不在(現代ドラマ)

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 路地裏から飛び出た猫が私を威嚇した。その様に、私は畏怖にほど近い怯えを感じた。猫が嫌いなのではない。猫の傍には子猫が付いていた。我が子を必死に守ろうとする、無思考の強大さというものに、人の身の私は心を抉られる思いがしたのだ。




 ■




 


 アパートの夕食にはテレビの音声があった。毒にも薬にもならぬドラマが煌々と流れていた。その画面の中で、名も知らぬ若年の男が何者かに向かい吠えているのを私は一人聞いていた。音程を保った、訓戒のような吠え方だった。


 


 男は曰く、こう言っているのだった。家族を守る。家庭を守る。俺は、家族を幸せにしてみせる。――――。


 


 そう、幾度も唱えているのだった。その台詞と態度は唱えることで概念が実体化され、世界が満たされるとでも考えているような様態だった。疑いの余地のない、美徳の風情が、箱には在しているようだった。


 


 家族。家族。呼ばれ登場する、男の家族。笑声。幸福。充溢。密集。




 机上のリモコンを引き寄せ、電源ボタンを押したが電池がないためか画面は色彩を保ったまま発光の様子、私の現実と相反した家族の光景はプロパガンダのように集合を崇め、男の意思というものを強熱に押しつけていた。




 私は腕を振り上げ、その顔にリモコンを投げつけた。角が画面に当たり、音を立てたが、男の矜持が損なわれることはなかった。私は箸を再び持ち、一息ついて、茶色の揚げ物を眺めた。




 そして、食べかけたコンビニ弁当の上に、食べたばかりのコンビニ弁当を全て吐瀉した。プラスチックの縁から混在の吐瀉物が漏れ、机を侵食し、食事を無残に無用のものとした。げほ、と苦しい咳が喉をついた。私の拒絶に反し、胃液は舌を焦がすのを止めず、溢れ出る涙と共に、弁当を汚わいに湿らせるのだった。


 


 痛苦が寄せた、その間、脳裏に思い浮かんだ唯一は、私自身の家族だった。




 一軒家に住んだ同い年の妻と、老いた私の母親、五歳を過ぎたばかりの、一人娘。それらの私の家族。




 ――津波に飲み込まれ、今は海底か、魚の胃袋かに居場所を置いた、私の救えなかった家族が、強硬に浮かんでは漂った。




 色の薄れた残映は、雑音の入り混じる中に存在感を湛え、揺曳し、頭を痛ませ、慨嘆させた。何者にも変えがたい、しかし何物かに移り変わった、家族の在り様は、今も精神として私に残り続け、私を絡めとり、かの震災から三年余りが経過した現在に到るまでも欠片の変化もなく、むしろ膨張した悔悟に、私は大きく圧迫され苛まれていた。




 畳に身を横たえ、腕を使い顔を皆から断絶する。足が机に当たり、充満した吐瀉物の揺れる音を静かに感じたが、そこに感慨はなく、共鳴する家族の空想の悲鳴のみが、私の耳朶を支配する、ただ一つとなっていた。




 震災前に単身赴任で離れた私にあったのは、仕方ない、という声だった。




 地元、職場の近い人々は、私に痛ましく、慰めの声をかけた。しかし、その声は漆黒に浮揚した私の心を降り立たせることはなかった。それはある事実に基づいた。家族のいた地域にも、命を救い得た人があったのである。今も、生を謳歌する人々があるのである。




 滂沱の涙の中、私には黙考があった。何故に家族は死に絶えたか。何故に轟とした波に飲まれたのか。真相の消え去った闇、その思考の末に出た結論は、私から生存活動の意義を失わせるものだった。朦朧の私には、ただにその想像が信じられるばかりだった。




 ――母に足腰の老化があったこと、頭の若干の耄碌があったことが非力をまねき、避難を遅らせたのではないか――




 ――赴任で家から離れ、金だけを送り、生活の責任を妻に負わせた、必要とはいえその放棄が家族を滅ぼし、滅したのではないか――




 妻は人を見捨てられぬ人間だった。私には、信じられるばかりだった。




 震災の起こった日、会社は休みでアパートにおり、痛飲していた。そこに見た震災はテレビの対岸に過ぎなかった。安全な地での、安全な閲覧に過ぎなかった。訪れた故郷は空白だった。復興は進んだが、形となり私に返ってくるものは何もなかった。悔恨と無気力のみが、震災の私への供与だった。今や源泉も忘れたように、涙も、伴う感情も、枯れ果てていた。




 現実の逃避と饐えた匂いの中、画面の男の声が瞑目する私に途切れることなく響いていた。




(家族を守るとは、家族の側にいることだ。けして、手放さないことだ)いくらかの真実味を帯びているように、私にも感じられた。




 では、私の守るという誓いは、何だったのであろうか。


 


 ――お前の誓いなど、都合の良い夢物語に過ぎなかった。その証拠が、家族とも思えぬ立ち並んだ位牌の数々ではないか――


 


 私は視線を彷徨わせ、吐瀉の残りを垂れ流した。思うのは、真っ黒の顔と風景。実在の薄い、遠く飛んだ、過去の全ての光景だった。






 14/09/20 第六十五回 時空モノガタリ文学賞【 守る 】最終選考

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