母親への光(現代ドラマ)
――ねえ。あなた。女が甘えた声を出す。
そうして下腹部に差し入れられた手を、男は弱く払う。子作りを目的とした女の手は、無言のうちに元へ戻された。薄闇に包まれた夫婦の寝室にはその日も、男による拒絶が澱のように立ち込めていた。
■
女が子供を産んだのは、三十歳を迎えてまだ新しかった晩秋のことだった。男が仕事に忙しくしていた、その淡白な性生活のなかに、僥倖のように授かった男児だった。子供は健康だった。乳首を吸うその強靭さが、女に母親であるという自覚を強くさせた。労苦とそれに勝る充実が、日々を明確に輝かせた。
自分の人生にも、意義はあったのだ。
平凡な人生を歩んできた女は鮮烈に強烈に思い、感動を強くした。子供への愛は、深まりを見せるばかりだった。幸福は、子供が一歳を迎えるまで損なわれることなく続いた。凶事もなく。
変容が見えはじめたのは、三人の生活が一年を過ぎた頃だった。
悪しき影が、三人の生活を黒く覆いはじめた。
子供の脳に、腫瘍が見つかったのである。
生命を害する致命的な巨大さをもった腫瘍が、幼い体を悪辣に冒したのである。
夫婦と子供の順風だった生活は、闘病の生活へと、変質を見せていった。
過酷を極めた闘病。暴力的に傷ましかった、子供の姿態。
そのなかで女には、一年が経った今も回顧する記憶がある。それは病室に訪れた、夫婦に親近した人々の押しつけのない同情と、夫婦に向けられた、好意の記憶――。記憶は、鮮明に女に残り続けていた。心象を意識した今は、より、その色の濃さを増している。
――彼らの激励と労わり、声と愁眉がなければ、自分はあの悲痛に過ぎる惨苦のなかで、はたして精神を保ちえたのだろうか。
後に女は、明瞭に呼び起こして心を温もらせた。欲気が、その熱には交えられていた。
緩解はならず、入院から半年後に子供はこの世を去った。絶望が歯をむいて訪れ、意気を舐めつくし、終わりのない暗夜の道に、夫婦は身を落とした。
そのなかに訪れた顔見知りの顔は、その時期の夏の異様な暑さとともに、女に記憶されていた。
――お子さんを亡くされた親御さんのために、会を開いているんです。お金や入会が目的ではありません。ただ、お痛みを共有できればと、思いまして――
婦人は、憐れみに満ちた表情で話した。婦人は自らの子を病気で亡くしているという、近所に住む、年月にやせ細った中年の女性だった。
精神の弱ったなかに尋ねられた倦怠。女は当然になかば怒りも含めて断ろうと考えたが、口唇を捕えて、離さないものがあった。孤独感と、鎖のような喪失感だった。
――もぬけと化した幼児用ベッドが、背後には、冷たく待ちかまえている――。
日をまたいで、女は会に参加した。会は少人数の、悲愴な顔をした女性たちの会だった。
開始の挨拶がされると円座となった集団、女の向かいの女性から、喪失の吐露はなされはじめた。女性が嗚咽混じりに語り終えると主導権は右側へと移り、また右へ移り、時間をかけて移り続けた。会には一種の同類による連帯があった。女は同調に胸を痛めながら、現実の悲劇を静かに聞き遂げていた。
女が話す番となった。女は会の雰囲気に作用されたこともあり、脚色なく自身の境遇を語った。目には自然に涙が溢れ、光景は滲み、すすり泣きは誰のものかも分からなかった。女は回想を疼痛とともに語り、語りは終えられた。痛む目と心が、集中を切らせて周囲を眺めた。
――その際、言い知れぬ感情が、悲しみに暮れる女をひどく戸惑わせた――。
――共振に満ちた注目が、女の背筋をなぜかわずかに震わせた――。
子供の見舞いにも訪れた中年の女性と、買い物の途中に女は出会った。女性は子供の死を知っていた。女性は気を使いながらも看病を称え、――母親としての女を、他意の感じさせぬ様相で賛美した。母親ではなくなっていた女は礼を言い、その場を離れ、帰宅した。――意識として上ることのない、弱震のような、興奮を抱えていた。
不徳との思いもなく、女は人々の視線を受けては高揚した。子供の死を知る人々は看病の縁にあった女を慎ましくも称揚し、過去の女に注視した。
――苦境に立たされ、難病の子供を看病した母親であった女。哀憐すべき、平凡な母親ではなかった女を。
懐妊の願望的な思いを、しかし女は理性的に知覚してはいなかった。
ただ、人々の「献身の母親」への視線を、女は敏感に感じていただけだった。
■
その日も艶然と潜りこむ手を、男は拒んだ。女を起き上がらせ、韜晦を含んだ言葉を女に対して向ける。――あの子が、忘れられないんだ。だから、こんなことはできない。涙さえ、伝い落ちていた。
対する女の返答は、――ひどく生産的に空疎な言葉で。
乾いた音が響いた。女の頬が張られたのだった。
14/12/29 第七十二回 時空モノガタリ文学賞【 喪失 】投稿
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