4章 髪切

第1話 真桑瓜

 

 季節はいつの間にか、初夏にうつっていた。


 面倒な事情と出自の不確かさからか、名無し奈緒の戸籍登録の手続きはどうやら難航しているようで、尋常への編入にはずいぶん遅い時期に差し掛かっていた。

 入学を選択するにしても次の年度からになるだろう、というのが、関口づてに聞かされた陰陽頭の言葉だ。がらっと変わってしまった生活に馴染むのに手一杯だったこともあって、考える時間ができた事は、娘には寧ろありがたかった。


 身を寄せることになった家は御苑のほど近く、細々と入り組んだ住宅街の一角にあった。

 こぢんまりとした一軒家で、苔むした小さな庭がついている。

 枯れた板張りの廊下や、少し煤けたように見える硝子窓からは年期が透けて見えたが、全体は概ね小綺麗に手入れがなされているあたりに、一人暮らしだったという住人の性分が表れているように思われた。


 これが、娘の新しい住まい。

 関口の住処だった。


 ○ ○ ○


 慣れぬ手つきで髪を纏め、前掛けに首を通す。

 袖をまくって厨に入れば、そこには既に女がひとり、奈緒を待ち構えていた。


「準備できましたか。ああ、ほら。駄目ですよ。

 せっかく綺麗な髪なんですから、きちんと纏めましょうね」


 そう言って、女は奈緒の僅かにほつれた髪に手を伸ばす。

 こめかみを撫でつける丸々とした女の指先に身を委ね、娘は目を閉じた。

 辺りには、ふつふつと湯の沸く音と、出汁の香りが漂っている。


 村で襤褸ぼろを引っ掛け、納屋に寝起きしていた奈緒には、そもそもごく普通の生活、それ自体の知識がない。

 まずは誰かが、この娘に生活のいろはを教え込まねばならなかった。

 だが、仕事で頻繁に家をあける関口がその役目を担うのは現実的ではない。

 そこで、娘の教師役として、雇い入れられたのが彼女であった。


 女の名は千津という。通いの女中である。

 ふくふくとした体つきの中年女で、たれ気味の目元はどこか、かつて奈緒が村で見た狸を思い起こさせた。


「ほら、できた。せっかく綺麗な髪なんですから、ちゃんと纏めておかないと。

 お料理に髪の毛が落ちるといけませんからね。大事ですよ」

「はい。気をつけます」


 奈緒は、綺麗に纏めなおされた髪を手で確かめてはにかんだ。

 人に髪を梳かれるのは気恥ずかしいが、温みのある指先に触れられるのは心地よい。


「髪といえば、最近は人の髪を切っていく通り魔が出るだとか。

 どうぞ気をつけて下さいましな。貴方の髪が突然短くなっていたりしたら、吃驚びっくりしちまいますからね」


 そう言って、千津は大げさに目をみはって見せた。驚きの表情のつもりらしい。

 昔、彼の実家に勤めていたのだという彼女は、関口のことをと呼ぶ。

 少し考えれば当然ではあるのだが、あの関口にも坊ちゃんと呼ばれるような幼い頃があったのだと思うと、少しばかり不思議な感じがした。


「はい。それじゃあ、今日はお芋を剥いてみましょうか。

 それが終わったら少し休憩に致しましょうね。

 丁度、立派な真桑瓜まくわうりを頂いたんですよ」


 はい、と奈緒は頷いた。無意識のうちに顔が引き締まる。

 千津は、その柔和な顔だちに反して、中々に厳格な指導役であった。


 ○ ○ ○


 夕餉の準備を終え、あとは火加減を見るだけですからと厨を追い出された奈緒は、縁側に腰掛けてほうっと息をついた。

 娘の隣には、よく冷えた真桑瓜が硝子の器に盛られている。


 まだ、慣れたと言うにはぎこちない。

 それでも、一時に比べれば随分余裕ができたのは事実だった。

 余裕ができれば、考えてしまうのは今後の身の振り方の事である。


 ぼんやりと外を眺めれば、天気雨であった。

 白藍をさらに薄めてのばしたような空から、霧のような柔らかい雨が庭に降り注いでいる。

 庭の苔は水気を得て青々と色味を増し、薄く濡れた梔子クチナシの花が甘く薫っていた。


『うむ、甘いな』


 しゃく、という音に、奈緒ははっと隣に視線を向けた。

 いつの間に顕れたか、少年姿のカガチが娘と同じように縁側に腰掛け、剥かれた瓜をつまんでいる。

 その白い指先を、真桑瓜の透明な汁が濡らしていた。


『さて。このところとみに塞ぎ込んでおるようだが、どうした』

「考え事を……陰陽寮のことを、考えていました」


 ふむ、と蛇神はゆっくり瞬きをした。

 色素の薄い少年の姿は、青々とした庭を背にぽうと浮かび上がって見える。

 この家に越してきてから、カガチは時折、こうして少年姿で顕れるようになっていた。


『誘いを受けるかどうか、迷っておるのだな』

「はい。あの、カガチ様はどう思いますか」

『そうさな』


 真桑瓜をひと切れ食べきって、蛇神はゆるりと首を回した。

 如何にも冷たそうな肌の上に、さらり白衣が滑る。


『その問いに答えるのは簡単だが、それはお前が選ぶべき事だ。

 おれがあれこれ言うことではあるまいよ』


 何の参考にもならない答えに、奈緒は判りやすく落胆した。

 眉尻の下がった娘の顔を見て、少年神が苦笑する。


『なに、そうしょぼくれた顔をするでない。

 選べと言われて、お前が困るのもわからんではないとも。

 そら、口を開けよ』


 奈緒は言われるまま、口を開いた。間を置かず真桑瓜が放り込まれる。

 思わず噛みしめれば、しっかりした歯触りの後にたっぷりとした汁が溢れた。

 甘い。驚いて目を瞠れば、カガチは悪戯っぽい笑みを浮かべている。


『おれは何も、意地悪をしようというのではないのだぞ。

 例えば──そうさな。お前の前に紅茶が出されるとしよう。

 そしてこう訊ねられるわけだ。“ミルクと檸檬レモン、どちらがよいか”とな』


 その問いに、奈緒は覚えがあった。

 鉱山の洋館で、うしおの奥方から投げかけられた問いだ。

 どこか少女めいた女の顔が、奈緒の脳裏を過ぎった。


 実のところ、あれから檸檬入りの紅茶も試している。

 紅茶に爽やかな柑橘が合わさった香りはなんとも言えず好ましかったが、やはり味はミルク入りの方が好みだ。奈緒は率直に答えた。


「ミルクがいい、です」

『うむ。そうだな。今のお前は、そうやって

 では、もう一度同じ問いを投げようか。

 ただし、お前はミルクと檸檬が何を意味するのか知らぬものとしよう』


 よくわからない仮定に、奈緒は困惑した。

 それは、潮の奥方に問われたときと全く同じ状況ということだろうか。

 庭にはまだ、さあさあと雨が降り続いている。


『さあ、ミルクと檸檬、お前はどちらがよいのだ?』

「その……、


 あのとき、奈緒はまともに答えられなかった。

 ミルクになったのは、奥方からそう水を向けられたからだ。

 娘の答えに、蛇神は笑みを深くした。


『そうであろうよ。お前の今の悩みも、要はそういうことさ。

 。そら、もう一つお上がり』


 反射的に口を開けば、先程と同じように真桑瓜が押し込まれた。

 濡れた少年の指先が、娘の薄く色づいた唇に触れる。

 僅かに黄みをおびた果肉に歯を立てたところで、奈緒は違和感に眉根を寄せた。


 甘くない。その上硬くて青臭い。ほのかにえぐみもある。

 思わずカガチの方を見れば、蛇神は酸漿ホオズキの瞳に少しばかり意地の悪い光を湛えて、その唇を吊り上げていた。笑っている。


『さて。ついでにもうひとつ賢くなったな?』

「なにが、れふか」

『親切ごかして目の前に差し出されるものが、常に甘いとは限らぬということさ。

 それが嫌なら、まず知ることだ』


 そう言って、蛇神は娘の口元から囓りかけを取り上げると、最後のひと切れを代わりに押し込んだ。こちらは甘い。


 ふと見れば、歯形のついた不味いほうの瓜は、ばりぼりと囓られて、あっという間にカガチの腹の内に収まってゆくところだった。

 終いに指先についた汁をぺろりと舐め取る。小さな唇の奥に、赤い舌が覗く。

 行儀のよい仕草ではないのに、その動きにはどこか品があった。


「カガチさま」

『うん?』

「ありがとうございます。わたし、物知らずですけど。

 でも、ちゃんと、知ろうとおもいます」


 奈緒の礼に、少年神はその赤い目を弓なりに細めて、笑った。

 雨はいつの間にか上がっている。

 濡れた庭先に、白い梔子の花がひときわ強く香った。


 ○ ○ ○


 この日、家の主は珍しく早めに帰宅した。

 空はまだ茜色をしていて、周囲の家々からはそれぞれの夕餉の匂いが漂ってきている。

 家の小さな玄関は、差し込む西日の黄みを帯びた光で満たされていた。


「関口さま、おかえりなさい」

「ただいま戻りました」


 娘の出迎えに、黒衣を纏う長躯の男は少し笑んでみせた。

 普段は険しいままの目元が、わずかに緩む。

 この表情が、奈緒は好きだ。


 一方で、この男に遠ざけられようとしているのだ、とも思う。

 そのたびに、胸の内側で何かがしくしくと痛んだ。


「千津さんは」

「ご用事があるとかで、先程帰られました。あの、ごはん出来てます」

「そうか。頂こう」


 すれ違いざまに、奈緒は真新しい血の匂いを嗅いだ。

 また、男に怪我が増えたのだと気づいた。



 ふたりきりで、食卓を囲む。

 これも、思えば随分久しぶりのことだった。


 食卓に並べたのは、いんげんと豆腐の味噌汁。

 それから、じゃがいものお焼きと、鯖の煮付け。

 ほとんど千津の手によるものだが、ところどころは奈緒も手伝っている。


 関口は、何か反応を見せるだろうか。

 合間にちらと様子を窺ってみたが、男の表情には取り立てて変化はない。

 ふと、明るい色の瞳と目があった。どきりと心臓が跳ねた。


「ところで、生活で何か困ったことはないだろうか」

「何も。千津さんにも、良くして頂いています」

「そうか。良かった。君のことだが、彼女に任せきりですまない」

「いえ、」


 慌てて奈緒は首を横に振った。

 謝罪されるようなことは何もない。

 既に、十分すぎるほど気遣われている自覚はあった。


「それより、関口さまの方は大丈夫ですか」


 本当は怪我について訊ねたかったのを、奈緒はこらえた。

 帝都に戻って以来、関口は己の仕事をあまり語ろうとしない。


「お仕事、随分忙しそうです」

「……、そうだな」


 男はやはり、それ以上は答えなかった。目の前にいるのに、距離がある。

 打ち明ける義務などないことは判っていても、どこか寂しかった。

 口の中、しっかり味がしみているはずの鯖がひどく味気ない。


「そういえば、君の戸籍関係の手続きが終わったそうだ。

 その件について少し説明があるらしい。

 明日、指定の場所まで来て欲しいそうなのだが、一人で行けるだろうか」


 奈緒ははっと顔をあげた。

 ようやくだ。ようやく、奈緒という人間が事になる。

 そう思うと、全身に緊張が走った。


「が、がんばります」

「そうか」


 男は薄く微笑んで、ごちそうさま、と箸を置く。

 食器を自分で片付けようとする男を、奈緒は慌てて引き止めた。

 何から何まで世話になっている身だ。せめて皿洗いぐらいはさせて欲しい。

 それに、口にこそしなかったが、見えない関口の傷も気になった。


「そうか。ならば、頼んでいいだろうか。

 それと、カガチ殿。少し時間を頂きたいのだが」

『いいとも。おれも一寸ばかり、お前に用事があったところだ』


 するり、奈緒の袖口から抜け出した白い小蛇が、男の手に乗る。

 部屋を出る二人を見送り、奈緒は食器を重ねて流し場に向かった。


 心臓が忙しない。果たして今晩、眠れるだろうか。

 奈緒は今からそれが心配だった。

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