座る男と隣の女(現代ドラマ)
女は苛立っていた。男がまるで話す素振りを見せないのである。
光源がテレビのみの、真っ暗な部屋の中、男は女に構う事なく、胸糞の悪いニュースを眺め続けている。女が二の腕に触れるも、男の反応は無く、空しい冷たさが、返答として翻るだけである。
もう、飽きたのかしら。女は考える。
男との同棲を決意してから、まだ幾ばくも経ってはいない。半ば狂乱のうちに実行した同棲であるから、男との絆が世間一般の恋人のように固まっていないのも無理はない。
テレビの光彩が傍の壁に無気質な陰影を作り出し、女は徒然と考えながら何ともなしにそれを眺めている。ベッドにもたれ掛かる男の脱力。同じように体重を掛けるとベッドは軋み、二人分の重みを、音としてしっかりと部屋に響き渡らせた。
これを、生活というのかしら。
女はカーペットの毛を弄び、塊になった部分を指先で強く解した。女は無言の価値を知っていたが、男のそれは度が過ぎるように思われた。
女は久しく男の声を聞いていない。私の部屋に始めて来た時、嬉しそうに身をよじらせたくせに。男の胸を眺めながら、女は男の喜びに震えた姿を思い出す。
体を抱き締めた際、女の肌を覆い尽くした、男の熱い血潮。生命を誇示するように高鳴り、合わせた胸に確かな鼓動を伝えた男の強靭な心臓。あの時は、ベッドの下まで温かく濡れたっけ。女は手に残る男の感触を思い起こし、肉の反発を脳裡にありありと浮かび上がらせた。
――あの瞬間、彼は私のものになった。あの毒々しい女から、彼を放すことが出来たのだわ。
女はキッチンの方向を見やった後、自分の人生に於ける願望の成就を指で数えた。五指にすっぽりと入る少なさだった。
その中で、と女は中指のみを曲げたまま残し、片方の手で愛おしく撫で始める。――あの時は、私の願いが届いた。彼は私の部屋に居続けている。あの女と二度と会っていない。それは、私を愛しているからよね?
男の腕に触れながら、女は幸福を人生で初めて手中にしたと感じた。芽生えた多少の不安も、男の実存の前では柔らかく溶かされていった。女は男の肩にそっと頭を乗せ、私、幸せ、と消え入りそうな声で呟いた。
テレビの画面が転換し、映し出されていたアナウンサーが若い女性から中年の男性に変わる。全国から地方、放送局をローカルに移し、地域的な事件を伝え始めていた。
先程から女は我慢していた。しかし、空腹、という生理的欲求にはどうにも抗いがたい。卑しく鳴る自らの腹に憤りを覚えていたところでもあったので、男の側を離れ、仕方なく食事を作ることにした。
ベッドに後ろ手で体重を掛け、力の反動で、女は立ち上がろうとした。鈍い音がなり、女の全体重をベッドが支える。女が腰を浮かし、ベッドに一時、座ろうと試みた時だった。
女の重みでベッドが押され、壁との間にあった隙間がベッドで埋められる形になった。自然、女はバランスを崩す。姿勢を留めようとしたものの、左手が縁から落ち、男の方向に、体重を預けるように倒れこんでしまった。
女の圧力を受けた男は、何の抵抗も無く、骨がぶつかる音を供して、床に激突した。
手は投げ出され、頭蓋を守る気概も発揮せず、男は自然の摂理に沿うように、カーペットに長々と身を横たえた。
当初、自らの身を案じた女だったが、すぐさま体勢を立て直し男に寄り添った。無理な姿勢で崩れ落ちた男のワイシャツはボタンが弾け飛び、胸部が、薄明の元に晒されている。
男の胸は、真っ黒に染まっていた。心臓付近に不自然な穴が空き、様々に凝固した塊が、その周辺を異様に彩っている。
女は素早く男の服をかき寄せ、胸を暗黒の中に再び包み隠した。男の体に変容が無いことを確認すると、女はホッと息を吐き、ベッドを戻した後、男を元の位置に復元した。景色の一部に、男は女の望み通り収まった。
生活が再び部屋に舞い戻る。弛緩の中、安心からか女の腹は情けなく鳴り、照れながら、女はキッチンに向かう。
流し台の下、収納扉を開け、女は料理の準備を始めた。一本の包丁を取り出し、野菜を切ろうとしたところで、女は包丁の刃に異常を見つける。男の胸と同じ色に、刃は鈍く固定されていた。
あら、いけない、これは私と彼の記念品じゃない。同棲の、きっかけになった包丁だもんね。女は自らの失敗を心中で責め、大事そうに包丁をしまうと、新たな包丁を手にもち、野菜を刻み始めた。
リビング。女の鼻歌が微かに聞こえる中、中年のアナウンサーが遺憾にたえない面持ちで事件を報じている。
○○市に住む男性が失踪し、家族から捜索願が出ています……。
アナウンサーが読み上げる特徴がテレビの前に座る男の耳に入る。しかし、男は思い至ることも反応することもなく、意志を喪失した瞳のまま、黙然とベッドに寄りかかり続けていた。
13/10/21 第四十一回 時空モノガタリ文学賞【 恋愛 】受賞
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