第8話 清水

 

 その日は来た。


 ○ ○ ○


 星明かりの夜であった。


 祭の夜は明かりを落とすのが習いとあって、あたりはしんしんと暗い。

 なにもかもが影になるとっぷりと濃い夜のなか、ただ一所篝火の灯る境内は人いきれに満ちている。

 まだ演者も上がらぬというのに、影らは少しでもよい場所を取ろうと舞台の前にひしめき合っていた。


 赤々と照らされた空っぽの舞台は、そ知らぬ顔でぽうと闇に浮かんでいる。

 その様子を、嘉一郎は僅かに離れた場所から遠目に眺めていた。


 蝋燭にたかる羽虫のようだ。

 思いはすれど、口にはしなかった。

 まま語れば顰蹙ひんしゅくを買うと知っている。

 眉をひそめる人々の、感情の機微は理解出来ずとも。


 どうやら己の感覚は世間からずれているらしい。

 嘉一郎がそうと察したのは、今よりずっと幼い時分のことだ。


 嘉一郎はひとのこころがわからない。

 言えと言われて口にした言葉を、窘められる理由がわからない。

 目をかけられただの疎まれただの、他者の行動に一喜一憂する情動が理解できない。


 そんな少年を、周囲は皆不気味がった。

 気味悪がられることにも疎まれることにもさしたる感慨はなかったが、不便ではある。

 不便であったから、嘉一郎はわからぬなりに擬態することをおぼえた。

 観察していれば、状況にあわせたそれらしい反応を学習することはできる。


 視線、声の高低、一瞬の表情。使う言葉の偏り、社会的立場。

 そういう諸々を勘案して導き出される望み通りの答えをかえしてやれば、周囲は皆あっさりと態度を変えた。


 極端に共感性の薄い言動を除けば、嘉一郎は優秀な青年であった。

 もとより飲み込みのよい男である。

 大抵のことは人並み以上にこなせたし、こなすための試行錯誤は苦ではなかった。

 正解のある勉学や明快に勝敗のつく武道は、複雑怪奇な人付き合いよりよほど身に馴染む。


 馴染むままに打ち込めば、打ち込んだだけ伸びた。

 伸びただけ、周囲の評価も高くなった。


 杢師さんとこの嘉一郎どのは、ひなびた田舎町に捨て置くにはあまりに惜しい麒麟児よ。容姿は端麗、学問にも武道にも真摯に打ち込み、最早ここで右に出るものはない。ヤアまったく、あれを息子に持てるとは大した果報者だて。


 嘉一郎は素直だ。嘉一郎は聡い。嘉一郎は篤実。

 嘉一郎は。


 紋切り型の正解を投げ返すだけのつまらない男は、周囲の人間にはそのように映るらしかった。

 彼の周囲には人があつまった。同じだけ、思惑も渦巻いた。

 友達だよな。期待している。わかってくれるでしょう。お前のためだぞ。


 だから、嘉一郎。

 おまえならば。


 ──不快だった。


 嘉一郎には彼らの期待がわからない。

 独りよがりな幻想の型を押し付けてはやれあちらがはみ出たこちらが足りぬと騒ぎたてる、その神経がわからない。


 だから。


『おい』


 しゅうと掠れた声に、物思いに沈んでいた意識が浮上する。

 目を向ければ、どこもかしこも真白い少年が、闇に紛れてじっと嘉一郎を見上げていた。


『はじまるようだぞ』

「そのようですね」


 期待に満ちたささめきが、ぱつん、と途切れた。

 音もなく持ち上った揚幕の向こう、小さな影が姿を現す。

 周囲は人の熱に満ちながら、あまりにも静かだった。

 かすかに息を飲む音すら耳に届く。

 舞台前には、静謐な熱狂が満ちていた。


 影がゆったりと顔をあげる。

 さらりさらりと黒髪が流れ、うつむいた顔には女面。

 瞳の金泥が、焔を照り返して妖しく煌めいている。


 その姿に──嘉一郎は、わずかに違和感を覚えた。

 あの姿、なにかが引っ掛かる。だが、なにが──

 意見を聞こうと見下ろした先、酸漿ホオズキの眼が明後日の方角を見つめている。

 その瞳が、きゅうと絞れた。


 瞬間、ふつ、と薪がすべて吹き消えた。

 そちこちで上がったちいさな悲鳴が、打ち寄せる波の如くに伝播して砕ける。

 空はいつの間にか暗く翳り、星も月も見えない。

 そうと知れぬうちに、真正の闇に包まれていた。


「蛇神殿」

『なにかがくる』


 得物を包んだ竹刀袋はとうに払い落としている。

 嘉一郎は怪異の気配を感知しえない。外法の術理がわからない。だが。

 視線、声の高低、一瞬の表情。手がかりさえあれば、然るべき反応を学習することはできる。

 嘉一郎には、それができる。


「どこから」

『上だ』


 赤い酸漿の瞳が忌々しげにすがめられる。

 おかしい、と呟く声を、嘉一郎は捉えている。


「何がおかしいんです」

『穢れが満ちるのが早すぎる。

 こんな……突然、特大の呪いをぶち撒いたかのような、』


 なにに感づいたか、少年は唐突に舌打ちをした。

 燃える瞳が舞台を睨む。


『確かめることができた。

 おれは今からこの場を離れるが、構うまいな』

「ええ。この場についてはご心配なく。もとよりボクの仕事です」


 白蛇の姿が、夜に溶ける。


 ひーい。ひょーう。


 鳥が鳴いている。

 今度は、嘉一郎の耳にも届いた。


 獲物の気配に、無銘の霊刀はちりちりと鞘を鳴らしはじめている。

 覆いを外され血気に逸る猟犬を宥めるかの如く、嘉一郎は柄を撫でた。

 一面の闇はむしろ都合がよい。真剣の閃きを見咎められずに済む。


 乾いた唇を舐める。

 興奮に血が沸き立つ。


 嘉一郎には怪異がわからぬ。

 ひとのこころがわからぬ。


 わからぬから、真似ぶことをおぼえた。

 同調し共鳴し、一体となることをおぼえた。

 この瞬間、嘉一郎はただ一振のつるぎである。


 ○ ○ ○


 夢を見ている。

 見知らぬ誰かの腕に抱かれている、そういう夢を見ている。

 そう認識する自我とは別に、夢の中の意識は浅くまどろみにある。


 低く、読みきかせの声が聞こえていた。ぬくい女の声だ。

 あいまに、時折紙のめくれる音が挟まる。

 それを聞く夢の中の己は、今より随分と幼いようだった。


 閉じかけた瞼を透かして届く薄明かりに、今を昼下がりだと認識する。

 柔く、暖かな女の腕に揺られ、むにゃむにゃ反芻めいて口を動かす。

 声が途切れ、くすくすと圧し殺した笑い声がきこえる。

 眠ってしまったの。赤ちゃんの頃みたいね。

 女が囁く。


 夢を見ている。

 失われた人の、ありし日の姿を夢見ている。

 もう記憶すらさだかでない、はるか遠き日々。


 うすく押しひらいた瞼のあいだにうつるのは、長くを過ごしたあの八蘇の納屋だ。

 薄暗がりに舞い散る埃が、ちいさな明かり取りから差し込む日に光る。

 幼い己は、ここがどこより安全だと知っている。

 あらゆるものから守られると信じきっている。

 


 やさしい指先が前髪をすく。

 それが心地よくて、またうとうとと目を閉じてしまう。

 己を膝に抱えた女はまた笑って、それから囁く。


 ねえ。もうすぐあなたはすべてを忘れる。

 でも、これだけはおぼえていて。

 あなたはしあわせになるの。


 しあわせに。


 ○ ○ ○


「起きて」


 冷えた女の声に肩を揺すられて、娘は目を覚ました。

 舞の衣装を着たまま、眠ってしまっていたようだった。

 暗い室内を、女の持つちいさな手燭だけが照らしている。

 見覚えのある顔だった。


「青女さん、」

「起きたわね。惚けている時間はないわ。立って」


 夢の女ではない。そのことに、どこかで落胆をおぼえていた。

 促されるまま、白くたおやかな手をとって、身をおこす。

 埃と黴の匂いに混じって、ふっと花の香が薫った。


「……ここは、一体?」

「静かに。移動しながらながら話すわ。いそいで」


 青女の後ろには、天井まで伸びた太い木格子が見えた。

 部屋をまっぷたつに分かつ囲いの手前、檻の内には畳が延べられている。

 恰も書斎の如く文机やちいさな引き出し箱すら備えられているが、窓も扉もない。

 かわりに、いかにも頑丈な格子の向こう、天井から吊り階段が延びていた。


 座敷牢という言葉を、奈緒は知らない。

 それでも、これがひとを閉じ込めるためのつくりであるのはありありとわかった。

 ただしその木格子の背の低い出入り口は、今はちからなくひらいている。


「あの、今からどこへ行くんですか」

「ここに来るまで何があったか、覚えてる?」


 前をゆく女の背を追って、木格子をくぐり抜ける。

 青女の問いに、奈緒は記憶を辿った。確か。

 確か、己は舞台の出番を待って、控えの間にいた。


 当日には顔を出すと聞いていた青女の姿が見えないのは気にかかったが、

 外の喧騒がいやでも耳に入って、緊張で喉が乾いていた。

 だから清子の持ってきてくれたお茶がとてもおいしくて、


 ──そのあとから、記憶がない。


「控えの間で、出番を待っていたところまで、です。

 清子さんの持ってきてくれたお茶を飲んだあとから、なにも」

「そう。なら、少なくとも清子に嵌められたことまでは判っているのでしょう。

 彼らは帝都の目を欺いて、あなたをこの地に留めるつもりでいる。

 この状況も勿論、あの娘ひとりの手引きではないわ。


 青女の言葉は簡潔にして明瞭だった。


「だから、今ならあちらも手一杯。

 あなたを逃がすには今しかない」


 吊り階段が軋む。

 抜けた先は、宿泊していた大宮の屋敷である。

 そこに灯はなく、人の気配もない。

 ただ、塗り込めたような重苦しい空気だけがあった。


「青女さん」


 奈緒の声に、先をゆく女は足を止めた。

 柳の如くしなやかな肢体が、暗がりにゆらりふり返る。


「なに」

「わたしを、逃がすおつもりなんですか」


 女は半身のまま、瞬きひとつせずに娘を見つめていた。

 手燭の灯りを受けた瞳は、祭の女面にも似て金色に揺らめいている。

 返答は、ない。


 だから代わりに、奈緒は言葉を続けた。


「少しだけ、思い出したことがあるんです。

 いちど交わした約定は、決して破ってはいけませんよ。

 わたし、確かにそう言いきかせられて育ちました」


 記憶の彼方に、おぼろげに思い出される声が確かにある。


 いちど交わした約束は、決して破ってはなりませんよ。

 わたし護児と交わした約束は。

 なぜなら。


 青女さん──あなたは、あなただけはご存じだったんでしょう。

 護児との約束ごとを破ったらどうなるか」


 水底の澱に包まれたかの如く、空気が重苦しい。

 それは娘が目覚めてからずっと、感じていたことだ。

 奈緒にもありありとわかるほどに、この地はいま、穢れている。


 そのくせ、寝起きの体はおそろしく軽かった。

 背負っていたものを、知らぬうちに全て下ろしていたかのように。


 沈黙を保っていた女が、口を開いた。


「今、見嶋浜で起きていることを、あなたが気に病む必要はないわ。

 経緯はどうあれ、大宮が約定を破ったことにかわりはない」


 それは、ほとんど肯定したのと変わらない答えだ。


 恐らくいま、この屋敷の外では何かが起きている。

 約定破りによって奈緒の身より溢れ出た呪詛が、かたちを成そうとしている。

 嘉一郎の助けは期待できないだろう。あちらは今、手一杯のはずだからだ。


 まっすぐに、目の前の女を見る。

 考えなければならない。

 己がなにをすべきかを。


 女は、静かに言葉を続ける。


「あの子が帝都に招かれたとき。

 彼女は、彼らと共にいけば、遠からず死ぬと知っていたわ。

 彼らもそうとわかっていて、それでもうねを連れていった。

 二度、同じことをさせるつもりはない。あなたを守ると、約束したの」


 あの子と。これが、最後の。


 ○ ○ ○


 闇に沈んだ舞台には、所在なさげにたちつくす白い面の女がひとり。

 暗闇にぽうと浮かぶその細い影を、嘉一郎の抜き放った銀閃が薙いだ。

 切り捨てたのは女──の、背後に迫った黒い影。が、浅い。


 大きく飛び退った何かは、境内を囲む松林の上にわだかまった。

 その影がまた、ひょーう、と声をあげる。物寂しく、浅ましく、薄ら寒い声だ。

 聞く者が聞けば、それが万物万象に向けられた呪歌だとすぐに知れただろう。


 ひょーうにくい、ねたましい、ひーいずるい、くちおしい、……


 だが、ここにあるのは他ならぬ嘉一郎であった。

 男にはわからない。己に向けられる、嫉妬も、執着も、怨恨も。

 無差別に撒き散らされる怨嗟など、頬を撫でる微風に等しい。


 わけもわからぬまま呪いにあてられている群衆を尻目に、さて、と嘉一郎はひとりごちた。

 出立前、密かにと言いつかった時から予感はあったが、蓋をあけてみればこれだ。

 どうせあの狐男のこと、もののついでにこの土地の膿み出しをさせようという魂胆であろう。


 嘉一郎は己の持てる手札でこの場をおさめる必要がある。

 そのために、ひとまずは祓の要となる背後の女を守り抜かねばならぬ。

 たとえそれが、帝都から来た娘ではなくとも。

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大照妖異譚 おおひら なみ @ohiranami

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