第7話 掘削機
たたらを踏んで前のめりになった体が、完全に鳥居の向こう側に出た。
その瞬間、うわん、と耳にすべての音が戻ってくる。
風にはためく布、鳥の
それから、好き勝手な噂話。
そうしたざわめきは、波が引くように静かになった。
恐る恐る、顔を上げる。
──顔。顔。顔。
鳥居をくぐるまでは影も形もなかった人々が、一様に驚いた表情で名無しを見ていた。
名無しにしてみれば、鳥居を出てみれば突然、群衆のどまんなかに飛び出していたような恰好だったのだが、おそらく彼らにしてみれば逆で、突然現れたのは名無しの方なのだろう。
彼らの視線の圧に、娘は少しばかりたじろいだ。胸元の木盤を強く抱きしめる。
「……おい、」
人々の間を割って、男がひとり、前に出た。
名無しにとってははじめて見る顔だが、それは初日に”神意を問う”ことに同意した人物である。
名は山本茂七という。白髪交じりの、恰幅の良い男であった。
「なぜ、それがここにある」
呆然と呟く茂七の視線は、名無しの胸元に注がれている。
より正確に言うならば、そこに抱えられた木盤に、釘付けになっている。
「え、と……」
そんな事を問われても困る。
名無しにしてみれば、言われたとおりのことをしただけだ。
助けを求めて見知った顔を探せども、人混みの後方に見つけた例の狐顔の男はいつもの薄ら笑いを浮かべたまま、ひらひらと手を振るばかりである。
どうしろというのだろう。
茂七を含んだ村人たちにじりじりと詰め寄られて、名無しは後退った。
ざり、と下駄の歯が砂を噛む。
「答えんか。それがどうしてここにあるのかと聞いているんだ」
苛立たしげに、あるいは何かを恐れてでもいるかのように、茂七は重ねて問い詰めた。
周囲の一部は、明らかに殺気立ちはじめている。
下手なことは口にできない雰囲気だった。
しかし、求められているのは答えだ。
この状況で、名無しに言える答えなど一つしかない。
「し、
事前に言い含められた通り、娘はそれだけを答える。
ほぼ同時に、誰かが遠くで、ご神体が消えているぞ、と叫んでいた。
名無しは、それをどこか他人事のような気持ちで聞いた。
○ ○ ○
紛糾しかけた場をまとめたのは、やはりハルアキだった。
「ま、そうは仰いますけれども。
こちらは言われた通り、本殿に立ち入ることなくご神体を持って下ろしてきたわけでして」
そう言って、枯れ草色のスーツの男はやれやれと肩をすくめた。
不満げな顔をする者、面白がっている者、顔ぶれは様々だが、先ほどまでの暴動に発展しかねない雰囲気は一旦収まり、とりあえず話を聞こうという姿勢にはなっている。
それでも、周囲を囲われるのは逃げ場がなくて些か怖い。
隣に立った関口が、気遣わしげな視線を寄越してくれているのだけが救いだ。
淀みなく喋る狐顔の男のすぐ後ろで、名無しは身を縮こまらせていた。
「貴方方が提示した条件を、貴方方が提示した通りに達成しているのは間違いない。
それを後からひっくり返そうというのは、ちょっと虫が良すぎませんかね。
こちらは相当譲歩したと思いますよ」
わざとらしく空とぼけた発言に、茂七は破れかぶれに噛みついた。
「だから……何か、小細工をしたんだろうと言っている」
「おや。しかしご神体の式盤は、彼女が鳥居をくぐって参道を上りはじめるまでは確かにあったのでしょう? ええ、どこにとはお尋ねしませんが。
そしてその間、僕たちは最初から最後までここにいたじゃあないですか。一緒に居たのは他ならぬあなた方だ。違いますか?」
グッ、と男が言葉を詰まらせる。
悔しげに顔を伏せる者は多かったが、他に助太刀をしようという者はついに現れなかった。趨勢は決したらしい。
周囲を見渡し、それを確認したハルアキは二つ、手を叩いた。
「はい、じゃあもう異論はないようですね。
それでは、手筈通りに参りましょう。怪物退治の時間です」
そんなもん、いるもんか。
負け惜しみのような呟きがどこからか漏れたのを、名無しは聞いた。
「皆様は、今晩は家に籠もって──」
ハルアキがひときわ大きく張り上げた声に被せるように、おうい、と叫ぶ声がした。おうい。
声を張り上げながら、誰か、村の方から駆けてくる者がある。
息せき切ってやってきたのは、善治郎の助手を務めている男だった。
「大変だッ、うッ、潮の旦那が、善治郎さんが……!」
「落ち着け、どうした」
鉱山側の男たちが騒ぎ出す。
完全に動転した様子の男は、喘ぎ喘ぎ、言葉を紡いだ。
「
ぞくりと、背筋に寒気が走った。
隣の関口の体が、ぐっと力んだのがわかる。
何が起こっている。そして、一体どうするつもりなのだろう。
それを探ろうとハルアキの方をうかがい見て、名無しはぎくりとした。
その顔から、薄ら笑いが剥がれ落ちていた。
○ ○ ○
時は僅かに遡る。
参道前を離れた善治郎は、自ら採掘現場に赴いていた。
整備の為である。
明日にでも、採掘を再開できるように準備する。
それは、書面さえ揃えばいいというものでも、人さえ揃えられればよいというものではない。
例えば、無理を言って導入した蒸気式の掘削機の扱いなどは、そこらの坑夫に任せられるものではなかった。
故に、善治郎はまず、この黒々とした、無骨な巨大機械のご機嫌をうかがう必要があった。
袖をまくる。確かな労働によって鍛えられた、太い腕が露わになった。
「そっちはどうだ?」
「問題ありませんや! あとは動かして確認するだけですね」
助手の手を借り、タンクには水を張り直し、可動部には改めて機械油をさす。
バケットにも、ウインチにも、どこにも不備がないことを確認して、油まみれになった善治郎はようやく一息ついた。
あとはエンジンが動き出すのを待つだけだ。
村の人間がほとんど総出で参道前に屯しているおかげで、村の中はひどく静かだった。
神社のほうは、そろそろ決着がついたころだろうか。
そんなことを考えながら、ふと視線を巡らすと、
よくよく考えずとも、この村で洋装をする女は一人きりである。
「多和?」
丁度小腹が空いた頃合いである。
何か軽食でも差し入れに来てくれたのだろうか。
だがそれにしては手ぶらであるし、足取りが奇妙にふらついている。
何かあったのだろうか。
善治郎は胸騒ぎを覚えた。
「どうしたんだ。何かあったのか」
「……」
善治郎の側まで歩み寄った女は、無言のまま、ゆるゆると顔を上げた。
造形は、確かに見慣れた妻のものである。
だが、その焦点の合わない、茫洋とした表情はどうしたことだろう。
言いようのない薄気味悪さをおぼえて、善治郎はわずかにたじろいだ。
「多和? 体調でも悪いの──」
男の言葉を遮って、ゆるり、女は手を差し伸べた。
助手の目も憚らず、細く白い腕が、困惑する善治郎の太い首に巻き付く。
華奢な体が、ぴったりと男の体に押しつけられる。
そのまま、女は男の肩口に顔を寄せ──
「っぐ、お、あッ!」
「ひッ、ぜッ、善治郎さんッ!」
そして、服ごとその肉を噛み破った。
助手が悲鳴を上げる。
ぱた、た、と地面に血が落ちた。
「くそッ、いッ、一体何なんだっ!
このっ、離れろ……っ!」
善治郎は決して非力な方ではない。
だが、女の体を押しのけようという彼の試みは叶わなかった。びくともしない。
一見ほっそりとした女の腕は、およそ人外めいた膂力で善治郎に組み付いていた。ぎちぎちと、爪が背中に刺さる。
「ふ」
男の抵抗をよそに、多和の顔をした女はうっそりと笑った。
にちゃり、血にまみれ、肉を咀嚼する口元が歪む。その表情に、善治郎は思わず怯んだ。
肝は据わっているつもりだった。だが、──これは、なんだ?
「ふふ。ふふふ」
「ッ……!」
すり、とまるで甘えるような仕草で、女は善治郎の胸元に頬を寄せた。
丸い頬が、すりすり、と服の上を滑る。伸び上がる。
その口元は再び肩口に近づき、首筋に近づき、今度は頸動脈の上でうっすらと開かれた。
くっきりと紅をひいた唇の合間から、唾液にまみれた小さな舌が覗く。
ぬめりを帯びたそれが、再び男の肌の上に落とされようとした。その時だった。
「!」
ごうん、と大きな音を立てて、善治郎の背後で掘削機が動いた。
女が、ばっと飛び離れる。
「……」
四つん這いになった多和の姿をした何かは、ぎょとぎょととした目でそれを見た。
白い蒸気を見つめるその目つきは、明らかに正気のそれではない。
女はしばらく様子をうかがっていたが、掘削機が止まる気配がないと見るや姿を消した。
それがどこへ消えたものか、善治郎はしかと見届けていない。それどころではなかったからだ。
噛まれた傷口から、燃え立つようなひどい痛みが全身に広がろうとしている。
駆け寄ってきた助手が、ふらついた善治郎の体を支えた。
大丈夫ですか、と声をかけられるが、近いはずのその声が、なぜだか遠い。
毒だ、と思った。
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