第7話 しるし

 

 やってしまった。


 白羽の矢を前に、奈緒はひとり途方に暮れていた。引き受けてしまった。

 否。引き受けたというより、無理を言って奪い取ったに近い。

 なにせ千津は始終遠慮していたのだから。

 だから、これが自分で撒いた種であることは痛いほどわかっている。


「……どうしよう」


 あてのない呟きが漏れる。

 千津は奈緒の着替えを手伝ったあと、早々に帰宅している。当然返事はない。

 静まりかえった室内に自分の声だけがあって、奈緒は更に後悔を深めた。


 誰に何を頼まれようと引き受けるな。


 別れ際、蛇神が強く念押しした言葉が繰り返し意識の端に浮かんでは消える。

 日が暮れ、ひとりきりになった家中はなんともいえず物寂しく不気味だった。

 室内を照らす明かりも、何故だか今日は煤けて感じる。


 頼まれてはいないのだから、約束は破っていない。

 いないが。


 どう考えても己の手に負えない厄介ごとを、自ら買って出る。

 その行為が、保護者たる白蛇の意図に真っ向から反しているのは明らかだった。


「うう」


 抱えた膝に顔を埋める。

 だが、他にどうしようもなかった。


 千津にこれを持ち帰らせればよかった? まさか。

 仕事で呼び出された関口を呼びつける? とんでもない。

 どこかに捨ててしまう? これほどあからさまに危うそうなものを?


 取り得た選択肢をひとつひとつ思い浮かべ、あれこれ思い悩んでみる。

 だがどんな手段を思い浮かべようと、結局は同じ結論に行き着いた。

 関口が戻るまで、己が預かっておくほかない。


 奈緒はぶんぶんと頭をふった。

 思考が堂々巡りしている。切り替えなくてはならない。

 もうやってしまったことは仕方が無いではないか。

 考えるべきは、これからどうすべきかだ。


 これから。

 そこにいきついて、奈緒は再び途方に暮れた。


 奈緒にできることなどいくらもない。

 ただ関口の帰りををじっと待つことしか。

 その帰りも、いつになるかは不透明だ。


 朝には戻る?

 明日には?

 それまで、何も起こらずに済むだろうか?


 わからない。

 わからないといえば、この矢の正体だ。


 奈緒はもう一度、薄汚れた矢を睨んだ。

 黄色い室内灯に照らし出されるのは、裂けた矢羽根、赤錆びたやじり

 澱んだ気配と血膿と腐敗した肉を混ぜたような獣臭はともかくとして、

 造形だけを取るなら、ただのぼろぼろの矢に見える。


 まともに飛ばすのは難しそうだ。

 だが、投げ込むだけならどうとでもなるだろう。

 つまり、これを射込んだのが人であるか怪異であるかは判別できない。

 その意図もだ。


 意図。

 千津の言葉を思い返す。


 ──いえ。

 奥方様自ら手を下された訳ではないでしょう。


 本家の関与の可能性を口にしたとき、千津は同時にこうも言っていた。

 関口が本家の奥方と不仲であるのは事実である。

 ただしそれは奥方の徹底した無関心というかたちであって、良くも悪くも彼女当人が己の長子に積極的に干渉する姿勢を見せたことはない。


 だから、動いたとすれば、それは気を利かせたつもりの周囲。

 それも新参であろう。それが千津の意見だった。


 だが、と奈緒は思った。

 気を利かせた結果が、どうして千津の娘の部屋に矢を放つことになるのだろう。

 取り巻きが先走った結果だとして、それはどんな意図なのだ?

 何かの警告にしても、たかだか使用人の、しかも普段は離れて暮らす娘に、だれにも理解しかねる符丁を送りつけるというのは、あまりに迂遠に過ぎるのではないか。


 どこかがしっくりこない。

 こないのだが。


 むむ、と眉を顰め首を傾げる。

 思考のどこかで、何かが引っかかっている。そんな感じだ。


 不意に、かたかたと窓が鳴って、奈緒はびくりとした。

 外は少し風が出てきたらしい。

 矢はぴくりともしなかった。


 このまま何も起こらなければいい。

 落ち着かぬ心持ちのまま、奈緒は祈った。


 ○ ○ ○


「C案件だ」


 大男は言った。

 急ぎ駆けつけた関口を、庁舎で待ちうけていたのは虚空坊である。

 このひときわ目立つ男のほか、あたりに金烏の姿はない。


「取り込まれたのは上州の山奥で放棄されていた日吉社。

 管理に手が回ってなかったせいで三月ほど発覚が遅れたらしい」


 虚空坊の説明は簡潔だった。

 前置きも早々に、必要な情報だけが並べられてゆく。


「奴さん、小知恵が回るようでな。

 追手を交わして身を潜めつつ、方々で娘を喰い散らかしていやがった。

 ここんところぽつぽつ続いてた被害がどうやら皆同じ怪異によるものらしい。

 それを同定できたのがついさっきだ」


 ったく、もう羽黒に戻る予定だったんだがなァ。

 厚く皮の張った指で乾いた額を掻きながら、大山伏はぼやきを挟んだ。


「んで、だ。これがC案件であるということ、これまで被害が出た位置と時期とを合わせて鑑みるに、対象はおそらく既に帝都入りしている。

 次を出す前に早急に始末せにゃあならん。追跡を頼まれてくれねえか」


 なるほど、急な呼び出しも頷ける。

 間違いなく大型の緊急案件だった。


「他の人員は」

「別件で出払ってる。動けるのは俺とお前だけだ」

「ふたり」


 関口はわずかに眉を顰めた。

 管理もおぼつかぬような過疎地の末社とはいえ、喰われたのは社持ち。

 それも人喰いを続けて既に三月となれば、一体どこまで成り果てたものかわからない。

 少なくとも、並の金烏ならば数名がかりで当たるべき相手であるのは間違いない。


「せめてあと一人、応援を呼べないのですか」

「近場の案件のカタがつき次第とは言っちゃアくれてるが、ま、望み薄だろうな。

 どこもかしこも手一杯さ。それよか、来るかわからん応援を待つ時間が惜しい」


 大男は肩を竦めた。臍を噛む。

 通常案件なら、それでも問題はなかった。だが。


 ──C案件。


 これに対して、関口は手出しを

 つまり、対処にあたれるのは二人どころか、実質虚空坊一人。

 ここで是と答えれば、場合によっては、己は目の前の男を災厄の前に連れ出すだけ連れ出して見殺しにせねばならない。


 無論、関口は陰陽寮に籍を残す数少ない古老、北の重鎮たる虚空坊の実力を疑っていない。

 だが同時に、今わかっている情報から想定される相手の厄介さ、底知れなさを軽んじてもいなかった。


 自然、関口の視線は複雑な色を帯びた。

 それを誤魔化すことなく正面から受け止め、大山伏はにい、と笑んだ。


「妙な気を回しなさんな、若造。

 俺ァまだ、手前に心配されるほど落ちぶれちゃいねえよ」


 はッは、と大げさに厚い肩を揺らす。

 老いの兆しはじめた顔に、動揺は見えない。

 腹の決まった顔だった。


「……失礼」

「なに、かまわんさ。気遣いありがとうよ」


 それでだ。大男はおもむろに口を開いた。


「上から、お前さんを動かす許可は得ている。

 改めて訊ねよう。危険を承知の上で、やってくれるか」


 否ははじめから無い。

 虚空坊の問いに、関口は是と答えた。


「それで、追跡の手がかりは」

「こいつだ。奴さんが狙った獲物への印付けに使ってたやつさ」


 とんとん、と脇の机を叩く。

 天板の上に転がるのは、血と泥に汚れた白羽の矢であった。


 ○ ○ ○


 あれから、奈緒はどうにか夕餉だけは取った。

 このひどい臭気の中にあっては千津お手製の料理の味もわからない。

 流し込むような食事の、その僅かの間ですら、視線を外すのはなんとはなしに恐ろしかった。


 それから、ただ、待った。

 矢の前で膝を抱え、秒針が時を刻む音だけを数える。


 どれくらいそうしていただろう。

 ふと、奈緒は窓の外に目をやった。あたりは夜闇に沈んでいる。風は強くなりつつあるようだった。

 厚く雲に覆われた空は塗りつぶされたように暗い。

 一方で、地上にはまだ、ちらちらと明かりが灯っているのが見えた。


 近くで、誰かが起きている。

 その事実に、奈緒は少しだけ励まされるような心地がしていた。

 だが、それもあとどれだけ続いたものか。


 鬱々とした気持ちで、奈緒は視線を時計に向けた。

 規則正しく時を刻む針はそろそろ普段の就寝時であると示している。

 時が進んで欲しいのか止まって欲しいのか、それもわからないままにぎゅうと膝を抱え直す。


 この矢を前に寝るのは怖い。

 でも、なんだか少し、ほんの心持ちだけ、まぶたが重いような気がする。


「……だめ、」


 起きていなくては。

 家主が戻り次第、事情を説明しなくてはならない。

 寝ている場合ではないのだ。膝にぐりぐりと頭をすりつける。


 しかしながら、それではっとするのは一瞬だけだった。

 ふと気を抜いた次の瞬間には、とろとろとした眠気が忍び寄っている。

 奈緒は今更ながら、外出の疲れがのし掛かってきているのを感じていた。


 大丈夫。今はまだ。

 だが、あと一時間後はどうだろう。わからない。


 何か、目の覚めるようなことをしなくては。

 端に薄もやのかかりはじめた頭で、奈緒は考えた。


 何があるだろう。

 顔を洗う? 腕をつねる?

 どれもあまりきかないような気がする。


「はあ、」


 大きく息をつく。


 肺の中に腐臭が満ちる。それにしてもひどい匂いだった。

 ふつうの人々には感じ取れないようだからまだ気にしないでいられるが、これがほんとうに臭っているのだとしたらひどいものだ。近寄りたくない。


 ここでふと、奈緒は気づいた。

 この匂い、関口には感じ取れてしまうのではないか?


 いちどきに目が覚めた。


 この臭い、体に染みついたりしていないだろうか?

 万一そんなことになっていたら、その。

 うまくは表せないがなんだかとっても嫌だ。

 こんな匂いを漂わせていたらどこに居たって目立ってしまう。

 まるで、目印でもつけられたかのよう──。


 目印。


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