第7話 道成寺
三日目の練習に、青女は姿を現さなかった。
所用で祭り当日まで手が離せないのだという。
奈緒の練習もあとは完成度の問題で、いささか寂しくはあるが彼女が居らずとも支障は無い。
しかしながら、休憩時間には閉口することになった。
青女という無言の圧を失ってある種の箍が外れたか、宴の時のように囲われそうになったのである。
それをどうにか振り切り、人目を避けて木陰に寄りかかれば、涼しい風が火照った体から熱を奪う。
事前に打ち合わせていたとおり外庭の片隅で、奈緒は嘉一郎と落ち合っていた。
「それで、まあ」
同じように木陰に身を寄せた嘉一郎が口を開く。
着物の袖丈が微妙にあっていないのは、それが昨日の借物だからか。
その骨張った手首を見るともなく眺めながら、奈緒はあの熱っぽい目を思い出していた。
「昨日、清子さんから聞き出した内容ですが。
まあ、青女殿の話とほとんど変わりませんね。
裏取りができたと思えば無駄ではないですが」
嘉一郎が清子から聞き出した話は、こんな内容である。
うねなきあと、モリゴ代役には分家の傍流にもかかわらず青女が選ばれ、長く覆らなかった。
このことを、清子の母はいたく屈辱とした。
本家の娘である自分を差し置いて、分家の娘がモリゴだのなんだのとちやほやされていたことすら腹立たしいのに、その目の上のたんこぶが失せてなお、片親なしの傍流風情が自分より重んじられようなぞ、どうして耐えられようか。
彼女の憤懣は青女に、そしてモリゴという役割に向かった。
彼女は自分の身内からモリゴ役を出すことに腐心するようになったが、モリゴとそれに向けられる信仰にはむしろ軽蔑の眼差しを向けた。
そのあからさまな態度が、さらなる反発を呼んだのは当然と言える。
結果として、彼女の願いは久しく叶わなかった。
今年、清子がモリゴ役を務めることになったのは、真実ようやくの事であったらしい。
清子が奈緒に辞退を願いにきたのは、この母のためであった。
「まあ、そういうわけなので。
青女さんが手紙で“気を許すな”と伝えてきたのはこの方のことでしょう。
盛綱殿も対策済みですし、そう心配しなくても良いのでは」
それより練習の進捗具合は如何ですか、と尋ねられて、奈緒はうっと言葉に詰まった。
手順も動作も頭に入ってはいる。
だが通しでやろうとすると洗練とはほど遠く、しょっちゅう間違っては動きが止まる。他の儀式はともかく、特に舞はひどい。
面をつけることで視界が変わるの理由のひとつだろうが、音に合わせようとすればするほど、焦って次の動きがすっぽ抜ける。
立ち止まって冷静になれば思い出せはするのだが、無論当日の舞台でそれができるわけもない。
そしてその当日は、早くも明日に迫っているのだった。
「嘉一郎さま!」
ふと上がった弾むような声に顔を向ければ、少し離れたところに清子の姿があった。
奈緒の脳裏を、昨日の印象的な一幕が過ぎる。
彼女は何か、嘉一郎に話があるのかもしれない。
であればきっと、己はこの場にいない方がいいだろう。
そっと広間に戻ろうとした奈緒を、しかし他ならぬ嘉一郎の手が阻んだ。
「待ってください。勝手にどこへ?」
「えっと……練習に戻ろうかと」
「ならボクも行きますよ。誰の護衛だと思ってるんですか」
それは、その通りなのだけれど。
そうこうしているうちに、清子はすぐ側までやってきていた。
ここにきてようやく奈緒の姿に気づいたらしい娘は、少し身構えるようなそぶりを見せた。
おどつきながらも奈緒に小さく目礼して、嘉一郎を見る。
「あの……嘉一郎さま。
改めて、昨日は本当にありがとうございました」
「いいえ、大したことはしてませんよ」
嘉一郎を見上げる清子の頬は薔薇色に上気し、瞳は夢見るようにうっとりと潤んでいる。
そんなやりとりの脇で、奈緒は妙にいたたまれない心持ちになっていた。
出来れば今すぐ立ち去りたい。理由はよくわからないけれど。
「それで、何かご用ですか」
「いえ、用というほどのことは……。
ただ、姿をお見かけしたので、お礼をいわなくてはと思って」
「そうですか」
会話が途切れる。
もじもじと立ちつくす清子に、嘉一郎は特に助け船を出す気もないようだった。
そもそも彼は、清子の熱量に気づいてすらいないのではないかと思われた。
「では、ボクたちは戻りますので」
「あ、……はい、」
娘がしゅんと気落ちしたのが、手に取るようにわかった。
踵を返し、とぼとぼと歩み去ろうとしている娘の小さな背はひどく頼りない。
それも当然だった。あの練習場所に、彼女の居場所はない。
「あ……あのっ、清子さん」
気づけば、奈緒は口走っていた。
「モリゴ役をやるご予定だったんですよね。
だったら、わたしにモリゴ役の指導をしてはいだだけませんか」
いきなり話しかけられた清子は、話が見えていないのかきょとんとしている。
勢い任せに、奈緒はいいですよねと嘉一郎に畳みかけた。
彼の返事は、いいんじゃないですか、という実に平坦なものだった。
○ ○ ○
広間に奈緒と清子が揃って姿をあらわしたことで、場は少しばかりざわついた。
ひそひそと言葉は囁き交わされたが、奈緒に直接文句をつけにくる者はない。
結局、清子が誰かに当たられる事もなく、平穏に練習が再開したのを見て、奈緒は密かに悔やんだ。
昨日のうちに、こうしていれば良かったかもしれない。傲慢かもしれないが。
練習の最終日とあって、今日は面をつけての通しである。
眼に金泥の施された女面をつければ、視界は大きく制限される。
見えないことで出来ていたはずの動きがわからなくなって、足は頻繁に止まった。
そんなふうに戸惑ったところで的確に次の指示をくれる誰かがいるのは、やはりありがたい。
特に清子は奈緒と背格好もそう変わらぬとあって、手本として示される動きは細かなところまで真似やすかった。
「──ええ、結構です。すごいわ、奈緒さん。
もうほとんどできてますもの」
「ありがとう、ございます」
面を外し、ふは、と息をつく。
ほつれた髪が頬にかかって、ぴたりと肌に張り付いた。
少し休憩なさっては、という勧めに従って壁に寄りかかる。
生ぬるい木の板に背を預ければ、息は次第に落ち着いた。
暫しぼんやりしていると、横から冷えた茶が差し出された。清子である。
「あ……すみません。ありがとうございます」
「いいえ。お疲れでしょうから、どうぞ」
ありがたく椀を受け取って、口に含む。
ごくりと嚥下すれば、麦茶の香ばしさが鼻を抜けた。
乾いた体に染み入るような旨さだった。
あっという間に空になった椀に、おかわりが注がれる。
「ありがとうございます。
あの、清子さんも座られませんか」
「えっと、……はい」
清子は少し迷ったあと、茶の入った薬缶を隅に置いた。
それから、奈緒のそばに遠慮がちに腰を下ろす。
娘の横顔は、奈緒の顔とほぼ同じ高さに来た。
「あの、」
清子がおずおずと口を開いた。
どこか思い詰めたような目が、ひたと奈緒を捉える。
「ごめんなさい。
母の我が儘で、お役目に水を差すような真似を」
ずっと謝らなくてはと思っていたのですけれど、と囁く娘の言葉に、奈緒は驚いて首を横に振った。
「そんな、謝られることなんて、何も」
盛綱や他の人間が先回りして対策していたためではあろうが、実際、彼女の母とやらの暗躍は、いまのところ全く予定の妨げになっていない。
精々、練習の場が少し騒がしくなった程度のことだ。
むしろ、謝罪しなくてはいけないのは無茶をねじ込んだこちら側ではないだろうか。
とはいえ、奈緒自身は見嶋浜との話し合いの内容なぞつゆほども知らぬ身である。
責任も取れぬ立場の人間が、代表面で迂闊なことを口走る訳にもゆかない。
ただせめて、モリゴ役のことで彼女に罪悪感を抱いて欲しくはなかった。
そうでしょうかと言う清子に、そうですと強く言い張る。
納得はしていないようだが、清子はすこし肩の荷が下りたようだった。
それにほっとして、奈緒は再び麦茶に口をつける。やはりうまい。
「ところで、あの……」
もじもじと、娘は指先を捏ねている。
そして、話はかわるのですけれど、とおもむろに口をひらいた。
「お二人は……杢師さまとは、どのようなご関係なのでしょう?」
思わず奈緒はこふっと噎せた。
含んだ麦茶が妙なところに入る。
無言で胸を叩いて息を落ち着けながらも、内心はひどく騒がしかった。
返事を待つ清子の眼差しは至って真剣である。
幸いにして、囁き声が聞こえるような距離に人はなかった。
「……ええと……見届け人というか、付き添い? のかた、です。
人に頼まれてついて下さっているだけで、私的な関係は何も」
「そう、ですか」
ようやく息を整えて答えた奈緒に、清子はほうと息をついた。
どこか安心したような、残念なような顔をしている。
「あの、……不躾ですけれど、どうしてそのような質問を?」
「ええと……いえ……。
大したことではないのですけれど、どんな方なのかしらと……思って」
親しくていらっしゃるのなら、色々教えて頂けたらって。
そう言って、清子は恥ずかしげに目を伏せた。
表情の暗さに誤魔化されていたが、清子の顔だちはすっきりと美しかった。
牡丹や芙蓉の華やかさとは違う、菫のような、瑞々しく控えめな美である。
外光に照らされて、その横顔はうっすらと燐光を発しているようにも見えた。
「すみません。こんな、こそこそ人を探るような真似を。
はしたない、ですよね」
「そんなことは、……ないと、思いますけど」
奈緒は別に、恋する女を見るのが初めてというわけではない。
これまで出会った中で言えば、それこそ笈山天神の多和などがそうだっただろう。
ただ、あのときは熱っぽく語られた愛の言葉も、そうか、と思っただけだった。
けれど、今は。
清子の眼差しは相変わらず、この場にあってどこか遠くを見つめている。
その夢見る瞳が、しきりと奈緒に、何かを思い起こさせようとしていた。
引きずられるようにこの胸のうちに広がる、どこか甘いざわめきは何だろう。
どこかへちからいっぱい駆け出して大声で叫びたくなるような、この強い衝動は。
「杢師さまのことをお知りになりたいのなら、
わたしよりご本人にお訊ねになった方がいいかと」
そんな胸の内を誤魔化すように、奈緒は言った。
そうですよね、と頬を染める娘の姿はいじらしい。
胸のむずむずが強さを増して、奈緒はいっそう落ち着かなくなった。
清子が、決意を秘めた目で顔を上げる。
「わたし、勇気を出してお訊ねしてみます。
だって、帝都に迎えに来て下さると言って下さった方ですもの」
娘は清いかんばせに花のような微笑みを浮かべる。
清子の言葉に、奈緒は一瞬、強い違和感を覚えたような気がしたが、
それは胸中の混乱に押し流されて、そのうち忘れられた。
○ ○ ○
その晩部屋に戻ってからも、奈緒は最後の練習に励んでいた。
明日の今頃はもう本番である。
白熱灯の明かりの下、小蛇をただ一人の観客に『護児』を舞う。
ひととおり舞いおわると、奈緒はこの観客に感想を求めた。
「どうでしょう、カガチさま。
気になるところはありませんでしたか」
『よいのではないか?』
蛇神の返事は、どことなく力ない。
寝台の上に巻いたとぐろも、微妙にくったりとしてみえる。
「カガチさま。もしかしてお疲れですか」
うむ、という返事も、奈緒の耳にはふやけて聞こえる。
隣にそっと腰を下ろせば、小蛇はしゅるしゅると腿を這い上って、膝の上に納まった。
『まあ、なんというか……。
この見嶋浜は、どうにも居心地が悪うてなあ』
「どんなふうにですか?」
『息苦しい。まあ、要は澱んでおるのよ。どこもかしこも、誰も彼も』
そう言って、小蛇はふあ、と大口をあけた。
あかあかとした酸漿の眼も、今はどこか眠たげだ。
『皆そろってカリカリしておるのもそのためだろうよ』
「カリカリ……」
していただろうか? 奈緒は首を傾げる。
どうも人々の態度に違和感はあるが、それはむしろ丁重すぎるくらいであって、特段苛立っていたようには思われない。
だが、そも見嶋浜の人々にとって、己は待ち望んだモリゴ候補である。
ひとり丁重な扱いを受けていたが故に、実感が薄いのかもしれない、と奈緒は思った。
『宴の夜の声を覚えているか』
「ええと……?」
そういえば、カガチは昨日の朝もそんなことを言っていた気がする。
あれこれと思い返してはみるが、そもあの夜は皆が皆好き勝手に喋っていた。
声といわれても、奈緒には特別思い当たるものはない。
ピンとこない様子の娘に、蛇神はまあよいと一言呟いた。
『お前の引き受ける
元を正せば何気ない妬みだの怒りだの、そういう何気ないものなのさ。
諸々の悪意がより強くカタチを成したモノに、穢れだの呪いだのととくべつ名をつけておるだけのこと。
そしてこの土地はいま、そういうさして
蛇神の言葉を理解して、奈緒はぞわりと薄気味悪さを感じた。
見嶋浜の、平穏という薄皮を一枚めくった下にどろついたしがらみと思惑とが蠢いているのには、奈緒も薄々気づいている。
だがそれが、まさか怪異と成り果てようとしているというのか。
「あの、それは杢師さまにお伝えしたほうが?」
『もうおれから伝えてあるとも。だが、なァ。
まだカタチにすらなっていない怪異を相手取るには、奴は相性が悪い。
成り果てるまでは、奴にできることはあるまいて』
そも、穢れが溜まるのはどの土地にも起こること。
特別ここだけの問題ではないさ、と蛇神はいった。
『それに、おれの見る限り、この見嶋浜の祭りは土地の祓としては完成している。
主役がモリゴでなくとも、正しく手順が踏まれさえすれば機能するだろうよ。
そう差し迫った問題ではないとも』
何ぞ特大の穢れでも持ち込まれぬ限りな、という言葉に、奈緒は取りあえず胸をなで下ろした。
祭りは、もう翌日に迫っていた。
○ ○ ○
──夢を、見ている。
繰り返し見る、あの日の夢を。
六月、海開き前の見嶋浜の海岸に
広々とした砂浜に、人影は己と彼女の二つきり。
履物を脱ぎ、まだ冷たい波打ち際に足指を浸してそぞろ歩く、柳のような背を追う。
『ね、内緒よ。約束』
振り向いた娘が、悪戯っぽく笑う。
艶やかな黒髪が潮風に翻る。
『いいわ。約束。
でも、いつか戻ってきてくれるんでしょう?』
『うーん、それは無理かな。わたし、欲張りだから』
娘は──
砂浜に残ったちいさな足跡は波に攫われ、そのうち跡形もなく消えうせた。
『……欲張りなら。
わたしにくらい、顔を見せに来てくれたっていいじゃない』
『できるなら、わたしもそうしたいけど』
くすくす、と軽やかな笑い声。薄い肩は揺れている。
前をゆく娘は振り向かない。足を止めない。
今すぐ追いすがりたいのに、己の足は縫い付けたように止まっている。
背中が、遠ざかってゆく。
『
波の音が大きくなった。
体ごと向き直った大宮の娘は、童女のように笑っている。
彼女は、己が裏切られるなどとは足元の砂粒ほども考えていない。
寄せられるのは無防備に全身を預けるような、傲慢で無垢な信頼。
『ねえ、
きっと、とびきり優しくしてやってね』
きっとよ。
甘く残酷な囁きが、耳の奥に張り付いて離れない。
無邪気で傲慢、天真爛漫な甘え上手。
何もかもを与えられたが故に、何もかもを擲つことを躊躇わぬ女。
──結局のところ。
安達せいにとって、大宮うねは、最後までそういう女だった。
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