閑話
閑話 選択肢
控えめなノックの音に、名無しははっと目を覚ました。
窓際のカーテンの隙間から、柔らかな真昼の日差しがちらちらと差し込み、白いシーツの上に複雑な陰影をつけている。
時は既に昼を回っているようだった。
目の前のベッドに横たわる関口はまだ眠ったままだ。
それに付き添っていた名無しも、椅子に腰掛けたまま、いつの間にかうとうととしていたらしかった。妙な恰好だったせいか、背中が痛い。
後始末は夜明けと共にはじまった。
場を清め、片付けをし、今後の段取りをつける。
それらの仕切りはハルアキの独壇場だった。
みどろが淵の時も、名取り地蔵の時もそうだったが、こうなると名無しに出来ることは何もない。
ひとりおろおろとしていた名無しは、そのハルアキから、意識が飛ぶ寸前の関口の介助を申しつけられたのだった。
清いシーツに顔を埋め、ほとんど死んだように眠り続ける男が目を覚ます気配はない。
規則正しい静かな寝息と、微かに上下するシーツの盛り上がりだけが命の気配を匂わせていた。
こんこん、と再びノックの音が聞こえる。
名無しははっと我に返り、慌てて扉を開けた。
「はい、あの……」
名無しが顔を出すなり、廊下の男は口に指を当ててシーッ、と声を立てた。
どこか狐めいた顔だちに、意図の読めない笑み。
そこに立っていたのは、事後処理に奔走していたはずのハルアキだった。
「や。少し話をしようか」
否やはない。名無しは頷いた。
○ ○ ○
場所を移すのかと思いきや、陰陽師はするりと部屋に身を滑り込ませた。
男は空いた椅子に腰掛け、名無しにも椅子を勧める。
薄暗い部屋の中で、狐顔の男は声を潜めて話を始めた。
「さて、まずはお礼を言うべきだろうね。ご協力感謝する。
当初の予定以上に動いて貰うことになったけど、おかげでこの通りだ。
終わりよければ、といったところかな」
いえ、と名無しは慌てて首を振った。
最初から最後まで、己は言われるままに右往左往していただけだ。
少なくとも、娘自身の認識においてはそうだった。
「約束通り、帝都に着いたら、まずは戸籍登録手続きをはじめることになる。
どんな名前にするか、もう決まっているかい?」
「その、はい」
「そうか。じゃあ、その後については何か考えているかな」
「そのあと、ですか」
それはあの晩、関口にも投げかけられた問いだ。
ずっと胸の中に引っかかってはいたが、目処は未だ立っていない。
名無しは消え入りそうな声で、いいえ、と答えた。
ふむ、と男がひとつ頷いて、僅かに身を乗り出す。
その椅子が、きし、と僅かに軋んだ。
「一応、こちらでは尋常小学校への編入も用意してはいるんだけどね。
僕としては、今から言うことも選択肢の一つとして考えてみて欲しいんだ。
──君、
思いがけない提案に、名無しは目を丸くした。
「それは、その。私が、陰陽寮で働く、ということですか?」
「そうだよ」
冗談かと思った。だが、どうも男は真剣に話しているらしい。
いつもの笑みがどことなく薄い──ような、気がする。
名無しは停止しかけた己の思考に、どうにか活を入れた。
陰陽寮で働く。
そんなことが、できるのだろうか。
「わたしで、お役にたてるんでしょうか」
娘の漠然とした不安は、言葉となって唇からこぼれた。
何かの間違いなのではないだろうか。でも。
気持ちはふわふわとひどく落ち着かない。
思えば、誰かに存在を求められるのはこれが初めてのことだった。
「勿論だとも。今回だって、十分役に立ってくれたじゃないか。
僕としては是非ともお願いしたい……ところなんだけどねえ」
狐顔の男はそう言って、神妙な顔で首を捻った。
──けど。
けど、何だろう。
濁された語尾に、名無しは落胆と同時に、奇妙な安心感を覚えてもいた。
慣れ親しんだ、薄暗く冷たい谷底に、再び足がついた。
言うなればそんな感覚だ。浮ついていた気分が落ち着きを取り戻す。
『けれど、何だ』
名無しが何か言う前に、訊ねたのは蛇神だった。
しゅう、と音を立て、白く小さな蛇体が名無しの肩の上に顕現する。
その問いかけに、陰陽頭はちらとベッドの上に視線を寄越した。
「そこのカタブツがねえ。渋い顔をするんだよねえ」
それは、
名無しは、すうっ、と体の芯が冷えてゆくような感覚を覚えた。
喉の奥に、何か大きな塊でも引っかかったかのような気持ち悪さがある。
「まあ、興味があれば声をかけておくれよ。
あれこれ不安だと言うなら、最初はお試し期間というのもアリさ。
返事はいつでも構わないとも」
ただ、そういう選択肢があるということだけ、頭の片隅に入れておいてくれると嬉しいな。
そんな男の声も、今の名無しにはひどくぼやけて聞こえた。
思考が凍りついている。うまく返事を返せない。
その様子を疲れとみたか、陰陽寮の長はあっさりと話を切り上げた。
「さて、話はこれで終わり。関口の面倒まで任せてすまなかったね。
そろそろ君も休んではどうかな。
椅子の上でうとうとするより横になった方が良い」
部屋は多和殿が用意してくれているからね。
微笑む男の言葉に、名無しは曖昧に頷いた。
今、己はどんな顔をしているのだろう。ひどい顔をしている気がする。
何かに、ひどく打ちのめされた感覚があった。
だが、それが何であるのかが、娘にはわからない。
ひとつ、頭が回っていないことだけは確かだった。
○ ○ ○
ぱたん、と扉の閉まる音がした。
疲れも限界なのか、例の娘は随分とふらついていたように見える。
とはいえ、蛇神もついていることだ。流石に客間まではたどり着けるだろう。
そう判断して、陰陽頭は徐にベッドに向き直った。
「さて、これで満足かい?」
男の呼びかけに、関口がぱちりと目を開けた。のっそりと身を起こす。
寝起き故か、男は普段に輪をかけて不機嫌そうな目つきで上司を見た。
カーテンの引かれた薄暗い室内に、男の明るい瞳ばかりが
「まさかそれを言うために、ここで話を始めたのですか」
「話が早いだろう? 異論があるなら割って入ることもできた訳だし」
その鋭い視線にたじろぎもせず、枯れ草色のスーツの男は肩をすくめた。
隙間風にふわりとカーテンが揺れる。シーツの上で、光の模様が形を変えた。
「しかしまあ、君は話の最中も眠ったふりを続けていた訳だし。
取りあえず納得はしてくれたものと思っているんだけど」
「単に起き上がる機を見失っていただけです。
そもそも、自分が起きない可能性は考えなかったんですか」
「隣で会話をはじめて、君が起きない筈がないだろう」
のらりくらりと返事をする上司に、関口は溜息をついた。
この男と話をしようとすると、どうにも要点がずれていきがちだ。
いつものにやけ顔を前に、良くないな、と関口は気を落ち着けた。
「しかし、どうして
確かに一度意見は述べましたが、結局のところ人事権を握っているのは貴方だ。自分の意見など無視することもできたでしょう」
「そうだよ。もちろんだとも。
でも君、僕が彼女を追い込む形で強引に勧誘したら文句を言うんだろ?」
「それは、……まあ」
おそらく、そうするだろう。
頷けないものは頷けないからだ。
「ほら。だったら最初から君が納得する形で話をするしかないじゃないか。
全く、面倒な男だなあ」
狐顔の男は、芝居がかった身振りで大げさに嘆いて見せた。
それは、わざわざこのタイミングで話をはじめた理由にはならない。
関口がそう口にする前に、陰陽師はまたとんでもないことを言い出した。
「あ、そうだ。それから、帝都についたらしばらくは君の家で彼女を預かって貰おうと思っているんだけど」
「何故」
あっけらかんと付け足された発言に、関口は思わず眉間の皺を深くした。語気が僅かに荒くなる。
男ひとりの家に年頃の娘を放り込もうなど、この男は何を考えているのだ。
しかし、そう言い放った陰陽師は、今度はいたって真面目な顔をしていた。
「何故って、彼女に常識を教える人間が必要だろう。
蛇神憑きの少女を、まさか一般人に預ける訳にもいくまいよ」
「それはわかりますが、なぜ自分に預けようとするんです。
せめて、誰か手の空いた女性職員に──」
関口の言葉を遮って、男は言った。
「いいかい。
陰陽寮所属の女性職員の中で、今手が空いてるのは
彼女に他人の面倒が見れると思うかい?」
「…………いえ」
思い浮かんだ顔に、関口はひどく渋い顔をした。
あれは、同僚としてはそれなりに頼もしい女だ。しかし。
しかし誠に残念ながら、人には向き不向きというものがある。つまり、
「そうだろう。となれば、やはり君のところが一番妥当だろうよ。
彼女も、寝起きを共にするなら、気心の知れた相手のほうが安心だろうしね」
半ば得意げに胸を張る上役に、関口は渋々首を縦に振った。
仕方が無いのはわかった。だがそれはそれとして、頭は痛む。
男は眉間を押さえてひとつ、重たい溜息をついた。
「ところで」
関口が切り出した。
娘の件は、これ以上追及したところでのらくらと逃げられるだけだろう。
ならば最後にひとつだけ、関口には訊ねておきたいことがあった。
「今回の件、
「うん? 何が聞きたいのか、ちょっとよくわからないな」
狐顔の陰陽師が首を傾げた。
細いその目が、薄く見開かれている。
その表情は、薄闇に紛れてひどく曖昧に映った。カーテンの影が揺れる。
「では重ねて問いましょうか。
結界の人払いが効いていなかったなど、ひどく初歩的な手抜かりだ。
貴方の仕事にしてはあまりに
今回の顛末、何か思惑があったのではないのか」
「……ふ、」
わずかな沈黙のあと。
陰陽師は腹を抱えて、弾けるように笑いはじめた。
「ブッ、アッハッハ、あーもう、やだなあ!
君は僕の事を買いかぶりすぎだよ。
僕だって全知全能の神じゃない。失敗のひとつくらいはするさ」
ヒイヒイと身を捩って、男は笑う。
笑いすぎてこぼれた涙を指の腹で拭いながら、陰陽師はひらひらと手を振った。
「僕だって、事の始末に今の今まで東奔西走していたんだぜ。
しくじりを許せとは言わないけど、態々面倒ごとを増やす理由なんてない事ぐらいは判って欲しいなあ」
なるほど、その言い分は、関口の耳にもそれなりにもっともらしく聞こえた。
男の枯れ草色のスーツは、一晩着の身着のままとあって少しよれて見える。
思えば、彼はまだ、昨日の晩から一睡もしていないのだ。
関口は少しばかり気まずさを覚えた。
「そうですか」
「そうだとも。いいから君はもう少し寝ておきなよ。
僕もいまから仮眠を取る。出発は明日の昼だよ」
それじゃあね。おやすみ。
狐めいた顔ににんまりと笑みを浮かべ、陰陽師が部屋を去る。
関口はもう一度溜息をつくと、再びベッドに潜り込んだ。
彼の言い分を一から十まで信用できるかと言われれば、それは否だ。
だが、もう何を訊ねたところで、あれ以上の返事が返ってくることはないだろう。
無茶ぶりはいつでも突然に降ってくるものだ。
ならば、せめて休息くらいは取れる内に取っておくべきだった。
○ ○ ○
部屋を出た名無しは、強い光に目を細めた。
洋館の廊下には、真昼の明るい陽の光が燦々と差し込んでいる。
薄暗い室内から出たばかりの名無しの目には、少しばかり刺激が強かった。
『時に娘や』
「……」
『娘』
反応のない娘に業を煮やして、蛇神はその首筋にぴとりと尻尾を貼り付けた。
冷えた鱗の感触に、名無しはひゃっと小さく悲鳴を上げて飛び上がる。
そうしてようやく、娘は己の顔を覗き込む蛇神に気づいた。
「わ、あの、すみません、ぼうっとしていました。
カガチさま、何かご用ですか」
『お前、何ぞ体調に異変を
白蛇の問いに、名無しは小首を傾げた。
少しだるい気もするが、それは単なる寝不足によるものだろう。
他に違和感はない。名無しは正直に口にした。
「いえ、特には。ちょっと眠たいくらいです。
どうかされましたか」
『いや。……何もないなら、構わんのだ』
白蛇は、それきり沈黙した。
だが、娘の肩口に蟠る蛇の顔は、何か思案しているようにも見える。
訊ねてみたくもあったが、答えは返ってこないように思えた。
『どうした、何を立ち止まっておる。
構わぬと言ったろう。いいからお前はもうお休み。
帝都での身の振り方も、それから考えるが良かろうよ』
「……、はい」
蛇神の、優しく諭すような口ぶりに、名無しはどうにか頷いた。
だが──身の、振り方。
それの何を選べというのだろう。
娘の目の前にはただ、昼の陽に照らし出された廊下が白々と伸びている。
○ ○ ○
翌日。
出立の用意を調えた名無しは、玄関先へと向かった。
広々とした玄関前には、先に用意を終えたらしい関口とハルアキが立っている。
前もって聞かされていた時間には間に合うように準備したつもりだったが、もしかして遅れていたのだろうか。
名無しは慌てて男たちに駆け寄った。
「あの、すみません。お待たせしました」
「いいや、まだ時間前だよ。出立の準備はいいかい?」
「はい。荷物は全部持っています」
もとより、純粋な娘の持ちものなどほとんどない。
守り刀は笈山天神のもとに
あとは、十和子から貰った着替えの類いがあるだけだ。
「宜しい」
狐顔の陰陽師はひとつ頷くと、名無しを馬車へと促した。
その後ろに、関口が続く。
潮邸の前には、村の人々が続々と見送りに集まっていた。
顔ぶれは、参道前に集っていた集団とほぼ変わりはない。
ただ、まるで憑き物が落ちたように、その表情は穏やかになっていた。
「……関口さま?」
ふと、背後の男が立ち止まった気配に、名無しも足を止めた。
振り向いた先、関口の目は、見送りに集まった人々の少し外れに注がれている。
「少し離れます。君は先に行ってくれますか」
「えっと、はい……?」
こんな時に、どこへ行くというのだろう。
馬車から離れ行く関口の背を目で追えば、その先にはあわあわと落ち着かない様子の弥平の姿があった。
「えッ、なッ、な、何かご用ですかッ」
「失礼。あの晩、弓を引き続けて下さったのは貴方で相違ありませんか」
「そ、そうです」
「ありがとうございました。お陰で、随分助かりました」
「いッ……いえ、……そんな、おれ、大したことしてねえです」
恐縮して尻込みする弥平に、関口は重ねて礼を述べる。
そして、その一部始終を、その場に集まった人間が見つめていた。
「……あの、」
「うん? なんだい?」
「もしかして、
「さて、どうだろうねえ」
馬車の中で、狐顔の陰陽師は意味深な笑みを浮かべた。
対面に座った名無しには、その真意は読み取れない。
ただ、今この瞬間、関口の“助かった”の一言で弥平に対する風当たりが変わったのだろうことは、名無しにもわかった。
ぎこちない融和の気配が、そこにはある。
ふと見渡せば、あれほどはっきりと分かれていた村人側と坑夫側の間にも、ぽつぽつと会話が生まれているらしいことが見て取れた。
「村のひとと、鉱山のひと、うまくいくんでしょうか」
「さあ? そこまでは僕たちの仕事じゃないからねえ。
ただまあ、うまくやっていかないと村側はどうにもならないだろうね」
「どうしてですか?」
首を傾げる名無しに、そりゃあねえ、と陰陽師は答えた。
「今回の大暴れで、あの百足はそこら中に体液をまき散らしているからね。
結界が効いていればまだマシだったろうけど、汚染された畑はしばらくダメだろうよ。
となれば、
うまくやるしかないのさ」
「それは、」
もしかしなくても、相当大変なことなのではないだろうか。
「だ、……大丈夫なんですか?
まだ、本当に石がたくさん取れる山かどうか、わからないんですよね?」
「うーん。そこはまあ、大丈夫じゃないかな」
実に適当な男の口ぶりに、名無しは不安になった。
もしや、己はただ、村をひとつ滅ぼす手伝いをしたに過ぎないのではないか。
そんなことを考える娘の表情に、陰陽師は苦笑してみせた。
「全く、心配性だなあ。それじゃあ、君にひとつ豆知識を教えてあげようか。
大百足の類はね。
お待たせしました、と声がして、馬車に関口が乗り込んできた。
扉が閉まると同時に、からからと馬車が動きはじめる。
窓の外では、村の面々が思い思いに手を振っていた。
彼らはどうなるのだろう。
窓の外を眺める名無しの思考は、再びそこに舞い戻っていた。
あの弥平というひとは、村の中にうまく戻れるだろうか。
そうなればいい、と名無しは思った。
村側と鉱山側は、危うげながらも歩み寄りはじめているように見える。
そしてそれは、思えば
仮に、結界が破れなければ。
彼は事を大きくした張本人だが、
そう考えると、物事というのは不思議なものだな、と名無しは思った。
何がいいことなのか、事が起こってみなければわからない。
この帝都行きも、そうなのだろうか。
名無しは馬車の進行方向に目をやった。
今はまだ、見えるのは山道だけだ。
ちら、と隣を見上げれば、見慣れた関口の顰めっ面がそこにある。
視線に気づいた男に何か、と問われて、名無しは顔を横に振った。
今訊ねたいことがあるとすれば、それは一つだけだ。
なぜ、己が陰陽寮に入ることに反対なのか。
それを正面切って訊ねる勇気ははまだ、名無しにはない。
からからと、軽快な車輪の音が響いている。
向かうはいよいよ帝都である。
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