楽園のオーロラ

神條 月詞

* * *

『急募!安心感!』

 夕焼けに照らされた街の中で、たまたま見つけた貼り紙のフレーズに思わず立ち止まった。安心感の求人ってなんだ、聞いたことないぞ。

 あまりにも怪しげなその言葉に好奇心を刺激され、おそるおそる近付いてみると。

『眠れぬ夜に安心を提供する簡単なお仕事です』

 ──ますます怪しい。

「お兄さんお兄さんっ、このお仕事に興味がありますかっ?」

「……はい?」

 なんかちっさいのが現れたぞ。なんだなんだ。

「さみしくて眠れないお客様に安心感をお届けする、とーっても簡単なお仕事ですよっ!お給料もたくさんですよっ!難しいことなんてひとっつもないですよっ!」

「えーと、とりあえず落ち着いて……?」

「はいっ!」

 まず、目の前でぴょこぴょこと跳ねている少女は誰だ。金茶色の長い髪をツインテールにして、栗色の大きな瞳をぱちぱちと瞬いているこの少女は、一体どこから現れた?

「こんなところで立ち話もあれですし、どこかでお茶でもしながらおはなししませんかっ?」

「う、うん……」

「では行きましょうっ!」

 考え事をしている間に、あれよあれよと近くのファミレスへ連れてこられてしまった。

「んー、ハンバーグと、チキンステーキと、カルボナーラと、グラタンと、デラックスチョコバナナパフェと、フルーツタルトと、パンナコッタとっ」

 とんでもない量を頼むなおい。

「ティラミスと、ココアフロートと……お兄さんはどうしますかっ?」

「アイスコーヒーをお願いします……」

「かしこまりました、お待ちくださいませ」

 目の前の少女は、成人男性の三食分ほどはありそうな量の食事を頼んでけろりとしている。本当に何者なんだ。

「さて、お食事が来るまで少しおはなししましょうかっ!まずは自己紹介からですねっ!」

 そう言って少女は居住まいを正すと、こほんと咳払いをして口を開いた。

「ご挨拶が遅くなりましたっ!更紗・シャルトリューズ・エリクシールですっ!十二歳ですっ!眠れぬ夜をお過ごしのお客様に安心感をお届けするお仕事をしていますっ!」

 名前が噛みそうだし長いし思ったより幼かったしやっぱりわけわからないなその仕事。

「お兄さんはなんてお名前ですかっ?」

 そして謝らなければならないことがある。

「律・アンシャンテ・クエイルード、二十歳。ごめん、お兄さんじゃないんだ」

「お姉さん、でしたかっ……!?」

「あーうん、一応ね」

 ブルーブラックのベリーショートに黒い吊り目、それなりの身長と男女どちらとも取れるような名前。これまでもよく間違えられてきたし、わざわざ否定するのも面倒だし、などと思っていたのだけど。

 目の前でしょんぼりと落ち込む歳下の少女を見ていると、なんだかいたたまれなくなってくる。

「そんな気にしないで。よければ律って呼んでよ」

「はい……えっと、律さんっ」

「うん。きみのことはなんて呼んだらいい?」

「更紗って呼ばれてますっ」

「わかった、じゃあ更紗。きみの『お仕事』について教えてくれないかな」

 何度聞いても、やはり『安心感を提供する』というのがピンとこない。簡単だ、と更紗は言うが、安心感を与えるというのはなかなかに難しいことではないだろうか。しかも高給。控えめに言っても怪しさ満載だ。

「はいっ!しつこいようですが、とっても簡単なお仕事ですっ。お客様からの評判もいいですし、お給料もたくさんですし、楽しめると思いますよっ!」

 いや、だから、何をする仕事なんだ。そうつっこもうとした時、店員さんが料理を運んできてくれた。

 テーブルの上にずらりと並ぶ、ハンバーグと、チキンステーキと、カルボナーラと、グラタン。改めて見ても、確実に十二歳の少女が一度に食べる量ではない。そんな細い身体のどこに入るんだろうか。

「いただきますっ!律さんは何も食べなくていいんですかっ?」

「うん、大丈夫」

「そうですかっ?じゃあおはなしの続きをしますねっ」

「ああ、具体的に何をすればいいの?」

「夜眠れない人と、おはなしをしますっ」

 ──思った以上に簡単だった。というか単純すぎないか?本当にそれだけ?

 その疑問を読み取ったかのように、にこにこと楽しげな笑みを深めた更紗は説明を始めた。

「お仕事専用の機械があって、それでお客様とおはなししますっ。お客様と仲良しになったら、直接おうちまで行っておはなしする人もいるみたいですねっ」

「へえ……でもそれ、危なくはないの」

「はいっ、ご安心くださいっ!お仕事用の機械に、じーぴーえすと危険をお知らせするための機能がついてますっ。電源を入れると自動で起動するシステムになってるので、いざって時はそれを使って、絶対ぜーったい、助けに行きますよっ!」

「そうなんだ。それは頼もしいね」

 本当に話をするだけ、のようだ。怪しいサービスがあるんじゃないか、なんて疑っていたけれど、もしそんな仕事だとしたら十二歳の少女が関わることはないだろう。そう信じたい。

 少し考えていたら、ついさっきまで更紗の前に並んでいたはずの料理たちはすっかりなくなっていた。なんなら美味しそうにココアフロートを飲みながら、いつの間にやら運ばれてきていたチョコバナナパフェに夢中になっている。一体どんな速さで食べているんだろうか。というか、どんな胃袋しているんだろう、これ。

「んぐ。律さんがお仕事をしてくださるなら、このあと事務所にご案内しますっ」

 パフェの最後のひとくちを飲み込んで、ティラミスに手を伸ばしながら更紗は言う。

「……そう、だね。やってみようかな」

「ほんとですかっ!?」

「うん。更紗が全部食べ終わったら、連れていってよ」

「お任せくださいっ!そうと決まれば、すみませーんっ、注文の残りを、全部お願いしますっ!」

 さっきからずっと思ってたけど、更紗の声はよく通る。ただ、やかましいとか耳障りとかではない、澄んだ響きの声。寂しくて不安な夜、この声に話しかけていてもらえたら安心するんだろうな、なんて、まあ八つも離れた子に対して思うことじゃないんだろうけど。

 ほどなくして、店員さんが運んできてくれたフルーツタルトとパンナコッタ、それからティラミスと、いつの間にやら追加したのかチーズケーキとアイスクリームの盛り合わせがテーブルの上にずらりと並ぶ。本当によく食べる子だ。見ているだけでもお腹いっぱいになる。

「お待たせしてしまってごめんなさいっ」

「ん、大丈夫。美味しく食べて」

「はいっ」

 これだけ食べていてもまだ美味しそうに、しあわせそうにしているのがすごい。どんな胃袋してるんだほんとに。

「えへー、ごちそうさまでしたっ」

「はやっ」

「そうですかっ?」

 綺麗になった器たちを前に、驚きを隠せない。まあなんにせよ、更紗が満足できたのならいいか。

「ではではっ、事務所までご案内しますねっ!」

「うん、よろしく」


 連れてこられたのは、気が遠くなりそうなほど高いビルの前だった。何階建てなんだこれ。いままで見た高層ビルの中で一番高いんじゃないのか。

「あれれっ、おーい律さーんっ?」

「……ん、ごめん、何?」

「ここの、一番上の階に事務所がありますっ。エレベーターに乗るので、中に入りましょうっ?」

 最上階か。やっぱりそういうことか。そうなるよな。更紗と話し始めてからあらゆることがぶっ飛んでる気がする。もうこれ以上何が起きても驚かないし驚けないな。

「ちなみに事務所のお隣がおうちなんですよっ」

「へえ、どんな人が住んでるの?」

「……ひとりで住んでますよっ?」

 ──前言撤回。

「ひとりって、更紗が?」

「はいっ」

 十二歳の少女を、たったひとりで住まわせているというのか。保護者は、いないのだろうか。

「去年まではおじいちゃんと一緒に住んでたんですけど、死んでしまったので、いまはひとりなんですっ。律さんにお願いしたいお仕事も、おじいちゃんと一緒に考えたんですよっ」

「そう、なんだ」

 さっきまでと変わらず、明るい口調で話す更紗の横顔を見て、これ以上立ち入ったことを聞いてはいけない気がした。きっと、更紗は更紗なりの折り合いをつけているんだろうから。

 更紗に連れられてビルの中へ入ると、どこまであるのか想像もつかないような高い吹き抜けのロビーが広がっていた。映画やドラマでしか見たことないぞこんなの。

 慣れた様子で進んでいく更紗の後についてエレベーターに乗り込む。ほんの少し背伸びした更紗が押したボタンは、一番右上。

「四十七階なんてあるんだ……」

「ヘリポート併設の屋上もあるので、正確には四十八階までになるのかもしれませんねっ」

「ヘリポート併設の屋上」

 もう何がなんだかわけがわからない。話についていけない、というか、理解が追いつかない。しかもこのエレベーターなんかすさまじい速さで昇ってるし。

 体感的には一瞬、実際には一分足らずくらいなんだろうけど、あっという間に最上階へと到着した。開いた扉の先には、またもや映画やドラマの中でしか見たことのないような場所。驚きすぎて一周回った感はある。たぶんこのフロア全部がひとつの部屋なんだろう。いかにも『富裕層』という雰囲気があって、なんとなく落ち着かない。

「律さん、こっちですっ」

「あ、うん」

 目の前の大きな扉を開けて、更紗が中へと促してくれた。ありがたく足を踏み入れる。おそらく玄関であろうこの場所だけで、いま住んでいる部屋がふたつくらいは入るんじゃないか。いや、考えるだけ虚しくなる。やめよう。

「靴はそのままで大丈夫ですからねっ」

「……わかった」

「そうだ、飲むもの用意してきますねっ。何がいいですかっ?」

「ああお気遣いなく……ありがとう。じゃあ、あったかい緑茶かコーヒーだと嬉しい」

「わかりましたっ!こっちの部屋で待っててくださいねっ」

「うん」

 こっち、と示された扉を開けてみる。うん、広い。わかりきっていたけどまあ広い。あと眺めがいい。一面ガラス張りになっていて、眼下には普段生活している街並みが続いていて。晴れた日の昼間だったらさぞ遠くまで見渡せることだろう。ちょっと楽しそう。

「お待たせしましたっ!コーヒーと緑茶、どっちも持ってきましたよっ」

「ありがとう。でもこの時間に飲むには微妙なチョイスだったかもね」

「確かにっ。別のものにしますかっ?」

「ううん、大丈夫。なんでか知らないけど、コーヒー飲むとちょっと眠くなるんだよね」

「へええ不思議っ。あっどうぞお座りくださいっ」

 更紗に促され、ひとり掛けのソファに腰掛けた。ふかふかで座り心地がいい。右側四十五度の位置に座った更紗と、マグカップをそっと合わせて口に運ぶ。

「……あ、これ美味しい」

「ほんとですかっ」

「うん。いままで飲んだコーヒーの中で一番好きかもしれない」

「わああそれはよかったですっ!」

 うん、ほんと美味しい。あとでどの豆をどんな風に淹れたのか聞こう。

 ひと息つくと、更紗が口を開いた。

「えっと、お仕事の内容は、ほんとにさっきご説明した通りなんですけどっ」

「うん……ほんとあれだけなんだね」

「そうなんですっ。でも、やっぱりあれじゃわかりにくいと思うので、よかったら律さん、いまからお試ししてみませんかっ?」

「お試し?」

「はいっ!実はもう夜だったりするので、律さんが眠るまでそばにいて、安心感をご提供しますっ!」

「……え、もうそんな時間なの」

 更紗の言葉に、慌てて時計を探す。右側の壁にかけられていたそれは、午後九時を指そうとしていた。ついさっきカフェインがどうの、とか気にしていたけど、ここまで遅いとは思わなかった。ああでも、そういえば今日家を出てきたのは夕方も遅い時間だったっけ。さっきの窓からの景色も日はとっぷり暮れてたし。

「もしよかったらお布団もお貸ししますよっ」

「いや、それはさすがに」

「じゃあどこで寝るんですかっ……?」

 そんな子犬みたいにつぶらな目で見ないでほしい。垂れ下がる耳としっぽの幻覚が。

「わ、わかった」

「えへへー。それじゃあこっちの部屋にどうぞっ」

 よくわからないけど負けた気がする。たぶん気のせいだけど。

 案内してくれた部屋はやはりとてつもない広さで、置かれているベッドも、おそらくキングサイズなのだろう。ここにひとりで寝ているのだとしたら、さみしくて眠れないのは、更紗の方ではないだろうか。

「ここ開けるとバスルームがあるので、よかったらシャワー浴びてくださいっ。着替えも一応あるのでどうぞっ」

「う、うん、ありがとう……」

 至れり尽くせりというか、なんというか。言われた通りに扉を開けて、シャワーを浴びることにした。ホテルのような感じで脱衣所と浴室があり、化粧品やドライヤーなども揃えられている。本当にここ家か。

 あたたかいお湯を浴びて、先ほどまでよりも気がゆるむ。シャンプーもボディーソープもいい匂いだし。入浴という行為そのものがあまり好きではないけど、今日は少し気分がいい。久し振りに、本当に久し振りに気持ちいいな、なんて思ったような気がする。

 脱衣所に置かれていたルームウェアを拝借して、濡れた髪を乾かす。なんでサイズがぴったりなんだ。更紗には大きすぎるだろうに。

 ベッドルームに戻ると、どこか別の場所で入浴を済ませてきたらしい更紗がネグリジェに着替えてベッドの上に座っていた。ツインテールになっていた金茶髪がほどかれていて、幼かった印象が少し変わる。まあ可愛らしいことには変わりないか。

「おかえりなさい律さんっ」

「うん、お風呂ありがとう」

「いえいえっ」

 ぽんぽん、と右隣を叩く更紗に従って移動し、隣に腰かける。スプリングめちゃくちゃ効いてるなこのベッド。やっぱりホテルなんじゃないのかここの部屋。

「さっきのコーヒー、淹れ直してきたんですっ。どうぞっ」

「ありがとう、いただくよ」

 やっぱり美味しい。何か特別なことしてたりするんだろうか。いい豆使ってるとかかな。ありえるな。

「……さて、本題なのですがっ」

「うん」

「眠るまでおそばに、とは言いましたが、初対面の相手がいると寝るに寝付けないと思うので、少しおはなししませんかっ?」

「おはなし、かあ」

「はいっ。律さんが話したいことでもいいですし、話してほしいことがあればおはなししますしっ」

 なるほど。自分のことを話すのはあまり得意ではない。そもそもあまり好きではないから滅多にしないのだけど。

 何故だろう、更紗には、聞いてほしいと思った。

「じゃあ、少し聞いてもらえる、かな」

「もちろんですっ!」

「ありがとう。面白くもなんともない、ただ長ったらしいだけの話なんだけどね」

 保身のための言い訳なんて馬鹿らしい。そう思いつつ、いまから話す内容を思うと、そう口にせずにはいられなかった。

「子どもの頃、というかまあ、両親のことなんだけど」


 ──母は、笑わない人が好きじゃなくてね。店員さんとか近所の人に対しても、あの人はいつも仏頂面だ、とか、作り笑いで気味が悪い、とか、まあそんなようなことばかりを言う人だったんだ。今日話しててもうわかってるかもしれないんだけど、昔からこんな風に愛想のない子どもでさ。笑顔が身を守ることもあるって知らなかったんだよね。だから母にはずいぶん嫌われていたと思う。否定されたり罵られたり暴力を振るわれたりすることこそなかったけど、ずっと避けられていたし、褒めてもらったことは一度もなかったし、頭を撫でられたり抱きしめられたり、そんなことをしてもらったこともなかったな。

 中学に入って、確か二年生の時だったかな、父とふたりで買い物に行ったんだよ。母の誕生日プレゼントを買いにね。父は、母のように避けたりせずきちんと話を聞いてくれる人でね。学校はどうだ、とか、勉強にはついていけてるか、とか、やりたいことは出来そうか、とか。本当によく気にかけてくれてさ。その日も、父との間に会話がなくなることってほとんどなかった。

 プレゼントを選び終わって、喜んでもらえるといいねなんて言いながら電車に乗って、駅からの帰り道を歩いててさ。家まであと少しってところに、わりと大きめの交差点があるんだけどね。そこで信号待ちをしてたんだよ。そしたらさ、遠くから悲鳴が聞こえてきて、見てみたらそっちの方向からすごい勢いで突っ走ってくる車がいて。やばい、逃げなきゃ、なんて思ってるうちに突っ込まれて、気付いたら病院のベッドの上だった。ニュースで知ったんだけど、ほんととんでもない事故だったみたいなのに、右腕の骨を折ったのと、全身の打撲とすり傷とか切り傷とかですんでたんだよね。不思議だよね。

 ──父がね、かばってくれたんだ。自分の命よりも、娘の命を優先して、守ってくれた。

 その日から、母にはますます避けられてしまって、彼女の涙を見る日も多くなって、母をくるしめているのが本当につらくて、父の命を奪ってまで生きているのが申し訳なくて、一日でも一時間でも一分でも一秒でもはやく消えてなくなってしまいたくて、だけどそれじゃあ命をかけてくれた両親への侮辱になる気がして、だからせめてこれ以上くるしめたくなくていまは家を出て母とは連絡を取らずにひとりで生活してるんだ。


「……まあ、そんな感じ」

 我ながらつまらない話だ。こんなものを長々と、文句ひとつも言わずに聞いてくれる更紗に謝らなければならない気がして、ごめん、と呟いてみた。

「律さん」

「ん?」

「あのね、我慢は、よくないんですよ」

 さっきまでの快活な口調とは打って変わって、落ち着いた大人びている話し方。目の前にいるのは間違いなく更紗で、八つも歳下の少女なのに、まるで歳上のお姉さんに諭されているような。

「律さんはとってもえらいです。ひとりで頑張れてすごいです。家族を亡くした時の気持ちは、痛いほどわかる、つもりです。だからそうやって乗り越えようとしている律さんは、本当につよい人だと思います。だけどね、泣きたい時は泣いていいし、泣いてしまうことを、責めることなんてないです」

 更紗の小さな手が、髪に触れる。

「泣いても、いいんです」

 こんな歳になってまで情けない。そう思うのに、いまはこの小さな手に、何もかもすべてを、委ねたくなってしまった。

 これまで生きてきた中で一番優しさを感じられて、そしておそらく初めて、頭を撫でられる。たったこれだけ、それだけで『安心感』を覚えるのには十分すぎるくらいだった。

 すうっと遠のいていく自分の嗚咽が、身体と一緒にあたたかなものに包まれているような、そんな気がした。


 ばっと飛び起きる。見慣れた天井、見慣れた目覚まし時計、見慣れた布団カバー。

「……夢、か」

 気持ちとは裏腹に、今日も一日が始まってしまったらしい。靄がかかったようにぼんやりとした頭を軽く振って、身体を起こす。ずいぶんと現実味のある夢だった。いつも以上に夢見の悪い夜だったから、本来の行き先からは遠く離れた場所に目的地を設定する。つまりずる休みだ。たまにはいいよな。

 天気予報によれば今日は快晴、季節外れに暑くなるらしい。それなら厚手のシャツを羽織ることにしようか、と少し気分が上がるようなことを考えてみる。白のタンクトップに濃い色のデニムを合わせて、羽織るのはワインレッドと黒、紫のチェック柄のシャツ。服を選ぶのは嫌いじゃない。残念ながら、気持ちを上向けるのは失敗してしまったけど。

 黒いキャスケットを被って家を出る。最寄り駅までは十分もかからない。太陽が眩しいから、逃げるようにさっさと歩く。まったく、予報通り憎たらしいくらいにいい天気だ。晴れは、自分の心の暗さを実感させられるから得意じゃない。日にも焼けるし。

 駅に着いて改札を抜ける。ちょうど向かう方向の電車が来ていた。この時間にしては空いている車内を見回して、席に座る。暑くなると予想されているからか、冷房が強めにかかっていて、ちょっと寒いかもしれない。まあいいか。

 電車に乗ると、どうしてもうとうとしてしまう。気付いたら三十分が経って、目的地に到着しようとしていた。快速のこの電車で乗り過ごすと次に降りられるのは六駅も先だ、危なかった。改札を出れば、すぐ目の前に広がるのは見渡す限り空と海。潮風が心地よく吹き抜ける、絶壁が作り出した自然の展望台だ。嫌なことがあるとここでぼんやりと海を眺めることにしている。

「気持ちいいなあ……」

 雲ひとつない真っ青な空と凪いだ海を見ているといつもは気持ちが和らぐのに、どうしてか今日は泳ぎ出したくなってしまって。いまならどこまでもいける気がして、風に乗って大きく一歩飛び出した。


 ばっと飛び起きる。見慣れた天井、見慣れた目覚まし時計、見慣れた布団カバー。夢オチの夢とか勘弁してくれ、朝から無駄に疲れる。

 「……くそ」

 胸糞悪いったらありゃしない。こうなったらそっくり夢をなぞってやろう。

 まずは天気予報を見る。快晴、季節外れの暑さ。夢の通りだ。クローゼットから白のタンクトップと濃い色のデニム、それからワインレッドと紫と黒のチェック柄のシャツを出す。着替えたら黒いキャスケットを被って家を出よう。きちんと、本来向かうべき場所へ。

 玄関を開けて、一瞬にしてうだるような暑さがまとわりついた。うんざりするような陽射しの中を、無心に歩く。

 ふと、道端の掲示板に貼り出されたポスターが目に入った。

『急募!安心感!』

 ──これは、夢じゃなかったのか。

 驚いて掲示板へと駆け寄る。すると、どこからかふわりと揺れる金茶色のツインテールがひょっこり飛び出してきた。小柄な少女の、ぱちぱち瞬く大きな栗色の瞳。

 ああ、夢じゃない。夢なんかじゃない。絶望の中に輝く光。この偶然は、まぎれもなく現実だ。

「お兄さんお兄さんっ、このお仕事に興味がありますかっ?」
















楽園・・・パラダイス。カクテルの一種。カクテル言葉は「夢の途中」。

オーロラ・・・カクテルの一種。カクテル言葉は「偶然の出会い」。

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