桃色の恋に溢れた灰色の世界(その他)
自分が、恋愛ゲームの主人公であることに気づいたのは最近のことだった。それまでの僕は不自然に周囲に集まる女の子たちとの交感を楽しみ、恋を育む、ひとつの人形だった。凡庸だが特別な、主人公に他ならない存在だった。
しかし、真実を知った今、すべての景色は、偽の風情に思われた。目に映るもの、耳に届くものは何者かによって形作られ、操作された、恣意の光景に過ぎなかった。
また自分自身もその「ひとつ」であるという明白さ、それがこの世界からの乖離を促し、疎外感を、明確なものにした。僕の人生に、僕という存在の意思はなにひとつ、含まれてはいなかったのだ。それが、憂鬱でなくてなんだろう? 無意味でなくて、なんなのだろうか?
世界に絶望した、僕の行動は早かった。女の子たちの卑しい目を振りきって校舎の屋上へとたどり着き、フェンスを乗り越え、頭から地面へと落下した。確実に助かることのない、角度と高さだった。
この時をもって、僕の造られた人生は終幕するはずだった。主人公不在の世界もまた同様に終焉し、光と闇の区別もないままに終わりを迎える、そのはずだった。そのはずだったのだ。
――それなのに。この光景は、一体なんなのか。なぜ僕は未だ生かされ、未だ、世界に縛りつけられているのか。登場人物で、あり続けているのか。
病室らしい部屋。見える天井の白さに現実味はなく、眠るベッドの温もりさえ、欺瞞に思われる。なぜか動かぬ体は本物の人形になったような錯覚を覚えさせ、心を、不安の沼へと押しこめた。追いつかない思考に、心臓は早鐘を打ち続けていた。
間もなく、僕は泣き声が隣にあることに気づく。その特徴ある声には、覚えがある。
視線の先にいたのは『いろは』だった。明るすぎる茶髪に大きな瞳の幼馴染、その「美少女」として見事に造形された添加物だらけの姿態がベッド横に佇み、ガラス玉のような涙をこぼしながら、僕を見下ろしていた。僕の手を握り、執拗に熱烈に、力をこめていた。
ふたりきりの病室、意識はあれど、自由にならない体、――そのなかでふと『いろは』が漏らした嗚咽交じりの言葉が僕の心臓を凍りつかせ、急速に、血の気を引かせていった。『いろは』の虹彩は僕を映しているようで、どこか、遠い幻影を映しているようだった。
「……ねえ、どうして急に『交通事故』なんかにあうの……? まだ、なにも伝えてないんだよ……? 好きだって、言えてないんだよ……? ねえ、コウちゃん、起きてよ、コウちゃん……!」
――そうして身を乗り出し、『いろは』は僕の顔を見つめ声を震わせる。目を開けているにも関わらず、僕を無意識の重症人として『いろは』は認識している。その様は怖気を感じさせ、その役割通りの姿は言いようのない不快を覚えさせた。しかし、僕が世界の意志を思ったのは、そこではなかった。世界の強大さは、もっと明らかだった。
――自殺が、書き換えられている。僕の選択が、この世界ではなかったことにされている。そのことが、世界に対する畏怖を増大させ、果てのない檻に閉じこめられた感覚を増幅させた。自由の利かない体、震えない声帯が、この抑圧された状況を、後押ししているようにすら思われた。
『いろは』はさらに接近すると目を合わせ、静寂のなかに言葉を紡ぐ。それは断片的な情報に溢れていた。トラック、交差点、衝突の時間帯。僕も知ることのない、起こりえなかったはずの事故の情報を『いろは』は悲劇的に語り、そうして物語の整合性を保とうとしていた。世界を、構築し直そうと試みていた。
僕の過去は『いろは』によって決定づけられ、僕の要素は世界によって元通り固められようとしていた。世界は再び僕を主人公に、末期的な不幸のない恋愛ゲームの主人公に返り咲かせようとしていた。
『いろは』の手のひらから偽の体温が胸へと伝わり、芽生えた自主性を奪い取りつつあるのを、僕は感じていた。抗うべく発した声も不可視の圧力に立ち消え、僕は徐々に、僕が僕でなくなる感覚を、進行する「イベント」のなかに味わっていた。『いろは』のルートに組み込まれた自分を、僕はどこか浮遊した心で、見つめはじめていた。
「……お願い、目を覚まして。お願い……」
『いろは』の目尻から一粒の涙がこぼれ落ち、僕の頬を温度なく濡らす。途端に体は「奇跡的に」自由を取り戻し、仮初に目覚めた僕の口が言いたくもない言葉を発することで、物語はフィナーレを迎える。気味の悪いハッピーエンドが、不愉快な現前を見せていた。
「……ただいま、いろは」
「……おかえり、コウちゃん」
――恋愛ゲームに、主人公の自殺などありえない。まして世界を投げだすなど、絶対にあってはならない――。
恭順な僕たちは、どこまでも理想的な傀儡だった。
それは日常を忌避する、目の前のあなたにとっての。
15/10/19 第九十三回 時空モノガタリ文学賞【 憂鬱 】最終選考
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