卒業の背中(現代ドラマ)
「颯太! もう時間ないぞ! ティッシュは? ハンカチは? ちゃんと持ったか?」
「まだ余裕あるから大丈夫だよ! それに、必要ねえから! ハンカチとか!」
朝のマンション風景は、とても騒々しい。バタバタと音がしそうなほど、にぎやかに時は過ぎていく。準備途中の朝食。畳まれたままの夫のスーツ。窓の外は快晴だった。交感にふさわしい青空が、天高く、どこまでも澄んで広がっていた。
「……ほら、寝癖ついてるわよ。最後の日ぐらい、ちゃんとして行きなさい、颯太」
「え? ……ああ、うん。着替えてくるから、メシそこに置いといて!」
そう言って、慌しく颯太はリビングを出て行く。灰色のスウェット姿が廊下の向こうへと走り去った。
体こそ大きくなっても、寝坊癖とあわてんぼは昔からまるで変わっていない。そのことに安心するやら、嘆じるやらで、私は思わず笑ってしまった。だが、背後の夫はただ嘆くだけのようで、掠れたため息がテレビのニュース音声に混じって届いた。その後にようやく、呆れたような笑いがつけ足され、私も声を合わせて共に笑った。
「……まったく。誰に似たんだか、あのズボラっぷりは。結局、あいつは最後までこの調子か。なあ、加代子」
「……そうね。でも、私じゃないわよ。多分、あなたに似たんじゃないかしら。あの子の性格」
振り向けば、腫れぼったい目をして夫は青いハンカチを握っている。テーブルの側に立ち、絶対必要なのに、とブツブツ手元に文句を言っていた。
あの子は泣かないわ、そう思ったが、口には出さなかった。もしかしたら、ということもあるし、誰かの目を、颯太が拭ってあげることだってあるかもしれない。今日という日は、そういう日だった。一度しかない、惜別と、感謝の日だった。
夫が、静かに言う。声音には、重ねた年月が滲んでいた。
「……颯太も、卒業か。迎えてみれば、あっという間だなあ。俺も年を取るわけだ」
私はうなずき、夫の肩に手を添える。反応なく、夫は廊下から響く喧騒を聞いていた。その瞳を、颯太を、私は愛おしく思った。本心から、言葉を掛けたいと思っていた。
窓外に青葉茂り、桜は未だ眠る春。今日、息子の颯太が、高校を卒業する。あまりに早い、嬉しくもそう、感じられる速度で。
颯太は、未熟児だった。本当に小さな体で、産声も微かに生まれてきた子どもだった。私たちは不安だった。不安で仕方がなかった。心臓や肝臓はちゃんと動いているのだろうか。呼吸は、十分にできているのだろうか。颯太の体は他の赤ちゃんに比べあまりに幼く、私たち夫婦はガラス越しに手を取り合い、狼狽したものだった。なにせ、初めての子どもだったのだ。正常な心持で、いれるはずがなかった。
心配は、颯太と病院を出てからもしばらく続いた。言葉を話すまでに時間がかかり、立つことも、歩くことも遅い子どもだった。
それだけに、「パパ」「ママ」と、あやふやでも話してくれた瞬間は、全ての景色が透き通って見えるほどだった。歩行器に掴まりながらも自分の力で一歩を踏みだしてくれた瞬間は、夫婦で泣いて喜んだものだった。
その喜びをくれた颯太は成長し、今、旅立ちの間際にいた。私は幸せだった。それは、本来なら得ることのない、幸福だったからだ。
「じゃあ俺、先行くから!」
「……そろそろ時間か。じゃあ、行ってくるよ、加代子」
時間差で出て行った二人を玄関で見送った。二つの背中はよく似ていて、その類似を私は嬉しく感じた。
マンションには静寂が訪れている。音は波紋のように消えていたが、付帯した香りが、玄関に残留し続けていた。その香りを、私は十分すぎるほどに知っていた。足音もなく、廊下に漂う香りの線をたどれば、先は和室だった。整頓された室内に、私は足を踏み入れた。
壁際まで歩き、一つ敷かれた座布団に座る。目の前には仏壇。香炉には、赤く灯る線香が二本立てられている。右側の一本がわずかに短い。時間を置いて、線香は点けられていた。
足元の座布団を見れば、赤い布地には灰色の染みができている。その円に、私は今朝の夫の姿態を思い出す。仏壇に向かい、低く話していた夫。その涙声に、私は颯太の卒業を知ったのだ。それが今日であるという僥倖に、身の震える思いだったのだ。
開かれた扉には遺影が飾られている。――自分の遺影というのは、何度見ても慣れないものだ。そう感じながら、私は誰かに礼を言いたいと思った。
今日、この世への帰還を突然に許してくれたこと。その贈物を、颯太の卒業の日に与えてくれたこと。おかげで私は颯太を送り出すことができた。あまりに早く思える速度で、両親を追い越していった、大きな背中を。
障子の隙間に垣間見える空。清澄と広がる空に、私はこみ上げる感情を紡ぐ。
今日、私たちの息子が卒業する。大きく、無事に育ってくれた、背中で。
14/11/03 第六十八回 時空モノガタリ文学賞【猛スピードで】投稿
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