い”何か”が心を支配していた。彼の声に呼応するようにその”何か”は突然、欲望を生み出す。


 彼と話がしたい――と。


 わからない。何故、今日に限ってそう思ったのか。


 ただ彼と話がしたいという”思い”が心の底から湧き出ていた。


 なんでもいい。彼と話せるなら。 

 前みたいに怒られたっていい。

 

(あっ、そうだ)


 朱里は”無名”のことを思い出す。彼の自宅は”無名”がいる可能性のある場所と近い。ならば、何かここ最近、変わったことがあったかもしれない。

 ”無名”への手がかりになるような何かが。


(そうだよ、聞かなきゃ)


 放課後の学校だ。人気は少ない。これなら彼とあの少女以外に見られる心配はない。ひと目を気にしないで済む。そうしてそのドアを開こうとしたとき、


「何をしてるの?」そんな声が聞こえた。


 その声の方向に振り向くと、制服を着た無表情の少女、林道柊子が立っていた。図書室に行っていたのか、その手にはいくつかの本が抱えられている。


「あ……あ、別に」朱里は血の気が引くような気持ちで慌てて、そこから立ち去ろうとした。だが「いい機会だから少し話をしない?」そんな声が背後から聞こえ朱里は足を止めた。


 人気のない場所に移動し、二人で向かいあう。

 朱里は少し俯きながら、立ち竦む。


 雨と風の音が廊下に響く。時折、稲光がおき薄暗い校内を一瞬、白い光が照らし、少し遅れて音が鳴る。雨は止むどころか次第に強くなっていく。


「それで……話って」朱里は恐る恐る彼女に聞いた。

「うーん、単刀直入に言うとさ、恋詩に関わるのもうやめてくんない?」

「え……」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 彼女は無表情で朱里に言う。声のトーンもどこか平坦で、感情を交えないようにしているようだった。


「関わってないよ……もうずっと。それに関わろうともしてない……」

「そう? じゃあ私の勘違いなのかな」

「どういうこと……」朱里は、彼女の言っている意味がわからなかった。少なくとも、ここ最近は全く彼と話をしていない


 彼女は続けて言う。


「……まだ恋詩のこと想ってるでしょ」

「え……」

「わかるんだよね、見てたら。私の思い違いならそれが一番いいんだけどさ」

「……別にそんなこと」

「ほら、さっきだってなんであそこで立ち止まっていたの? ただお菓子を買いにきただけ? そんな表情には見えなかったけど」


 朱里はそれ以上、言葉を続けることができなかった。

 彼女は全てを見透かしたように言う。


「何か理由があって別れたかもしんないけどさ、これ以上恋詩を傷つけるつもり?」

「あ」

「もう彼の人生にあなたは必要ない。私が守るから……ずっとね」


 そう言葉を告げ、彼女はいなくなった。

 言うだけ言って。


 ただ心が痛くて、痛くて、どうにかなりそうだった。

 何かが崩れるような気がした。







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