第9話 笈山天神社縁起
気づけば、西日が家々の屋根を赤く照らしていた。
夜は人の時間ではない。少し避難誘導を急ぐべきだろう。
黙々と歩を進めながら、さてあと何人だったか、と関口は思考を巡らせた。
「さて、名簿によれば残るはあと二人か。
誘導が終わったらいよいよ狩りの時間だ。準備はできているかい?」
「ええ、まあ」
「おや、気の乗らない返事。何か不満でも?」
実のところ不満はないではない。しかし、それはひどく
言っても詮無いことと重々承知していた関口は、心外だ、という顔の上役に対し努めて平静に答えた。
「いえ。……ただ、腑に落ちないだけです。
なぜ、
弓は持ってきておられたはずでしょう」
何事にも定石はある。
それは怪物退治にも当てはまることだ。
例えば、百足の怪を退治するなら、まず行うべきは蟇目神事である。
蟇目とは、穴のあいた中空の木製
これを射ると、穴に空気が通ることで笛の如く鋭い音を発する。
特定の手順を踏み、夜中にこの蟇目を射放つ儀礼を、蟇目神事という。
魔怪を、それも、特に百足の類を退けるにこれより適した儀式はない。
さもなければ、せめて蝦蟇の毒を用いるべきだ。
周の関尹子に曰く、「
百足の呪毒が蛇神には致命的であるように、百足の怪異には蝦蟇毒こそが致死性の猛毒となる。
そんな関口の疑問に対し、狐顔の陰陽師はのんびりとした口ぶりで答えた。
「そうだなあ。馬車の中で読み上げて貰った縁起を覚えているかい?
覚えているならどう思った?」
「……どちらかといえば、
天王社としても不自然な点は目につきますが」
天神とは、本来は国津神に対する天津神を指す語である。
しかし菅原道真公がその死後信仰を得るようになって以降は、天神とは主に道真公を指すようになった。即ち、天神社とは大方、道真公を祀る社のことである。
対して、天王社とは、牛頭天王を祀る社のことである。
牛頭天王とは疫病神であり、また疫病を退ける神であるが、恐ろしげな容貌に牛の角を有すること、妻問いの旅の最中に宿を借りることなど、その謂われには笈山天神社縁起と相通じるところが多い。
その関口の解に、陰陽師は満足げに頷いた。
「そうとも。笈山天神社は、元々は笈山
明冶元年の神仏分離令を受けて名ばかり変えているがね。
そして、天王社としても不自然、という指摘も的確だ。
笈山天神縁起には後半の
──牛頭天王は、陰陽道と縁の深い神である。
陰陽道とは天文、暦法を基に呪術、占術を導く独自の技術体系であるが、そのなかで、牛頭天王はその
仮に笈山天神が陰陽道とは無関係の神であるとするならば、今度はその神体として祀られていたのが式盤であったのが不自然となってくる。
式盤とは、主に
「つまり、あの神社に祀られているのは、
流石に、ここまで丁寧に道を敷かれればわかる。
どこか愉快そうに問いを投げる上役に、関口はほとんど出ている答えを返した。
「
──もっと踏み込んでいえば、恐らくは、在野の法師陰陽師の類。
「そうとも。笈山天神社縁起とは、要するに百足退治に乗り出したはいいが蟇目も蝦蟇毒も調伏も失敗した誰かさんが、己を人柱に、牛頭天王の逸話を引っ被ってどうにかバケモノを封印しましたよという記録なのさ」
牛頭天王はまた、天刑星の化身であるともされる。
天刑星とはその名の通り天の刑罰を司るもの、悪鬼疫神を喰らう辟邪神であり、占術においては
関口は、馬車の中で己が読み上げた一文を思い出していた。
確か、これがまたひどく強い化物で──
「“矢も毒も調伏も効かぬ”、……成程。既に試していると」
「そういうこと。なら、
これでも僕は、君のことを信頼しているんだよ」
「それは、どうも」
なんとも答えかねて、関口は曖昧な返事を返す。
褒め言葉を素直に受けとるには、関口にはいささか
「さて、見つけた。あれが最後の二人だね」
関口は上役の指し示す方角を見た。
猫の額ほどの荒れた畑に、小柄な影がふたつ、並んで見える。
走り書きの簡易名簿に残る名は、
○ ○ ○
再び、とんとん、と軽い音を立てて、扉が揺れた。
西日を受けて、扉の硝子に浮かび上がるのは小柄な人影である。
それは、名無しの目には女のかたちに見えた。
「あのう、畦倉です。
軍人さんがたから、こちらに行けと聞かされたのですけれど」
「みよ。……みよ、お前か」
その声に、避難所の端で悄然としていた弥平が顔を上げた。
青年はよたよたとした足取りで扉に近づき、呼びかける。
「みよ」
「兄ちゃん! いたんだね。そうだよ、あたし。母さんもいる。
ねえ、なんでまたこんなことになってるの? ちょっと怖いよ」
「それは……、また、あとで説明するよ。何にせよ、間に合って良かった。
巫女さん、これはうちの妹です。入れてやって頂けませんか」
その懇願に、名無しは首を横に振った。
「……なんでだよ」
呆然と、弥平は呟いた。
「なあ、何でだ! 俺がやらかしたからか? だとしても、妹は関係無いだろう?」悪いのは俺だ。俺だけだ。だからお願いだ、入れてやってくれよ。
妹は足が悪いんだ。襲われたりしたらとても逃げられない」
なあ、頼む。
娘の膝に縋り付く男に、名無しはそれでも顔を横に振った。
「だ、……だめ、です」
「何故!」
「
沈黙が、場を支配した。
「みよ……?」
ど、ぉん。
返事の代わりに帰ってきたのは、破城槌でも打ち付けたかのような大音響だった。
みしみしと扉が軋む音に、避難所中から悲鳴が上がる。
磨り硝子の向こう、一度は確かに女と見えたそれは、今や明らかな異形に変じていた。
節くれ立った長い胴。金属じみた装甲に覆われた無数の足が、生ある者特有の滑らかさで蠢いている。
それは、恐ろしく巨大な百足の胴に違いなかった。
『兄、さァ、あん……』
『ええい気の早いッ! こういうのは夜になってからと相場が決まっておろうが。
まだ日も暮れておらんぞ!』
不気味に、女の声が
白蛇の八つ当たりじみた叫びも、さしたる問題にはならなかった。
誰がどんなことを叫んでいるかなど、最早誰も聞いてはいない。
皆が皆、恐慌状態に陥っていた。
「どッ、ど、どうしたら、」
『どうもこうもない、おれにもお前ににも打つ手はないぞ。
奴らが戻るまで扉が破れぬことを祈るだけだ!』
選鉱所の内側には、陰陽師の手によって一面に魔除けの札が貼り付けてある。
ただし、これらは全て応急処置にすぎない、というのが彼の言い分だった。
自ら招き入れない限りは、仮に襲われてもしばらくはこれで持つ。
だが、──しばらくとは、一体どれくらいを指すのだろう?
みし、という軋みが、今度は側面から聞こえた。
大百足が、建物ごと巻き潰そうとしているのだ。
右から、左から、前から、後ろから。
かさかさ、ざわざわと百足の這い回る音がする。
みしり。みし、みし。
四方が軋みを上げるたびに、護符がじわり、黒く滲んでゆく。
ぱら、と頬に降りかかる木屑に、名無しは天井を見上げた。梁が
そうだ。唐突に、名無しは気づいた。
確か、百足女の本性は、山を七巻するほどに巨大なのではなかったか。
側面は護符に守られているとして、では、
名無しは素早く、避難所全体に視線を巡らせた。
皆、軋む壁際を避けて中央によりはじめている。ほとんど団子状態だ。
これでは、上が破られればまとめて餌食になりかねない。
ぱらり、また木屑が落ちる。
わずかな隙間から、百足の足の、毒々しい赤が見えた気がした。
「み、──皆さん、
名無しが叫んだのと、天井板が一枚剥がれ落ちるのとが、ほぼ同時だった。
鈍い者は、それでも何が起こっているのかを理解できなかった。
気が利く者は上になど目もくれず早々に作業台の下に潜り込み、もっと気の利く者は近くの子供を引っつかんで作業台の下に押し込んでいた。
名無しは──。
作業台から離れ、扉の前に控えていた名無しは、遮るものなしにそれを見た。
天井にぽっかりとあいた板一枚分の穴から、紫に燃える夕空を見た。
それから、黒々とした胴と、赤い棘のような足を見た。
そして、黒髪を振り乱した、生白い女の顔を見た。
『うふ、ふ、ふふゥ』
──目が、合った。
澱んだ瞳が名無しを捉える。
百足女は、その目を三日月に撓め、うっそりと笑った。
「あ、」
みしり。
毒々しいほどに赤い足が、隙間にねじ込まれる。
それから、百足女はその足を
ばらばらと、木屑が落ちる。
『何を呆けておる、座り込んでいる場合ではないぞ!』
「……っ!」
蛇神の言葉に、名無しは我に返った。
そうだ。動かなければ。──逃げなければ。
頭は理解すれど、体はまるで言うことを聞かない。
腰が抜けている。がちがちと歯の根があわない。
まるで、全身が凍りついてしまったかのようだ。
「は、」
ばきん。ばらり。
ひときわ大きな板が剥がれ落ちた。星の瞬きが見える。
穴はもう、百足の巨体をねじ込むに十分なほどに広がっている。
『う、ふ』
ぬう、と。
白い女の顔が近づいてくるのを、名無しはただ、呆然とみていた。
『ええい、儘よ!』
しゃあッ、という蛇の威嚇音を立てて、女怪の前に白衣の少年が立ち塞がる。
両者が交錯するかに思われた、その時だった。
扉に預けていた名無しの体が、思い切り
「ひゃ、わ?」
とすん、と軽く、背に何かが当たる。顔に影がかかった。
おずおずと見上げれば、そこにはあの、真意の読めない薄笑いを浮かべた狐顔があった。
「──や。遅くなったね」
『あ、あ、ああアッ!』
何が起こったのか、百足女は突然、絶叫を上げてその顔を引っ込めた。
選鉱所の外でだあん、と巨体がのたうち回る音がする。
蛇神は、すんでの所でその毒牙から逃れていた。
「せ、関口さまは、」
「おや、目の前の僕よりまず彼の心配かい? これは妬けるなあ」
「な、え?」
「アハハ、冗談冗談。彼なら今、百足の相手をしているところさ。
それより、最後の避難者を連れてきたんだ。中に入れて貰えるかな」
そう言う男の後ろには、青い顔をした若い娘と、その母親らしき女がいた。
「みよ! 母さん!」
弥平が叫んだ。
今度こそ、彼の妹と母であった。
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