土の下の雪(現代ドラマ)
部屋を整理していた。使い道を失った部屋だった。
部屋から不要な道具が詰まったダンボールを運ぶ最中、縁側に江美の姿を認めた。江美は木々も凍る気温の中、縁側のガラス戸を開け放ち、外気にそぐわない軽装で縁側の外に足を投げ出していた。逡巡したが、私はダンボールを置き、背後から抑制した声色で声を掛けた。
「おい、体冷えるぞ。戸を閉めたらどうだ」
「……ああ、あなた。今ね、雪を見ていたの。ちらちら、降ってきたのよ」
振り向かず、江美は背中で言葉を紡いだ。その声は透き通り、乾燥した空気に容易く溶けていきそうな儚さがあった。身に纏った薄手のカーディガンは半ば肩から落ち、防寒の役割を失っている。首筋に白く浮き上がった血管が、寒々しさをありありと表現している。
「……雪か、珍しいな。この辺はめったに降らないんだけどな」
同期する、庭と江美の姿。上着を脱ぎながら江美の傍に近寄り、そっと肩に掛けた。江美は抵抗も反応もする事なく黙して外を見やり、その視線の先にある灰色の空からは、心細い雪がふらふらと舞い落ちていた。
「この雪、積もるかしら。せっかく降ったんだから、残るといいわねえ」
色の無い空と同じように、江美の声からは感情が失われている。意味だけを付与したその言葉。
――積もらないだろう。そんな返答が浮かんだが、振り向いた先の淡い横顔にそれはかき消され、私はただ黙って庭を見るだけに止まった。江美は体を固定し佇み、その間も、空から落ちる雪は庭の風景に小さく重なっていく。江美が小さなくしゃみをした。私の体も、震えるほどに冷たくなっていた。
「……なあ、そろそろいいだろう。本当に風邪引くぞ」
板敷きの廊下は寒気によって冷やされ、裸の足を否応ともなく固まりにしている。――ただでさえ、お前は。そう続けようか迷った私を遮るように、江美が童子のような目で地面の一点を見つめ、口を開いた。
「あら、あの雪、頑張るわね。ほら、まだ地面に残ってる」
庭を指さす細く長い指。その先に、宙をちらつく雪の群れよりは幾分か大きな雪の一粒があった。硬化した茶色い地面に身を任せるように、ぽつんと、寂しく置かれていた。
――すぐに、消えるだろう。そう感じたが、私は残るかもな、と思ってもいない台詞を白々しく口にし、わざと錯覚させた目線で、雪の行く末を見守り続けた。
「ほら、仲間も降りてくる。残れるわ。頑張れ、頑張れ」
真横で表情を無くしながら、江美は小さく口を動かす。指差し続ける左手。もう一方の、右手。私は、その右手の動作に気づいている。
――あの病院から、始まった行為。私は、目を逸らす。それが通例であるかのように視線を合わせず、ただ、拳を固めながら無個性な地面を目で捕らえ続ける。
――まるで、放置すれば全てが解決すると思っているかのようだ。そんな声に私は耳を塞ぎ、唇を噛みながら受け流す。私の頭には、幸福に顔を綻ばせた江美が残っている。それが、躊躇を生む。目を曇らせる。
頑張れ。そう呟く江美の右手は、自らの腹をさすっていた。幾度も幾度も、愛おしそうに腹部を撫でていた。私は直視できず、ただ、江美に同調する振りをして頑張れ、と同じ抑揚で呟いた。何の意味も無かった。何の、効果もあるはずが無かった。
「……ああ、消えた。やっぱり、残れないのね。せっかく、降ったのに、悲しいわねえ」
江美はさして残念にも感じていない口調で、そう囁いた。――明るく、快活だった江美。もし、江美がここで涙の一筋でも流せば、まだ救いはあるかもしれない。江美の頬を見てそう思ったが、江美の表層からは意志、それに似た類いの思考は感じられず、私はただ江美の背後に回り、その小さく骨張った体を抱き締めただけだった。
冷たく、微弱に震えるその体は、中身の入っていない入れ物のような感慨を私に与え、精神の跳ね返りも、生の温もりもあの病院に置き忘れてきたかのようで、私は嫌悪を感じながらも、以前の江美、あの朗らかな笑顔を、思い起こさずにはいられなかった。
私には白く生まれ、地表に死んでいく雪に江美が何を見ているのか、分かり過ぎるほどに分かっていた。
白く無気質な病院。そこで、江美から取り外された一つの機能。
私は、江美の肩越しに庭を見つめながら、過去に思った、私たちのような夫婦に於ける一つの打開策を考えていた。しかし、それに何の意味があるのだろうか、と過去と同じように打ち捨てた。
江美は腹を撫で続け、過去に、精神を取り残している。枯れ木に重なる雪。今日だけは、消えないでほしい。鈍く温かい江美の背中に顔を押し付けながら、私は空に、去り行く雪に、そう願望を込めた。それが、叶わないことを知りながら。空虚な願いだと感じながら。
「……雪、消えないといいわねえ。消えると、悲しいものねえ。みんな、泣いちゃうものねえ」
13/11/21 第四十五回 時空モノガタリ文学賞【 雪 】最終選考
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