マダニ(現代ドラマ)

 平日の昼間。




 家の外で愛犬の頭をなでていると、耳のつけ根あたりにポコッとしたなにかがあった。なにか、と言っているが僕にはすぐに見当がついていたので何度かこするようにしてみるとポロリとそれは落下し、地面に転がった。




 アズキ大のそれは色もアズキに似ている。だが二本の指でつまんで裏返すと足が何本も生えているのが見え、ウネウネと気味悪く動いていた。




 僕は指でつまんだまま玄関前の短い段へと歩き、アズキ大の生き物、すなわち成長したマダニをコンクリートに落とすと、靴の底で勢いよく踏んづけた。プチ、という音とともにマダニの潰される感触が靴底に伝わり、足を除けるとマダニの平たくなった死骸と愛犬のどす黒い血が灰色のコンクリートに広がっていた。




 プチ、という情けない音でマダニの体は圧殺され、愛犬から搾り取った血を栄養にもせず、コンクリートへと垂れ流したのだ。僕の、望んだためだった。




 靴底をそのへんの地面にこすりつけて付着した血を拭い、僕はまた愛犬の元へと戻る。マダニの厄介さを僕は知っていた。一匹で済むということがなく、一匹見つければ大抵ほかにも何匹か見つかるものだった。




 マダニには、ハラー氏器官という特殊な感覚器官がある。哺乳類の体臭、体温を関知してくっつき、吸血行為にいたるのだった。




 また、マダニには嫌悪すべき側面があった。マダニは病原体を伝播する媒介者でもあり、日本紅斑熱や重症熱性血小板減少症候群などの感染源となっていた。




 近年ではマダニの媒介による人への感染も報告されており、死亡事例も確認されていた。人間にとってもマダニは唾棄すべき生物であり、害を与える動物に他ならなかった。そして僕は、人への害となる生き物を心の底から憎悪していた。




 平日の昼間。周囲に気配のない、世界は忙しい時間帯だった。




 尻尾を振って僕を迎える愛犬のそばに屈み、茶色く短い毛を注意深くさぐった。すると前足の付け根にアズキの感触があり、無理せず数回なでるとコロリとまた地面に落ちた。




 愛犬が関心を持つのを差し止めて人差し指と親指でマダニをつかみ、玄関前に運んでコンクリートに転がす。成長しきったマダニの動きは緩慢で、数本の足も無用に思える。停止にも等しいように僕の目には映り、そのために圧殺は容易だった。




 本当は、潰してはいけない。マダニの肉体が破れることで、内部に隠し持った卵が飛び散る可能性があるためだ。




 飛び散った卵は孵化し、幼虫となる。そして成長することで動物の血液を吸うようになり、病原体は伝播していく。そのために圧殺は避けるべきであったが、僕はマダニを潰したい衝動を抑えることができなかった。そこに幾ばくかの快楽が混じっている可能性は否定できず、同時に僕は踏み潰すという行為に特別な感情を抱いていた。




 僕にとって、また愛犬にとってマダニは不要な存在だった。それを自らの足で(不潔のために手は使いたくなかった)圧し潰すことには確かな達成感があり、救いにも似た感慨があった。




 僕の思惑は無関係とばかりにマダニはじっとして動かず、同類の死体を目の前に固まっていた。卵を宿していると思われるマダニの姿に、僕は生というものを思った。動物の血液しか栄養とできないマダニは本能のままに血液を求めて動物を探し、その生き血をすする。そうして自らの子孫を繁栄させ、自身は産みの疲労のために息絶えるのだ。




 それは純然たる歯車であり、生命の循環に他ならないものだった。だが、何者かへの害悪となる生だった。何者かの邪魔となる、苦痛と疲弊を与える生だった。




 ーーなあ、マダニよ。アズキ大の体を見下ろし、僕は思考した。




 平日の昼間。一軒家の自宅には誰の姿もなく、僕と愛犬、そして死を間近にしたマダニの存在だけがあった。多くの働き者たちの時間に、僕は思考していた。 思考は声として心中に反響し、僕を刺激した。




(なあ、お前は、邪魔なんだ。生きているだけで害なんだ。お前がいないことで、助かる者がどれだけいることか。幸福になる者が、どれだけいることか。自覚しろ。自問しろ。潰れろ。平たくなれ。お前は、邪魔だ。害なのだ。生きていられては困るのだ。いなくなれ。消え失せろ。誰にも、迷惑をかけるんじゃないーー)




 ......。




 僕は、ひとつ息を吐くと大きめの平たい石を見つけ、マダニの上に乗せた。靴を汚さないための処置だった。そうして石ごとマダニを踏みしめるとプチリという例の音がし、石を除けるとコンクリートは黒く染まっていた。そのようにして僕は結局五匹のマダニを潰し、圧殺の音を五回耳にした。




 広がった五つの血痕。僕のもたらした死の痕跡に、




 ――誰か、僕のことも潰してくれないだろうか、ふと、そんなことを思い、僕は笑った。汚い笑みだった。




 高齢の両親の仕事で不在な、残された(馬鹿を言うな)四十男がただ一人薄ら笑う、無価値な昼下がりのことだった。






 19/08/19 第171回 時空モノガタリ文学賞 【 音 】最終選考

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