第6話 石神

 奈緒と嘉一郎とがどうにか人目を避けて落ち合えたのは、翌朝のことだった。

 許されているのは女中が朝食に呼びに来るまでの僅かな間である。

 朝の清い光の中、嘉一郎の言葉は短く簡潔だった。


「“大宮の人間に気を許すな”……」

「ええ。それから当日ここに出入りした人間を洗い出してはみましたが。

 どうやら、あの日はそもそも、大宮ゆかりの人間しか屋敷を出入りしてない」


 女中もふくめ、濃い薄いはあれみいんな血縁だそうで。

 嘉一郎はそう言ってやれやれと頭を振った。


「とりあえず、周囲には気をつけて下さい。

 ボクもついてはいますが、大宮の人間にも、それ以外にも」

「はい」


 神妙に奈緒は頷いた。

 見嶋浜は帝都まではゆかずとも、大きな港を持つ開けた土地だ。

 だが、そんな町の印象に反して、人から受ける印象はひどく閉じている。


「その。手紙と関係あるかどうかはわからないんですけど、

 昨日の宴も、なんだか変な感じじゃありませんでしたか」

「というと?」


 奈緒の問いかけに、嘉一郎がちいさく首を傾げる。


「全体に、こう……なんだか含みがあるというか、

 大事なことを誤魔化されたような。うねさんの、結婚の話とか」

「ああ。確かに、面倒な空気ではありましたね」


 確信には至らない。

 だが、何かを隠しているのではないか。

 そう思わせるものが、昨日の宴にはあった。


「まあ、当人の意思に反しての陰陽寮入り、ということはないと思いますよ。

 仮にそうだとすれば、任務なんかに出さずどこかに閉じ込めていたでしょうし、

 どこかへ派遣するにしても、監視役なりつけていたはずですから」


 奈緒の疑念を察してか、嘉一郎はそんなことを言った。

 手放して頷けないにしても、その言い分に一定の納得はできる。

 少なくとも失踪に至った案件では、うねは単独で派遣されていた。


 昨日のことというならば。

 膠着した空気に、蛇神の声が割って入った。

 いつの間にか姿を顕した少年が、脇机に頬杖をついて嘉一郎を見つめている。


『おれからも一つ確認したいことがある。

 なア、猫被り。お前、昨晩の声は聞こえていたか』

?」


 嘉一郎が首を傾げる。

 その返答を待たず、ノックの音が響いた。

 時間切れの合図だった。


 ○ ○ ○


 朝食の席には盛綱の姿もあった。

 かちゃかちゃと、食器の擦れる音が響く。


「お口にはあいましたかな」

「えっと……はい。美味しいです」

「それはよかった」


 他愛ない会話に、ぎこちなく微笑み返す。

 盛綱の物腰は初対面の時から変わらず柔らかい。丸眼鏡の奥の眼差しも。

 だが、その彼を信用してよいものかどうか、奈緒は判断をつけられずにいた。

 へばりついた微かな違和感に、手紙が拍車を掛けている。


「ところで、お嬢さん」


 盛綱からの呼びかけに、奈緒は顔を上げた。


「はい。なんでしょうか」

「貴方には、突然のことに聞こえるかもしれませんが。

 今後についてはお決まりですか」

「今後、」


 いつのことだろう。奈緒は首を傾げた。

 祭りが終わるまでは、そもそも彼の指示に従うことになっている。

 ならば、そのさらに後のことだろうか?

 奈緒の疑問に、盛綱はええと大きく頷いた。


「陰陽寮のほうから話を聞かされたときはまさかとも思いましたが、

 こうして直にお会いしてみれば、やはりうねによく似ている。

 失礼ながら、身寄りはないと伺っております。当家においでになりませんか」

「それは……つまり」

「はい」


 盛綱の、目元の皺がひときわ深くなる。

 やはり、そこに悪意は見えなかった。


「養子に来てはいただけませんか、という提案ですな。

 いきなり家族などと言われても、戸惑われることでしょうが。

 しかし、彼女の忘れ形見を捨て置くのはあまりに忍びない」

「ええと」


 奈緒は戸惑いを隠せなかった。

 その一方で、どこか納得している部分もある。

 身寄りを失った親族の娘を引き取ろうというのは何も不自然な提案ではない。

 特に、それが一族にとって大きな意味をもつ血であるならば。


 どう答えるべきか悩んで、ちらり嘉一郎を見る。

 その顔には好青年の表情が張り付いたままだ。

 口を差し挟むつもりはないらしい。

 奈緒は必死に考えをまとめながら、おずおずと口を開いた。


「では、わたしはモリゴで間違いないということですか?」

「それは祭りを終えてみねばわかりませんが」

「だったら、……今は、お答えできないです」


 盛綱がわずかに眉を動かしたのがわかった。

 奈緒はつっかえつっかえ言葉を繋ぐ。


「その……。

 モリゴが見つかったら、帝都でしてほしいことがあるみたいなんです。

 だからその判断がつき次第、わたしはこちらを失礼しなくちゃいけなくて。

 逆にモリゴでないなら、無関係の方にお世話になるのは心苦しいです」


 ははあ、と盛綱は大げさに相槌を打った。

 なるほどもっともな事です、という言葉に、ほっと息をつく。

 それからふと不安になって、奈緒は恐る恐る確認をとった。


「あの、最初のお約束通り、祭りのあとはすぐ送り出していただけるんですよね?」

「ええ。もちろん、お約束致しますとも」


 曇りのない笑みだった。


 ○ ○ ○


 二日目の練習は、まず昨日の復習からはじまった。

 習い覚えた動きをひとつひとつ、思い出しながら順番になぞる。

 習得すべき内容に対して、使える時間はあまりに少ない。


 集中しなければ、と思いながら、それが今の奈緒には少しばかり難しかった。

 視線を少しずらせば、その先には昨日の娘がいる。

 彼女は広い練習場の隅でひとり、うつむき加減に動きを確かめていた。


 本来、この祭りでモリゴ役を務めるはずだった女、盛綱の姪。

 名を、清子きよこという。


 この清子が練習場にあらわれたとき、周囲はあからさまに動揺を見せた。

 消え入りそうな声で、練習に参加するよう言いつかりましたと頭を下げる清子に、戸惑いを見せなかったのは青女ひとりである。

 直接奈緒にその理由を吹き込む者こそなかったが、漏れ聞こえるあたりのささめきを拾うだけで、事情は嫌でも察しがついた。


 曰く。清子の母は盛綱の妹である。

 ただしモリゴが絶えたとされていることからもわかるように、同腹ではない。

 モリゴであった本妻の死後、大宮本家に迎え入れられた後妻の子である。

 これは元々妾であった女が、繰り上がるような形で大宮に入ったものであった。


 妾も後妻も、時勢柄、家柄を鑑みれば殊更珍しい話ではない。

 せいぜい一時、世間話の種になって終わるような話だ。


 だが、モリゴであった先妻の死後、他ならぬ大宮の当主が間を置かず後妻とその間の娘を迎え入れたという事実は、広く見嶋浜の人々の反感を買った。

 彼らにとって、大宮の権威は職能にあるのではない。財力にあるのでもない。

 その女系に継がれた、モリゴの血にこそあったからである。


 モリゴならざる女が、どうして大宮の刀自女主人として大きな顔をしようというのか。

 たとえその娘が大宮の血を引こうとも、女系でないなら価値はない。

 モリゴである安達家のうねを差し置いて、後妻の娘を尊ぶ理由などあるものか。


 モリゴ信仰に基づくこれらの反発は根強く、また深かった。

 うねが大宮に迎え入れられたのには、これを和らげる思惑もあったのである。

 この思惑は当たり、当主その人に向かう批判は緩んだ。

 だがモリゴではない後妻とその娘に対する視線は、冷ややかなまま残った。


 口さがない者らの視線に晒されながらも、後妻は終生その座を退かなかった。

 他に後ろ盾のない娘に名家たる大宮を名乗らせるためであったと言われているが、真意はわからない。彼女もまた世を去って久しいためである。

 かくして、大宮には血の繋がらぬ三兄妹が残った。


 のちに大宮当主となるモリゴの子、盛綱。

 安達家からの養子にして最後のモリゴ、うね。

 何者でもない、大宮当主と後妻のあいだの娘。


 一通りの通し稽古を終えて、奈緒は足を止めた。

 ふうと詰めた息を吐き出せば、たらりと背に汗の感触が伝う。

 中空に腕を伸べた姿勢が長いせいで、普段使うことのない二の腕が痛い。

 気が散っているなりに、どうにかかたちにはなりつつあった。


 ひらり、視界の端で白い衣が翻る。

 強い引力に負けて、奈緒は三度みたび、清子を見た。

 奈緒よりずっとこなれた動きで、娘は軽やかに『護児』を舞う。

 奈緒が真実うねの子であるなら、清子は従姉妹にあたる娘である。

 その顔だちに己と似たところを探してみたが、奈緒にはよくわからなかった。

 清子の伏した瞳は、終始暗い。


 その眼差しに、奈緒は口の中に苦いものが広がるのを感じていた。

 聞こうともしていない奈緒の耳にすらこれだけの情報が飛び込んでくる環境が、渦中の人間にとって居心地良いはずもない。


 ゆるく息を整えながら、奈緒は逡巡していた。

 次の休憩に話しかけてみようか。……かえって、迷惑だろうか。

 意図した事ではなくとも、己は彼女をこの状況に追い込んだ原因の一端である。

 奈緒にもそれはわかっている。けれど。


 ぱん。

 軽く手を打つ音に、はっと我に返る。


「一端止め。

 休憩にしましょう」


 青女の冷ややかな声に、人の凝っていた広間に流れができた。

 するりと広間を抜け出す者、端に寄って座り込む者。

 思い思いに散らばってゆく流れの中に、清子の姿もあった。


「あ、」


 奈緒が声をかける間もなく、清子が歩き去るのが見えた。黒髪が翻る。

 人気のないほうへ足早に急ぐ背は、干渉を拒むかの如くこわばっていた。

 足が止まる。振り返れば、縁側には昨日と同じように、青女の姿があった。


 ○ ○ ○


 縁側に、奈緒も腰を下ろす。

 さあッ、と風が吹き抜けて、緑がかった陰が揺れる。

 葉擦れの音が止むのを待って、青女がおもむろに口を開いた。


「ごめんなさい。居心地悪かったでしょう」

「いえ、……いいえ、その、はい。

 でも、わたしより、清子さんの方が」

「そうね」


 ふ、と青女は目を伏せた。

 長い睫毛がその瞳に陰を落とす。


「なにかしてあげられればいいのだけれど。

 わたしは彼女の母から、目の敵にされているものだから」

「……なぜ?」

「うねのあと、モリゴ役に立てられたのがわたしだから」


 ああ、という奈緒の吐息のような相槌は、重たく地に落ちた。

 言われてみれば、なるほどそこを疑問に思うべきだった。

 盛綱は青女を指して、、と言った。


 本家に女子がありながら、血の遠い分家の娘をモリゴに立てる。

 その、意味。誰か一人の意思で起きることでないのは明らかだ。

 じっとりとした悪意の手触りに、奈緒はうっすら吐き気を覚えた。

 ぎゅっと爪先に力がこもる。


「……実は昨日、清子さんに会ったんです。

 モリゴを辞退してくれないかって、言われて」

「そう言いつけられたのでしょうね。

 モリゴにこだわっているのは、清子でなくて彼女だもの。

 直接、あなたと接触しないように見張られているから、

 あなたがと会うことはないでしょうけど」


 ふ、と息をついて、青女の視線が動いた。

 冷えた眼差しがしんと奈緒を射すくめ、ねえ、と女の唇がたわむ。


「手紙には、目を通さなかったのかしら」

「……、通しました」


 手紙の主が青女であったことを、意外には思わなかった。

 むしろ、この状況にあって腑に落ちた感触すらある。

 帰らないのね、という問いかけには、はい、とだけ返す。

 人のいない中庭には眩く日が差し込んでいる。

 六月も後半に差し掛かろうとしていた。


「どうして見嶋浜へ来たりしたの」

「母かもしれない人のことが、知りたくて。

 それと……役に、立ちたいんだと思います」


 言って、奈緒は乾いた唇を舐めた。紡ぐべき言葉は散らかっている。

 お世話になっている方がいるんですけど、わたし何も返せなくて。

 でも、わたしがモリゴだったら、役に立てるってわかったから。

 ぽつぽつと吐き出した奈緒の言葉に、青女はやはり、そう、とだけ呟いた。


「その人が、わたしを危ないことから遠ざけようとしてくれているのは、

 なんとなくわかってるんです。でも」


 冬の湖面のような瞳は、静かに奈緒を映している。

 そのあとの言葉は、どうにもかたちにならなかった。

 なにか言いたいような気も、そうでない気もしている。


「実はね。

 うねから、お嫁に行くのよって、一番最初に打ち明けられたのはわたし」


 ぽつり、青女が言った。

 女の冷えた瞳は、いつの間にか遠くを見ている。

 白く雲の流れる青空は、どこまでも高く澄み渡っていた。


「あの子は、どうしてもあのひとの力になってあげたいのって言ってたわ。

 わたしは内緒にしてね、ってあの子の言葉に頷いておきながら、

 大宮本家にそれを漏らした。心配だったから」


 急な告白に、奈緒は戸惑いながらも頷いた。

 約束よ、というその一言が、強く心に引っかかる。


「内々に、話を聞いてもらったつもりだった。

 でも、次の日にはもう、うねの話は見嶋浜じゅうに知れ渡っていたわ。

 どういうことだって、そこらじゅうから散々つつかれる羽目になった」


 おかげで熱まで出てしまって。

 そう言って、青女は唇だけで苦く笑った。


「なのにあの子、わたしが寝込んだって聞くなり見舞いに来たわ。

 寝付いたわたしに、自分のせいでごめんねだなんて謝ったりして。

 ばかよね。裏切ったのはわたしなのに」


 ふつりと、言葉が途切れた。

 さわさわと微風が吹き抜ける。


「ねえ。役に立ちたいという気持ちは、あなたのものよ。

 それは誰にも否定はできない。ただ、どうか忘れないで。

 良かれと思ってすることが、いつも良い結末をもたらすとは限らない」


 はい、と奈緒は曖昧にこたえた。

 たぶん、青女は自分に大事なことを伝えようとしている。

 だがそれと感じながら、奈緒は己の意識が上滑りしているのを感じていた。

 原因はわかっている。


「あの、ひとつお訊ねしてもいいですか」

「何かしら」

?」


 声が固い自覚はあった。

 ばくばくと心臓は強く鼓動を打っている。

 もしも。だとすれば──。


「うねが報復に何かしたのでは、ということ?

 まさか。あの子はそんなことができる質じゃなかった。

 ただ、わたしが罪悪感に耐えられなかった。それだけのことよ」


 言って、青女は微かに笑った。でも、そうね。

 モリゴさんとの約束を破ると祟りがある、とは言われている。

 けれど、約束を破ったあと何かが起きたのは、後にも先にもそれきりよ。

 まあ──元々、約束らしい約束をしたがらない子ではあったけれど。


 唐突に、怒声が静寂を破った。

 騒がしいのは玄関側である。

 慌てて立ち上がった青女のあとを、奈緒も追った。


 ○ ○ ○


 玄関先は、ちょっとした騒ぎになっていた。


「何をしているのです」

「ああ、先生」


 嘉一郎の声だった。

 青女の言葉に、ぱっと人垣が割れる。

 囲いの中心にいたのは嘉一郎と──それから、清子。

 へたりこんだ彼女を庇うように立つ嘉一郎は、何故だか濡れ鼠になっていた。

 長い前髪をつたって、ぽたぽたと透明な雫が地に垂れている。


「いやあ、すみません。うっかり水を被ってしまいまして。

 申し訳ありませんが、手拭いか何かお借りしても?」


 嘉一郎はにこやかな表情を崩すことなく、濡れた袖を絞っていた。

 うっかりで起きる状況でないのは誰の目にも明らかだった。

 まだ濡れた水桶は人の手にあり、その唇は怒りにか怖れにか戦慄いている。

 その対面、嘉一郎の背に庇われた清子の顔は、紙の如く白く青ざめていた。


 なにが、と言いかけた青女の言葉を、さっと清子の怯えた視線が咎めた。

 ちいさく首を振る彼女の仕草からは、おおごとにしたくないという意思のほかは読み取れない。

 青女は僅かに眉をひそめ、それから諦めたように細く息をついた。


「清子さん、立てますか」

「……、はい」

「では、杢師様を着替えのできる部屋に案内していただけないかしら。

 手拭いも用意して差し上げて。あるなら着替えも」


 はい、と清子は蚊の鳴くような声でこたえた。

 立ち上がろうとする娘に、大丈夫ですか、と嘉一郎が手を差し伸べる。

 それを戸惑いの眼差しで眺めた清子は、おずおずとその手を取った。

 娘の白く細い指先が、濡れた嘉一郎の硬いてのひらに重ねられる。


 奈緒は。

 嘉一郎を見上げる清子の瞳に、ぽうと熱っぽい光が籠もるのを見た。

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