第8話 追跡

 

 ぶわりと、奈緒は全身の毛穴がいちどきに開いたような感覚に襲われた。

 それだ。これは多分、目印なのだ。

 ほとんどただの直感だった。

 だが感覚は大事、というタエ子の言葉が、奈緒の確信を後押しする。


 無意識のうちに、奈緒は指を噛みしめていた。

 微睡みに沈みかけていた思考が急速に回り始める。


 これが目印だとしたら、では、なんのための?

 そんなもの、見つけるために決まっている。

 これを目掛けて、何かがやって来る。


 ──来る? こんな住宅地に?


 奈緒ははっと窓の外をみた。

 先ほど自らの支えと恃んだ明かりが、まだぽつぽつと灯っている。

 その何かがここにたどり着いたとき、彼らは巻き込まれずに済むだろうか?


 脳裏に過ぎるのはいつか縁側で食べた真桑瓜の味だ。

 りすぎたからとお裾分けしてくれたのは、たしか裏の老爺であったか。

 後日礼とともに美味しかったと伝えれば、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。


 だめだ、と思った。

 これが呼ぶのがまともな存在である筈がない。

 その何かと出くわして、己が泣き叫ばずにいられる自信もまた、なかった。

 そして、そんな己の悲鳴は、心優しい隣人をこそ呼び寄せるだろう。


 無理だ。


 恐怖によく似た焦燥がじりじりと胸を炙る。気ばかりが逸る。呼吸が浅くなる。

 落ち着け。己に言い聞かせるための呟きが上滑りしていく。

 心音が煩い。


 己に怪異を撃退する手段はない。

 対処できる誰かを呼ぶのも今は困難。

 かといって、このまま座して待てば遠からず周囲が被害を被るだろう。


 ならば。ならばせめて。

 今すぐ矢をこの場所から遠ざけなければいけない。しかし、どこに?

 果たして帝都のど真ん中に、周りを巻き込まずに済むような、人気のない場所など──あった。


「……、神社」


 そうだ。

 そういえば、少し足を伸ばしたところに日枝神社があったではないか。

 広々としたあの境内ならば、或いは。


 ──と、いうより。そもそも。


 ばちん。

 両手で挟み込むように、奈緒は自ら頬を張った。

 脇道に入り込みかけた思考を無理矢理に遮断する。

 今は余計なことを考えている場合ではない。


 急がなければ、猶予がどれほどあるかわからない。

 机上の薄汚れた矢を鷲掴む。手の内がぬめる。

 そのまま部屋を出ようとして、奈緒は少しだけ思い直した。

 もしもの時の為に、つたない筆跡で書き置きを残す。

 そうして、娘は夜の帝都に飛び出した。


 ○ ○ ○


「はっ……は、……」


 妖しい矢を抱え、夜道を駆ける。


 暗い道沿いにはぽつぽつとアーク灯が光っていた。

 稀にすれ違うのは、へべれけの千鳥足で家路につく酔っ払い。

 或いは、夜遊びに出かける浮かれた若人。


 すれ違う誰もが、娘を目にするたびギョッとした表情をつくった。

 それに脇目もくれず、奈緒はひた走る。


 己はいったい何をしているのだろう。

 こんな夜更けに、関口も、カガチもいないこの状況で?

 奈緒の思考は、先ほど避けたはずの脇道に入り込んでいる。


 

 そもそも初めから、こうすべきだった。

 己で解決しようとせず、近くの神社に向かうべきだった。


 視界が水膜でぼやける。

 泣きたくなどないのに、瞳からは勝手に水が溢れていた。

 なぜ、こんな簡単なことにも気づかなかったのだろう。

 ばかだ。己はどうしようもないばかだ。うぬぼれが過ぎる。


 千津から矢を預かったとき、空はまだ明るかった。

 そのあとすぐに神社に向かっていれば、誰か神職を捕まえられただろう。

 少なくとも、彼らは己よりこういったものの扱いに慣れているはずだ。

 何も頼る相手を関口に限らねばならない理由などない。


 よしんば相応しい人間を捕まえられなかったとしても、この矢を仮置きするのに適した場所は住宅地のど真ん中ではあるまい。

 霊なるものが祀られ、邪を退けるしくみのはたらく場所のほうに決まっている。


 奈緒は息苦しさに鼻をすすり上げた。

 ぐず、と湿った音が鳴る。口の中が乾いて、気管が痛い。

 それがまた情けなくて、喉の奥からひしゃげた呻きが漏れた。


 ○ ○ ○


「どうだ。追えそうか」


 どうにか。

 視線でそう返答すれば、虚空坊も神妙に頷きを返した。


 どうやら前情報通り、相手はかなり用心深いようだった。

 八の字歩きや止め足、川渡りを駆使して追手を煙に巻こうとしている。

 まっすぐには逃げない、その足取りのどれもが獣の仕草だった。

 呪いに取り込まれたことで、習合した獣神の性質が前に出たものと見える。

 面倒ではあるが、わかってさえいれば追えなくはない。


 しかし、と関口は痕跡を探りながら案じていた。

 C案件が面倒なのは、なによりその呪いが感染するという点に尽きる。

 もし他の寺社にまで感染が広がったなら、それこそ手がつけられない。

 その物言いたげな様子に察しをつけたか、山伏は口を開いた。


「あア。都内の寺社への感染は今は気にしなくていい。

 帝都への侵入を確認した時点で、でかい参道はどれも霊的に封鎖済みだ。

 一定以上の澱みを抱えてる奴は境内にたどり着けねえ仕組みさ」


 もっとも、力尽くで突破されたら意味は無えがな、と大山伏が肩を竦める。

 なるほど、と関口は前を向いた。強行突破の可能性まで検討していてはキリが無い。

 今はともかく、こちらを追うのに集中すべきだろう。

 関口は前に向き直る。


 ふと、痕跡の中に見知った臭いが紛れた。

 その意味に、関口は全身の毛が逆立った。



 ○ ○ ○


 おかしい。

 人気の無い夜道で一人、奈緒は困惑していた。

 どうにか涙は止まったが、鼻はまだぐずついている。


 通い慣れた場所でこそないが、神社への道は間違いなく覚えていた。

 小娘の足でゆっくり歩いても10分とかからぬ場所だ。

 いくら昼日中と雰囲気が違うからといって、迷うほどの道のりではない。

 だというのに。


「なんで……?」


 思わず漏れた呟きはかすれていた。

 動かし続けてすっかり重くなった足を、ついに止める。

 視界の先に広がるのは灯の落ちた暗い街並み。

 見覚えのある、見慣れない色あいの景色。


 知っている道だ。知っている風景だ。

 だが気づけば曲がるべき道を通り過ぎている。

 あるいは、ひとつふたつ手前の小道に入り込んでいる。

 迷うはずのない場所で、道に迷っている。


 周囲を彷徨いつづけて、もうかれこれ四半刻近くになる。

 神社に、たどり着けない。


 まさか、と奈緒は思った。

 気づかぬ内に、己は既に何かに取り込まれていたのだろうか。

 だがそれにしては静かだ。おかしいのは参道近くだけ。

 嫌な気配がするのも、相変わらず手元の矢からだけ。


 改めて己の状況を振り返って、迷いが出た。

 いちど引き返してみるべきだろうか。

 そう考えて、


 


 全身の肌が粟立つ。

 風にのって血膿の混じった獣の臭いが強く香る。

 背後から見られている。悍ましいなにかが、近くに居る。


「……っ、」


 


 直感に突き動かされるまま、奈緒は再び歩きだした。

 たどり着けないとわかっていて、それでも境内を目指す。

 他に向かうべき当てなど無かった。


 ひそひそと何かを囁き交わすような声がしている。

 ひたひたと何かが追ってきているような気配がある。

 足を止めたら捕まってしまう。急ぎ歩を進める。


 ──まだか。

 ──まだよ。


 草木も眠る夜の静けさは、微かな音もよく通す。

 何かの会話が、濡れた足音が、聞きたくないのに聞こえてしまう。


 ──これだったか。

 ──これにちがいあるまいよ。


 ──うすいぞ。肉が足りぬ。

 ──確かに。

 ──次は今少し。


 ──ひひ。


 下卑た笑いが耳につく。

 いたぶられているのだ、と嫌でもわかった。

 猫が弱った獲物で遊ぶように、こいつらは奈緒の怯えを愉しんでいる。


 ──居るまいな。

 ──居るまいよ。


 瞬間、空気が変わった。

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