第8話 選鉱所

 

 名無したちは助手だという男に連れられ、善治郎の元へ向かった。

 案内されたのは、今は停止している採掘現場脇の、大きな納屋の中である。


「善治郎さん、連れてきましたよ!」


 大丈夫ですか、わかりますか。

 助手の必死の呼びかけに、手傷を負った男はうっすらと目を開けた。

 あたりには、土埃と、真新しい機械油の匂いとに混じって、鉄さびた、どこか生臭い匂いが充満している。血の匂いだった。


 薄暗い納屋の中、善治郎は長い手足を投げ出し、背を蒸気機関に預けてぐったりともたれかかっていた。

 その肩口は血で赤く染まり、首から頬にかけて青黒く腫れあがっている。

 気管が圧迫されているのか、呼吸はひどく苦しげだ。


 まるで、壊れかけの人形だった。

 今の善治郎には、初対面の時の溌剌はつらつとした印象はどこにもない。

 近づくことも、目をそらすことも出来ず、名無しは納屋の入り口に立ち尽くしていた。


「君」


 耳慣れた男の声に、名無しははっと顔をあげた。

 明るい虹彩と、視線がぶつかる。

 隣に、いつのまにか関口が立っていた。


「顔が青い。辛ければ、視線は逸らしていて構わない」

「だ……だいじょうぶ、です」


 別に、ここは無理をするところではない。

 そうと判っていながら、名無しはよくわからない衝動に駆られて、妙な意地を張った。

 呆れられただろうか、と思う。


「呪毒だねえ」


 善治郎の傷口を見ていた狐顔の陰陽師は、からっとした声で言った。

 そして懐から札を一枚取り出し、傷口に張る。

 その白い紙面に、じわり赤が滲んだ。


「こっ、……これで、治るんですか? 助かるんですよね?」

「治りはしないかなあ。応急処置なので、せいぜい進行を遅らせるだけです。

 呪いの類いだから、治そうと思うなら大本を叩かないことにはどうにも」


 そんな、とか細い声で呻く助手を尻目に、男は言葉を続けた。


「まあ、百足ムカデの毒なのは間違いない。

 封印されていたアヤカシとやら、もう這い出してきていると見るべきだろうね」

「あんたらのせいだぞ」


 低い、怨嗟の声が響いた。


「あんたたちが神社を移すなんて余計なことをしたから!

 だからバケモノが這い出してきたんだ!」


 罵声は外から飛んできていた。

 納屋はいつの間にか、参道前からついてきた群衆に取り囲まれている。

 関口がごく自然な動作で半歩前に出て、名無しをその広い背に庇った。


「やだなあ。


 それに対して、陰陽師はいつもの薄っぺらい笑みを浮かべた。


「だから安全の為に結界を張りますよ、掘り返さないで下さいね。

 僕たちは口を酸っぱくして説明していたはずです。まさか覚えておられない?」

「安全だァ? あんたの言うその結界とやらが本当に役に立つってンなら、何でバケモノが──」


 その言葉を遮って、わあっ、と叫び声があがる。


「おいッ、また出たぞ! 今度は弥平がやられた!」


 そんな横槍が入った。


 ○ ○ ○


 掘り返されたばかりの湿った土と、それから鉄っぽい血の匂い。

 へたり込んだ弥平は青ざめた顔で俯き、凍えてでもいるかのように震えていた。

 力なくだらんと下ろされた手の中には、割れた土器かわらけの破片が握られている。


「それで、何があったか話せますか?」


 枯れ草色のスーツの男がその前に膝をつく。

 視線を合わせると、青ざめた顔の青年はびくりと肩をふるわせた。


「た、……多和さんが」


 意味を成さない音をいくつか絞り出した後、弥平はようやくそう言った。


「多和さんが、近寄ってきて、……何か用かと……。

 でも……そしたら、急にヘンになって。

 だから、俺、俺は……咄嗟に、手に持ってたもので殴りつけッちまって」

「そうしたら、その多和さんっぽいものは逃げ出した、と」


 まだ幾分幼さの残る顔で、弥平はこくん、と力なく頷いた。

 善治郎と異なり、弥平はいくらか擦り傷ができた以外はほぼ無傷である。

 当事者から証言を引き出せた、というのは大きい。


 だが、ここにはそれ以上の問題があった。


「うん。それはさぞ恐ろしかったでしょうね。

 それで、君はここで何をしていたんです?」


 びくり、弥平の肩が一際大きく跳ねた。


 彼の脇には、掘り返されたばかりの湿りを帯びた穴がある。

 割れて砕けた土器がある。

 そして、──それを見る無数の目がある。


「掘り返すな、って言ったはずなんですがね」


 結界を破った犯人は、誰の目にも明らかだった。


「弥平、テメエ!」

「あー、そういうのちょっと後にしてくれますかね? 邪魔です」


 如何にも面倒そうに、陰陽師は言った。


「何故止める? こいつがやらかさなかったら済んでた話だろうが!」

「この場でギャンギャン彼を責め立てればバケモノが死んでくれるとでも?」


 しんと静まりかえる。返事はなかった。


「はい、ご理解頂けたようで何より。

 それで、念のためお尋ねしますが、他にほじくり出した場所は?

 下手な嘘はつかないでくださいね。どうせ後でわかる事なんで」

「村のはずれの、……採掘坑そばのやつ」

「それだけ?」


 こくん、と再び弥平が頷く。

 その表情を確かめて、陰陽師は一つ、フウと溜息をついた。


「どうします」

「ま、起きてしまったことはしょうがない。出来ることをやるしかないさ」


 短い関口の問いに、ハルアキはひょいと肩をすくめた。


「幸い、二重に張った結界の内、破れているのは内側だけ。

 百足の怪はまだ村の外には出ていないと見ていい。

 予定はズレたが、このまま討伐を執行するさ」


 そして芝居がかった仕草で両手を広げ、辺りを見回して言った。


「それじゃあ皆様、改めてご協力願えますかね?」


 ○ ○ ○


 怪物の出没範囲は村全体、動ける人員はわずかに二人。

 守れるのは精々一カ所が限度である。

 ならば、守るべき対象は一カ所に集めてしまうほかない。


 そうして選ばれたのが、この未稼働の選鉱所だった。

 鉱石をより分けるためのこの施設は、本格稼働を前に鉱山が停止してしまったが為に、ほとんどまっさらの状態で放置されていた。


 西日に照らし出された広々とした吹き抜けに、作業台だけが並ぶ。

 この空間であれば、村人と坑夫、その全てを収容できる。


 それ故にこそ、避難所の中は息詰まるような、異様な雰囲気に満ちていた。


『不安か?』

「カガチさま。その……はい」


 避難所の正面扉を背に、名無しは頷いた。

 ここには、あらゆる立ち位置の人間が集まっている。


 鉱山に反対する者。

 生活の糧を奪った村人を恨む者。

 その板挟みになった者。


 だが、関口も、ハルアキも、ここにはいない。


 ○ ○ ○


 避難所に人を集める。

 そういう話になったとき、反対意見が上がらなかったわけではない。

 その場に村の人間のほとんどが集まっていたとはいえ、ではなかったからだ。


 では、残りはどうすればいいのか。野次馬に来なかった人間は。

 そのまま取り残すのか、避難所に誘導するのか。

 誘導するのだとすれば──避難所に訪れるそれを、


 それは抱いて当然の疑念だった。

 百足を本性とするのだという例のバケモノは、今のところ多和の姿でしか現れていない。だが、他の姿を取らないと誰が言えただろう。


 それに答えたのは、やはり例の陰陽師だった。

 その点についてはご心配なく。避難所には彼女を残していきますので。

 ぽん、と肩に置かれた手に、名無しは大いに動揺した。


「あの、わ……わたし、」


 そんなこと、とても。

 そう言い切る前に、狐顔の男は名無しにそっと耳打ちした。


「大丈夫。君にはできずとも、君の守り神にはにはできる」


 手元に、ずしりと重たい何かが押しつけられる感触があった。

 しばらくぶりの、蛇神の鏡だった。


 ○ ○ ○


 やり遂げられるだろうか。わからない。

 ただ、やらねばならないのは確かだった。

 ひとつ、深呼吸をする。それでも息苦しさは晴れなかった。


『まあ、そう気を張るでない。

 その……なんだ。おれもついておるぞ』


 此度はあまり役には立たんかもしれんが。

 ごにょごにょと語尾は曖昧になる。

 それでも、名無しはその言葉で緊張が解けるのを感じた。


 そうだ。その通りではないか。

 ここには関口もハルアキもいないが、蛇神はいる。

 ふ、と名無しは笑った。


「はい。カガチさまが居てくださるから、わたし、心強いです。

 ありがとうございます」

『そうか』


 うむ、と蛇神はいつもの調子で頷いた。


 問題の残りの人間は、既にぽつぽつと集まりはじめている。

 いまのところ、カガチの警戒に引っかかった者はない。

 だが、まだ姿が見えない者も少なくはないようだった。


 善治郎の妻、多和もその一人だ。

 彼女はまだ、無事かどうかも定かではない。


 脇の方では、ぐったりとした善治郎が看病されている。顔は紙のように白い。

 こんな光景を多和が目にしたら、どんな反応をすることだろう。

 それをやったのが、己の顔をした何かだと知ったら。


 夫を愛している。うっとりとした目でそう語った女のことを、名無しは思った。


「あの、もし」


 とんとん、と扉が揺れた。

 聞き覚えのある声に、名無しははっと振り向いた。

 扉の磨り硝子の向こうに、ほっそりとした女の影が見える。


「えっと、……どなた、ですか」

「潮の妻です。

 うちのひとが、こちらに居ると聞かされて来たのですけれど」


 場に緊張が走った。

 多和だった。


「カガチさま」

『問題ない。これは人の方よ』


 蛇神の囁きに、名無しは頷いた。

 扉に手をかける。


「おい、本当に開けるのか」


 名無しが扉を開ける直前、誰かがそう言った。ひどく震えた声だった。

 手を止めて振り向けば、いくつもの怯えを含んだ視線が名無しに突き刺さる。

 その圧に、名無しはたじろいだ。


「何言ってんだ、善治郎さんはこんな状態なんだぞ! なあ、あんた。

 そいつの言うことは気にしなくていい、奥様を入れてやってくれ」


 動揺する名無しに、また別の方から声が飛んだ。

 今度は善治郎の周囲で看病をしている一群からだ。

 苦しげに呻く善治郎が、名無しの視界を掠める。


「そんな状態だからだろうが!

 潮の旦那も、弥平も、襲ってきたのは奥方だって言ってたじゃねえか。

 それを、ここに入れて本当に大丈夫だって言い切れるのかよ!」

「人間かどうか、その人が確かめるって言ってたろうが!

 それが信用ならねえとでも?

 ハッ、俺らにしてみりゃ、あんたらの方がよっぽど信用できねえけどなァ」

「なんだと!」

「おい、お前らやめろッ!」


 乱闘でも始まりそうな危うい空気を、破ったのは茂七の一喝だった。

 あたりは水を打ったように静まりかえる。


「……もう、俺たちで判断できるような状況じゃアねえだろう。

 それは皆も判っている筈だ。なら……任せるしかないだろうが」


 ──ああ、そうか。

 茂七のその言葉に、名無しは雷に打たれたような心地がした。


 彼らにとっては、己は右も左もわからない小娘では

 この状況にあってただ一人、恃むべき相手なのだ。

 恰も、己にとってのカガチや、ハルアキや、関口のように。


 そのことに気づいた瞬間、名無しは恐ろしくなった。

 その責任を、己は負えるのだろうか。

 指先がしんと冷えてゆく。


 彼らの期待に応えられるだけの自信は、まるでなかった。

 彼らがどう思っていようと、名無しはやはり、ただの小娘に過ぎない。

 この避難所にあつまった人間、その全ての命を背負うにはあまりにも無力だ。

 視線はあまりにも雄弁に名無しに縋り付く。息が詰まりそうだ。ああ、けれど。


 ──この件に関しては、何が起こっても君のせいではない。


 あの夜の、関口の言葉を思い出す。

 彼は確かに名無しにそう言い、名無しはそれに頷いた。

 それでも、名無しはもう、その言葉に頷くことは出来そうになかった。


「あの、」


 沈黙を破って、名無しはどうにか、からからに渇いた口を開いた。

 心臓はばくばくと激しく脈打っている。

 本当にこの判断は正しいのだろうか。わからない。


 それでも、その判断を下せる人間は、この場に名無ししかいない。

 己に集まる、無数の怯えたような視線が、名無しには恐ろしかった。


「このひとは、だいじょうぶです。

 その……開けます」


 周囲が固唾を呑んで見守っているのが、痛いほどにわかった。


「騒がしくてごめんなさい。どうぞ、入って下さい」


 傾きかけた日を背に、そこに立つ女は確かに多和であるように見えた。

 目元のぱっちりとした、どこか少女めいた顔だちに赤い紅が浮いている。

 その瞳は、今は頼りなげに揺れていた。


「ありがとうございます。あの、夫は……」

「あの……、あちらです」

「──善治郎さん!」


 ぐったりと横になった善治郎を目にした瞬間、女は叫んだ。

 途中で靴が脱げたことにすら取り合わず駆け寄って、意識の朦朧とした夫に寄り添う。

 その胸に顔をうずめて泣きじゃくる姿は、間違いなく夫を愛する妻のものだった。


 良かった。間違っていなかった。

 胸をなで下ろしながら、名無しは後ろ手に扉を閉める。


 その扉を、再度叩く者があった。

 しまった。もしかして、一緒に来ていた誰かを閉め出してしまっただろうか。

 反射的に扉にかけた手を、しかし蛇神の声が押しとどめた。


『──


 その硬い声に、名無しはぶわりと全身の毛穴が開くのを感じた。

 どっと冷たい汗が噴き出す。つまり、これは。

 硝子に映った影が、途端に薄気味悪いなにかに見えた。




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