第3話 黒髪

 

 ことり、奈緒の前に、タエ子と同じカップが置かれる。

 白い器の中、黒々とした水面が揺らめいていた。珈琲コーヒーだ。

 ちらと様子を窺えば、タエ子は早々にカップに口をつけていた。


「あの、……いただきます」


 未知のものを初めて口にする瞬間は、いつだって緊張する。

 奈緒は意を決し、ちびりと舐めて──きゅっと目をつむった。

 苦い。そして酸っぱい。


 飲み干せる気がせず、奈緒は早々にカップを置いた。

 タエ子と、目が合う。


「……、はぁ」


 女はひとつ溜息をつくと、無言で奈緒のカップを手元に引き寄せた。

 ミルクポットを傾け、たっぷりとクリームを注ぐ。

 追加で角砂糖を二個放り込み、銀のスプーンでしっかり混ぜ、それを奈緒の目の前に押し返した。


「ん」


 しどけなく頬杖をつく女の、その目が飲め、と言っている。

 奈緒は恐る恐る、カップの中身を再度口に含んだ。


「!」


 舌を刺すような苦みと酸味は、クリームと砂糖によって随分と緩和されていた。

 こくりと嚥下すれば、かぐわしい芳香が鼻に抜ける。

 文句なしに美味しかった。


「あの、ありがとうございます」

「別に。礼を言われるようなことじゃないわ」


 そっぽを向いたまま、女は気のない返事をした。

 その反応は、書類の説明の時と同じだ。

 愛想はないが、無視されることはない。


 もしかして。

 ちびり、甘くまろやかになった珈琲を舐めながら、奈緒は思う。

 このひと、実は、最初の印象ほど怖い人ではないのではないか。


 だったら、──訊ねてみても良いだろうか。

 そんな考えが、奈緒の胸中でそろり頭をもたげる。


 選ぶには、まず知ること。カガチの言葉で、それは理解した。

 しかし普通のことについてはともかく、陰陽寮について知る手段はあまりにも限られている。

 陰陽寮について知る人物のうち、奈緒にとって最も身近な関口が口をつぐむとなれば、情報は他に求めるほかない。


 たとえば。

 関口と同じく陰陽寮に所属するのだという、目の前の女性からだとか。


 駄目で元々だ。

 奈緒は思い切って口を開いた。


「少し、お訊ねしてもいいですか」

「何を?」

「えっと、……お仕事のこととか。

 タエ子さんは、陰陽寮の方なんですよね。どんなことをされているんですか」

「なに? 早太郎から聞いてないの?」


 眉を顰め、女は娘に視線を寄越した。


 


 理由もなく、肋骨の内側にかたちのない靄がかかる。

 怪訝な顔のタエ子に、奈緒は慌てて首を横に振った。


「ふうん。そ。

 ……基本的に、仕事はバケモノ相手の切った張ったよ。

 正直バケモノ退治そのものより、前後の書類仕事の方が面倒だけどね」

「しょるい」


 そうか、と思った。間近に見ていたのに、何故そこに思い至らなかっただろう。

 言われてみれば、関口はあの宿場町で名取り地蔵が怪しいと言っては資料を集め、事が終わっては報告書の作成に追われと書類と格闘していたではないか。


 奈緒はようやく、己の前の巨大な壁に気がついた。

 文字を読めず、書けもしない己に、陰陽寮の仕事が果たして勤まるかどうか。

 そしておそらく、足りないものはそれだけではない。


 飲みきったカップをソーサーに戻し、タエ子はテーブルの上に手を組んだ。

 冷えた女の瞳が奈緒を射貫く。


「それじゃ、こっちからも質問いい?

 あんたウチのから勧誘されてるらしいけど、?」


 核心を突く問いに、どくんと心臓が跳ねた。


「キャーッ!」


 唐突に、甲高い女の悲鳴があがった。

 場所は珈琲館カフェーの中。おそらくは手洗いのほうからだ。

 瞬間、ばっと身を起こし声の方に向かうタエ子の背を、奈緒は戸惑いながらも追いかけた。


 ○ ○ ○


 ボーイが、必死に娘を宥めている。


「どうされたのですか」

「か、髪が、……髪を、切られたのです」


 現場は婦人用の手洗いの中だった。

 狭苦しい流しの床には、見事な黒髪が観世水紋を描くかの如く散っている。

 その中央で、無残にも髪を切り落とされた娘がひとり、すすり泣いていた。


「一体、誰に」

「わかりません。お手洗いから出た瞬間、後ろからぐいと髪を掴まれたのです。私、もう本当に魂消たまげてしまって、思わず声を上げたのですけれど、その時にはもう」


 そこまで言って、娘はわっと顔を覆い、一際大きく泣きじゃくり始めた。

 その証言に、娘を宥めていたボーイは困惑の表情を浮かべている。

 奈緒もまた、彼とほとんど同じ気持ちだった。


 なぜなら。

 この店の婦人用手洗いは個室がひとつきり、出入り口もひとつきり。

 窓は人など通りようのない、換気用のちいさなもののみ。


 証言通り、娘が手洗いから出た瞬間髪を後ろに引かれたのだとすれば、下手人は個室の中にいたことになる。

 それがまず、おかしい。


 その上、手洗いの出入り口は先にも確認したとおり

 仮に、どこかに隠れていた下手人が飛び出しざまに娘の髪を切ったのだとして、他の誰にも見とがめられずに逃げおおせた筈はない。

 下手人の姿を見たか、という駄目押しのような問いにも、娘は首を横に振った。


 ふと、奈緒は髪を斜めに切り落とされ、すすり泣くその娘に見覚えがあることに気づいた。

 つい先ほど、年かさの紳士と連れ立って入ってきた娘だ。


 その連れの紳士はどこにいるのだろう。

 周囲を見渡せば、あたりには店内の客がぞろぞろと集まってきていた。

 野次馬たちは手洗い場を覗き込んでは、それぞれ好き勝手な話をしている。


「そういや、最近人の髪を切って回る通り魔が出るとかいう記事を見かけたぜ。

 大方変態の仕業だろうが、うちの家内は妖怪だァなんて騒いでてなあ」


 なるほど。噂のひとつを耳で拾って、奈緒は得心した。

 アヤカシの仕業であれば、この不可解な状況も頷ける。

 悲鳴を聞くなり、タエ子が駆けつけたのもそういうことなのだろう。


 やはり、彼女は態度がぶっきらぼうなだけで、根はいい人なのではないか。

 そう思って見上げたタエ子の顔は、興味が失せたとでも言わんばかりのひどく冷たいものだった。

 さっと踵を返すタエ子の背を、奈緒は再び、慌てて追った。


「あの、」

「何よ」

「えっと、いいんですか?」

「だから何が?」

「さっきの……アヤカシの仕業なんじゃあ。

 どうにかしなくていいんでしょうか」


 元のボックス席に着くなり、タエ子はドスッ、と乱暴に腰掛けた。

 煙草のパッケージから新しい一本を取りだして、火をつける。

 胸いっぱいに吸い、ふうッ、と大きく紫煙を吐いてようやく、タエ子は奈緒の問いに答えた。


「いいんじゃないのォ? 


 心底面倒くさい。そんな心情がありありと浮かんだ表情だった。

 どこか苛立たしげでもある。


 奈緒は訳もなく落胆を覚えた。

 そして、そんな己を身勝手だ、とも思った。


 己が勝手にこんな人なのではないか、と期待しただけだ。

 違ったからといって、それを裏切られた、と感じるのはおかしい。


「もう質問はいい?

 いいなら、あんたがそれを飲み終わり次第出るわ」

「……、はい」


 席に座り、再度、カップに口をつける。

 冷え切った珈琲は、あまり美味しいとは思えなかった。


「失礼」


 ふと、テーブルに影がかかった。

 髪をぴっちりと後ろに撫でつけ、如何にも店の責任者らしきお仕着せを着た壮年の男が、ボックス席の前に立っている。


「おいタエ子。

 手洗い場の件で、怪異だなんだって客が騒いでる。

 妙な噂が流れる前になんとかしてくれ」

「はァ? なんであたしが?」


 どうやら、店の男とタエ子とは顔見知りであるらしかった。

 互いにひどく砕けた調子でやりとりをしている。


「そりゃ、お前が本職だからだろうが。

 何のために毎回席を貸してやってると思ってんだ」

「なによ。ちゃあんと毎回、席代含めた料金きっちり払ってるじゃない。

 それ以上のことを要求される謂われはないんじゃなくって?」

「ほおう。言ったな」


 低い声で、男が言った。


「じゃあこれまでに割ったグラス代に、今回派手に割ってくれたカップ分。

 纏めて今すぐ払って貰おうか。さもなきゃお前の職場に請求書回すぞ」

「…………。やりゃあいいんでしょ、やりゃあ」


 ブスッとした顔で、タエ子は渋々立ち上がった。

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