第2話 カフェー

 ふわり、珈琲の芳香に混じって、微かに煙草が香った。

 奈緒はついに待ち人かと振り返ったが、ただ、男性客が一人帰るところのようだった。

 今日何度目かの落胆を覚えて、視線を目の前のカップに戻す。

 ちびちびと口にしていたミルクティ-はとうの昔に冷め切って、白い陶器の内側に薄茶色の線を引いていた。


 指定の待ち合わせ時間を過ぎて、かれこれ三時間ほどが経つ。

 奈緒は待ちぼうけを食らっていた。


 待ち合わせ場所に指定されたのは、とあるカフェーだった。

 店内は控えめに回されたレコードの音楽と僅かなささやき、それから白磁の器が触れあう音だけに満たされている。カウンターの厚い天板は飴色に磨き抜かれて、オレンジ色のランプの光をやわく跳ね返していた。


 もしかして、己は日取りを間違えたのだろうか。あるいは場所を。

 指定の時間を過ぎて一時間が過ぎた頃には既にそんな考えが脳裏を過ぎっていたのだが、しかし何度思い出してみても、指定の日時は今日この時間で、場所はこの店に違いない。


 ちらと視線をやれば、カウンター脇に立つボーイと一瞬、視線が交差した。

 それもそうだろう。いかにもインテリの社交場といった雰囲気の店内に、ただの小娘がそぐうはずもない。

 それがミルクティー一杯で三時間も粘っているのだから、店側にしてみれば、本当は文句のひとつもつけたいはずだった。


 一度、出直した方が良いだろうか。

 ついに奈緒がそう考えはじめた、その時だった。

 からん、とドアのベルが鳴って、その人物は姿を現した。


「待ち合わせの子って、まだいるゥ?」


 ボブヘアにベレー帽を乗せた、洋装のひとである。

 随分若いようにも思われたが、確信は持てなかった。

 なぜなら、肌はきめ細やかだったが、不健康そうにくすんでいる。

 おまけに口紅はよれ、目元には隈が浮き、下にうすい雀斑そばかすがあらわになっていた。


 ボーイは冷静に、娘の座るボックス席を指し示した。

 奈緒をみとめた女はよろめきながら、ほとんどテーブルに体をぶつけるようにして真向かいに座った。

 机に突っ伏した女の体から、ぷんと夜をまたいだアルコールの匂いが漂う。

 ボーイは何も言わず、女の前によく冷えた水を出した。


「……大丈夫ですか?」


 奈緒が囁けば、女は机に伏せたまま、何やらもごもごと呟いた。

 もしやテーブルの角でお腹でも打ったのではないだろうか。

 娘は少し心配になった。


「あの、」

「あー、ちょっと静かにしてくれる? 二日酔いで頭が痛いのよね」


 のっそりと、女が顔を上げた。

 いかにも不機嫌そうな顔だった。


「それで、あんたが奈緒?」


 唐突に投げかけられた直裁な問いに、娘は慌てて頷いた。

 顔色の悪い女は、ふゥん、と鼻を鳴らす。じっと奈緒の顔をめつける。

 その瞳には、判りやすく悪意がみなぎっていた。


「!」


 突然、シャアッ、と蛇神が吠えた。

 目の前のカップが跳ね飛ばされて砕ける。

 割れた器から僅かに残っていたミルクティーがこぼれて、床に小さく染みをひろげた。


 奈緒にも一瞬だけ見えた。

 いま。


『小娘、何のつもりだ』

「やだー、ちょっとじゃれただけでしょォ。こわァい」


 蛇神の低い唸り声にも、女はさしてこたえなかったようだった。

 仰け反るようにして背もたれに身を預け、けたけたと笑い転げる女の目つきは、戯れに獲物をいたぶる獣のそれだ。

 その異様さに、奈緒は完全に呑まれていた。


 女は一頻り笑ったあと、突然ハァ、とひとつ溜息をついて真顔に戻った。

 そのまま、ぐるり周囲を見渡す。


「何見てんのよ。見世物じゃないわよ」


 店内じゅうのの好奇の視線が一斉に逸らされる。できれば奈緒もそうしたかった。

 静かな店内は、今や奇妙な緊張感に満ちていた。


「ま、冗談はここまでにして。前もって聞いてるとは思うけど、

 あたしは陰陽寮所属、金烏きんう衆の尾渡タエ子。よろしく」


 テーブルに頬杖をつき、女は気怠げに握手を求めた。

 どろんと澱んだその目には、先程までの悪意の色はない。

 戸惑いながらも、奈緒はその手を握った。


「えと、……はい。わたしは奈緒です。

 よろしくお願いします、尾渡さま」

「はァ?」


 突然、ぎらり、女はまなじりを吊り上げた。

 娘はびくりと肩を縮こまらせる。


「様づけとか止めなさいよね、鳥肌立つでしょ。

 タエ子でいいわよ、タエ子で」

「た、タエ子……さん?」

「それでいいわ」


 はあ。タエ子は目を瞑り、水をあおって天井を仰いだ。

 まだ五分も経ってはいないが、奈緒は既に先行きに不安しかなかった。

 説明とやらが終わるまで、果たして己はこのひとの感情の乱高下についてゆけるだろうか?


「そんじゃ、とっとと始めましょうか」


 前置きもなにもなく、タエ子は切り出した。


 女は手鞄から紙巻煙草を一本取り出して、唇にくわえ火をつける。

 薄い唇からふゥ、と紫煙が吐き出されると同時に、

 奈緒とタエ子の座るボックス席だけが、そこにあるまま、人々の意識から抜け落ちている。


「これ、いったい、」

「ちょっとした手品よ。人払いの応用。

 色々聞かれると面倒でしょ。それとも聞き耳立てられたかった?」


 女は何でもないことのように言い捨てた。咥え煙草のまま、鞄を漁り始める。

 これをと言ってのける手腕。

 それは、目の前の女が確かに陰陽寮の人間であることの証左に思われた。


「はい、これがあんたの戸籍ね」


 女は取り出した書類を広げ、奈緒の前に突き出した。

 タエ子が咥え煙草を手元に移す。口紙に、紅が赤く跡を残していた。


「問題になってた本籍地なんだけど、諸々の調整の結果、今はとりあえず陰陽寮の本部にしてあるわ。ただこれ、おおっぴらになるとちょっと面倒なことになるから、何かの機会があって戸籍の写しが必要になったりしたらまず役所に行く前にこっちに一度連絡いれて頂戴。勿論、本籍を変更するときにもね。それから、両親の欄なんだけど──」


 滔々とうとうと説明を続けていたタエ子が、ふと言葉を切った。

 奈緒の顔をまじまじと見つめる。


「えっと。

 あんた、今あたしがどの欄の話してるかわかってる?」

「……、すみません」


 

 タエ子のほっそりとした指のあいだで、火のついた紙巻煙草がじりじりと燃えている。


「もしかして読めないわけ?

 かな文字は? 自分の名前の漢字ぐらいは書ける?」

「いえ、……」


 怪訝な顔で訊ねるタエ子に、奈緒はちいさく首を横に振った。

 どれも無理だった。

 その事実を改めてまざまざと突きつけられ、奈緒は俯いた。


 羞恥で、顔が燃えるように熱かった。いったい、どんな反応をされるだろう。

 恐る恐る入ったこのカフェーで注文を取られたときも、一番恐ろしかったのはそれだ。

 奈緒はメニューが読めない。


「あー、……」


 低く唸って、タエ子は頭をがりがりと掻いた。

 俯いたその頭の上から、ベレー帽がずり落ちる。

 そしてひとつ大きな溜息をつくと、顔を上げた。


「オッケー、判った。

 ゆっくり説明するから、わかんなくなったらその都度聞いてくれる?」


 どこか気まずげな顔で、タエ子は言った。頷く。

 身構えていたような反応ではなかったことに、奈緒は拍子抜けした。


 ○ ○ ○


「注意点はこれで全部。どう、わからないところある?」

「はい。大丈夫だと思います」


 彼女の説明は、率直に言ってあまり上手ではなかった。


 解説はあちらへ飛び、こちらにうつり、思い出したように付け足されたりして、文字の助けのない奈緒の頭をしばしば混乱させたが、根気強くはあった。

 奈緒がわからないと言えば、タエ子はそれが何度目であっても繰り返し説明した。


 口調はあの、ぶっきらぼうで棘のある言い回しのままだったが。


「そ」


 短くそう答えると、タエ子は新しい煙草に火をつけた。

 ふう、と吐き出された煙が儚くくゆる。

 人払いが解除され、フッ、と周囲の空気が戻った。


「あーダルい。喋りすぎてちょっと喉渇いてきたかも。

 ちょっと注文いい?」


 ボーイを呼びつけたタエ子が注文をはじめた。

 店内はまるで何事もなかったかのように、静かな音に満たされている。

 それを誰も不思議がっていないのが、却って奈緒には不思議だった。


 からん、とドアが鳴り、新しい客が入ってくる。

 年かさの紳士と、黒髪の美しい、若い娘のとりあわせだった。


「で、あんたは?」

「えっ、なッ、何ですか」


 急に話を振られるとは思わず、奈緒の声は裏返った。


「何って、何飲むのって話……、あー。いいわ。

 あんた、あたしと同じのでいい?」

「いえ、わたしはけっこ──」

「奢るって言ってんのよ。同じのでいいわね?」

「えっと、……お願いします」


 いらない、とは言えない雰囲気だった。

 気圧されるまま、奈緒はぺこりと頭を下げた。

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