第8話 ■■

 何が起きたとて、朝は来る。

 顔を照らす朝日に、名無しは目を覚ました。


「お早うございます、カガチさま」

『うん』


 寝ぼけ眼をこすりながら、枕元でとぐろを巻いていた白蛇に挨拶する。

 それから、名無しは昨日と同じように、もうひとり居たはずの場所に向かって、お早うございます、と呼び掛けた。

 返事はない。


『……ねむい』


 そう言って、白蛇はするすると姿を消した。

 力が落ちている、というのは、やはり事実なのだろう。

 言われてみれば、八蘇を出てこのかた、ちいさな白蛇以外の姿を取ったところを見ていない。

 おやすみなさい、と呼び掛けると、眠りはせんぞ、と実に眠たげな声で返事が返って、名無しは少し笑った。


 さて、と名無しは慣れない手つきで身なりを整えた。

 名無しにできることなどたかが知れている。

 だが、なにもできないなりに、まずはできることをしなければならない。


 ○ ○ ○


 名無しは緊張とともに朝餉を迎えた。

 この日の配膳は女将だった。柔和な顔でよく眠れましたか、と問うた女将に、上手な笑みを返せていたのかどうか。名無しはいまいち自信がない。

 ひそかに心臓を跳ねさせながらも、しかし朝食は穏便に終わった。


 昨晩から考えていたことであるが、名無しはまず外を見て回る心算でいた。

 当てなどなにもないが、少なくとも部屋の中よりは刺激があるだろう。

 あちこち歩き回れば、他に思い出すことがあるかもしれない。


 部屋を出る前に、ひとつ深呼吸をする。

 名無しはそれから、昨晩の忠告をひとつひとつ思い出していた。


 ひとつ。無茶はしない。

 ひとつ。仮の名で呼ばれても返事をしない。

 ひとつ。神隠しに気づいていると気づかせない。


 それから──宿の人間に気を付ける。


 できるだろうか。

 弱気な声が、己の内側からささやく。


 それに対する答えは決まっていた。

 わからない。それでも、やると決めた。


 引手に手を掛ける。


 ○ ○ ○



 名無しが宿の玄関をくぐろうとした、その時だった。

 背後から呼ぶ声に、名無しは全身の毛穴がぶわりと開くのがわかった。

 慌ただしく思考が巡る。


 仮の名に応えてはならない。

 宿の人間に気を付ける。

 察しているという事をさとらせてはならない。


 大丈夫。どれもわかっている。

 わかっていたつもりだった。

 では、これにはどう返事すべきだ。


 返事をするか?

 否。仮の名に答えてはならない。


 無視するか?

 否。宿の人間に不審がられてはいけない。


「──ゆき、さん」


 そうて、名無しは振り返った。

 逡巡はほんの数瞬のことだったはずだ。

 それでも、名無しの口の中は緊張でからからに乾いていた。


 怪しまれはしなかっただろうか。

 ゆきは、どんな意図でその名を呼んだのだろう?


 振り向いた先、仲居姿の娘は常と変わらぬ顔をしている。

 そのように、見える。


「なにかご用ですか」

「いいえ。ただお出掛けの姿が見えたので、ご挨拶だけでもと。

 いったい、どちらに行かれるんです?」

「いえ、特に当てがあるわけでもなくて……少し、あたりをぶらぶらしようかと」

「まあ、そうでしたか。それでは、いってらっしゃいまし。どうぞお気をつけて」

「はい、いってきます」


 笑みをつくる。それにこたえるように、ゆきも快活な笑みを浮かべた。

 それでは、と軽く頭を下げて、玄関戸をくぐる。


 何とはなしに、振り返るのは憚られた。

 どこからか──痛いほどに、視線を感じている。


 ○ ○ ○


 平日とあって、この日は市は立っていなかった。

 とはいえ、遠近から人の行き交う宿場町のことである。

 通りにはぽつぽつと行商人の姿もあり、また、それなりの人通りもあった。


 その道を、ふらふらと歩く。


 たしか、この店は彼と覗いた。

 たしか、ここで少し足を止めた。

 たしか、あそこで──。


 記憶と同じように足を止め、周囲をうかがい、ひとつひとつ、思い出のかけらを拾い上げてゆく。

 だが、どれだけ歩き回ってみても、何度往復してみても、それ以上のものはなかった。

 失われた彼の人の名前に繋がりそうな思い出や、いるかもしれないもう一人の失踪者についての記憶は、何一つ出てきそうにない。


『娘や』

「はい。どうしましたか」


 土手に腰掛け、名無しはぱんぱんに張り詰めたふくらはぎを揉んでいた手を止めた。その側面には、いつつけたのかまるで覚えがないが、擦ったようなかさぶたが張り付いている。

 金魚飴のあの日、草滑りに興じていた子供たちの姿は、今日は見えない。


『そろそろ日も暮れはじめよう。

 迎えと行き違っては事よ。一度宿に戻るべきではないか』


 しゅる、と白蛇が、袖口からちいさな顔を出す。

 言われて顔を上げてみれば、いつの間にか日は西に傾きかけていた。


「でも、」


 わたしはまだ、何も。

 言いかけた言葉を、名無しはぐっと飲み込んだ。


 迎えは、彼の言葉を信じるならば、彼の属する組織が寄越したものだ。

 当然、寄越される人員もその道の人間であるか、少なくともその道の人間と連絡が取れる者だろう。

 何も知らない、何もできない小娘があてどなく彷徨い歩くより、そちらに対処を任せた方が確実であることなど、火を見るよりも明らかだ。


 迎えは夕方。収穫はなし。

 名無しはのろのろと立ち上がると、重い足取りで、宿に向かった。


 ○ ○ ○


「おや。お嬢さん」


 漢方の匂いがする、薬屋の前を通りかかった時だった。

 閉店作業をしていた禿頭に丸眼鏡の男がふと、名無しを呼び止めた。


「探し人は見つかったかい」

「あの、……あなたは?」


 困惑した表情の名無しに、おや、と男は眉をあげた。


「君ではなかったかな。

 昨日、人を探しているとうちに来たのは」

「いえ、……。あの、その人は女性でしたか?」

「いや、うーん……。そう言われれば男だった気もするな。

 なんでまたお嬢さんと間違えたんだか。すまないね、忘れてくれ」


 はあ、と返答しかけたところで、名無しはふわと漂う独特の香りに気づいた。

 この匂い、どこかで嗅いだことがある。


「あの、この匂いはなんの薬ですか」

「どの匂いだね」

「ええと……」


 名無しの語彙はさして豊かではない。

 特徴的な薬の匂いをどう表現したものか、言葉にし損ねた名無しは、己の鼻を頼りに匂いの元を探した。男の脇をすり抜けて、ふらふらと店内に入り込む。

 そして、名無しは棚からひとつの缶を手に取った。

 ラベルはまだ真新しい。何やら薬の名前が書いてあるようだったが、例の如く名無しにはまるで読めなかった。


 名無しが手にしたその缶をまじまじと見て、店主らしき丸眼鏡の男は変な顔をした。


「あの、この薬が何か?」

「いいや。やっぱりお嬢さん、昨日来ちゃいない……いないよなあ。

 ありゃ男だった筈だ。いや何、昨日もこの薬についてあれこれ訊ねられたように思ってなあ」

「訊ねられたって、どんなことをですか?」

「さて。そいつがきつめの心臓病の薬だってことと、この辺りにゃそいつを使うような客はいないってことぐらいだったと思うが」


 言いながら、店主はしきりに首を捻っている。

 心臓病の薬の匂いなど、どこで嗅いだのだったか。

 名無しはそっと鼻を近づけて、もう一度確かめるように匂ってみた。


「あ」


 ふっと、軽い眩暈とともに、名無しの脳裏を女の姿が過ぎった。

 宿の坪庭。擦りむいた己のふくらはぎ、血の玉がぷくりと膨れてゆくさま。巻き付けられるハンカチーフ。

 ゆきに似た青白い横顔。厚手の肩掛けを羽織った、ほっそりとした姿。

 それから、つよい薬の匂い。


 この感覚、彼の記憶が戻ったときに似ている、と名無しは思った。

 向こうで、彼がもうひとりを引き上げるのに成功したのかもしれない。

 いるのかもしれない、と考えていた失踪者が、やはり、と確信に変わる。

 宿の夫婦の、もう一人の子。ハンカチーフの娘。

 名前は、──。


「すみません、片付け中にお邪魔してしまって。ありがとうございました」

「いや、なに。呼び止めたのはこちらだったしね」


 宿に戻らなければ、と名無しは思った。

 あの坪庭の近くなら、何か思い出せるかもしれない。


 ○ ○ ○


 宿に戻った名無しは、異変に気づいた。

 雰囲気が妙に慌ただしい。

 不審に思いながらも玄関をくぐろうとしたその時、名無しは女将と鉢合わせた。


「あら、お客さん。すみません、うちのゆきを見かけませんでしたか」

「いえ……あの、どうかなさったんですか」

「いないんです」


 ひどく狼狽えた様子で、女将は言った。

 少し前から、どこにも姿が見えなくって。

 頼んだ用事も放り出して、なにも言わずに居なくなるだなんて、

 こんなこと、今まで一度だってなかったのに、いったいどこに行ったのかしら。

 宿の中は、こちらは主人のほうがほうぼう探し回っているような気配である。


 名無しには何とはなしに、思い当たることがあった。

 理屈はない。予感である。


「えっと……わたし、ちょっと探してきます」


 そう言って名無しはまっすぐ、名取り地蔵のほうに向かった。


 ○ ○ ○


 じっとりと、水気を含んだ重たい風がゆるく吹き抜ける。

 さらさらと草の葉が鳴るそのくさむらに、赤い前掛けの地蔵尊がぽつんと立っていた。


 果たしてゆきは、その町外れの地蔵尊の前にぼんやりと立ち尽くしていた。

 夕暮れに赤く染まったその手元で、小さな紙切れがかすかにはためいている。


「ゆき、さん」


 名無しの声に、ゆるり、と女が振り向いた。

 その顔はひどく虚ろだった。空っぽだった。

 何もかもが抜け落ちたかのような表情。

 そこには、かの娘が常に纏っていた、凜とした雰囲気はどこにもない。


 尋常ではない雰囲気に怖じ気づきそうになりながらも、名無しは重ねて声をかけた。


「急にいなくなったと、ご両親が心配してましたよ」


 虚ろなまま、ゆきがふ、とわらった。


「心配しているのは、あたしじゃなくて人手がまわらないことでしょ」


 名無しは返す言葉を持たなかった。

 知らないからだ。

 宿の事情も、あの夫婦の内心も、名無しは何一つ知らない。

 だから、名無しは別のことを尋ねることにした。


「ここで一体、何をしていたんですか」

「白々しい。わかってるから来たんでしょうに。

 ……あんた、なんで消えないのよ」


 ゆきの涼やかな目が、ぎらぎらと悪意に燃えている。

 そうか、と名無しは思った。

 その可能性もあったのだ。

 今日一日、名無しは宿の人間を警戒していたが、同じだけ彼女も名無しを警戒していたのだろう。

 宿を出た時のあの視線はそういうことだったのか、と名無しは得心した。


「どうして、こんなことを」

「答える義理なんてない。どうだっていいでしょ」

「よ、……よくない、です。わたしは、あの人に帰ってきてほしい」


 ゆきは苛立たしげに名無しを睨んだ。

 正面からたたきつけられる敵意に、びくりと身が竦む。


「そ。残念ね、あたしはそうは思わないわ。みんな消えてしまえばいい。

 帰って来て欲しいなら、自分でなんとかしてみれば? あたしは消えるけど」


 ゆきは手元の紙切れを地蔵の前に置き、飛ばないように石をのせた。

 何をしようとしているのかようやく気づいた名無しが、ゆきを止めようと手を伸ばす。間に合わない。

 手をあわせようとするその仕草が、ひどくゆっくり見える。


 誰か。


 名無しは思った。


 誰か、彼女を止めて欲しい。

 誰か──


「──!」


 名無しが叫んだ途端、大きな手がばしんと紙を払い飛ばし、合わされようとしていた仲居の娘の手を掴んだ。ゆるく吹いた風が、紙切れを遠くに運び去る。

 ゆきの動きを止めたのは、男だった。


 大きな口が、ぎゅっと引き結ばれている。

 目を引く長身を黒い軍服で包み、少し癖のある髪は短く刈り込んでいた。

 鋭い眼差しの虹彩は明るく、眉はきつくひそめられている。彫りの深い、精悍な顔だち。


 関口だった。


「なんで」


 ぽつりと、へたり込んだゆきが言った。


「なんであんたは思い出せるのよ。なんで!」

「……思い出したいんですか?」


 名無しはゆきの台詞に困惑していた。

 だったら、どうして。


「うるさい! あんたたちに何が判るっていうのよ!」


 ぎらぎらと瞳を燃やして、ゆきは噛みついた。


「自分は着古したお仕着せ一枚を着たッきりだってのに、あの子の新しい着物を取りに行かされるあたしの何が!

 朝から晩までくるくるくるくる働き通して、それで当然みたいな顔をされることの何が!

 なにもかも姉なんだから、あんたは健康なんだからの一言で取り上げられてきたことの何が!

 あの着物だって、どうせ気に入らないだの何だの言って着もしないくせに!

 何が……あたしの何がうらやましいだって?」


 ほとんどゆきの様子は狂乱に近い。

 抑えているのが関口でなければ、今にもその手を振り払って掴みかかってくるのではないかと思わせる気迫があった。

 落ち着け、と関口は声をかけているが、果たして耳に入っているのかどうか。


 そのゆきの言葉を聞きながら、名無しは最初の夜に触れた指先を思った。

 それから、時々に出会ったゆきの姿を思った。

 名無しの覚えている限り、ゆきは、いつだって何かしら働いていた。

 それから。


 

 


 ゆきは、どんな思いでその言葉を口にしたのだろう。

 名無しにはわからない。

 わからないから、尋ねて、考えるしかない。


「うらやましかったんですか」

「ッ、馬鹿にするんじゃないよ、あの子が手にしたものなんざ布きれ一枚、石ころ一ツだって要るもんか!」


 身を捩って、ゆきは絶叫した。

 暴れるその体を、関口が押しとどめる。


「あたしが欲しかったのはそんなのじゃない。

 あたしは、……あたしだって」


 同じ日に、同じように生まれたのに。

 最後の言葉は、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどに小さな声だった。


 言葉を紡いだ唇は震えている。

 涼やかな瞳には満々と水が張っていて、いまにもこぼれ落ちそうに見えた。

 ただゆきの内側の、何らかの強い意志が、それを押しとどめていた。


 きろりと、ゆきの目が、黙したままの名無しを捉える。


「なによその目。笑いたきゃ笑うがいいわ。

 笑いなさいよ。ほら。ほら!

 ……なんでよ。何とか言いなさいよ。

 なんで、あんたは思い出せて、あたしは思い出せないのよ。

 お願いだから放っておいてよ。あたしにかまわないで。

 あたしはもう一秒だってこんなところにいたくない。

 今すぐ消えて無くなりたいの。

 あたしなんか、……あたしなんか、生まれてこなきゃ良かった!」

「あの、」


 奥歯を砕きかねないほどに歯を噛みしめ、地面に爪を立てるゆきに、ようやく考えをまとめた名無しは声をかけた。

 関口が引き上げた名無しの記憶の片隅には、今はいない娘と交わした言葉のかけらが引っかかっている。


 双子の姉妹。

 同じような名前。

 名前負けもいいところ。


「もしかして、妹さんの名前は、さちというのではありませんか」


 呆然とした表情で、ゆきはぽつりと呟いた。


、」

「……お姉ちゃん?」


 いつの間にか、そこにはもう一人、娘が立っていた。

 ひどく青白い肌をして、夏も近いというのに厚い肩掛けを羽織っている。

 どこか不安げなその顔は、ゆきとひどくよく似ていた。


「あの、あ、あなた何なんですか。お姉ちゃんを放して!」


 どうしてこんなところにいるのかわからない、という顔をしていたさちだったが、ゆきの腕を掴む関口を目にとめるなり、及び腰になりながらも割って入った。


 眉間の皺を深くしつつも、関口はその腕を放す。

 不機嫌そうに見えるが、これはどちらかというと困っている時の顔なのだろうな、と名無しは思った。


 大丈夫、とゆきにさちが手を伸ばす。

 ゆきはその手をほとんど反射的に払いのけようとして──そして、払いのける前に止まった。

 その目から、ぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちる。

 ど、どうしたの、と慌てふためく双子の妹をよそに、ゆきは何も言わず、膝に顔を埋めた。丸まった小さな肩が震えている。


 ふわりと、もう一度風が吹いた。草ずれの音が辺りに満ちる。

 地蔵尊の赤い前掛けが僅かに揺れ、そしてすぐに落ち着いた。



「おや、随分と賑やかだったみたいだが、大丈夫かい?」



 知らない男の声に、名無しは振り返った。

 視界の端で、関口がひどく渋い顔をしている。


 そこに立っていたのは、枯れ草色の三つ揃えを身に纏った、見知らぬ男だった。

 年の頃はよくわからない。若いようにも見えるし、ひどく老成しているようにも見える。

 その男は、糸のように細い目をさらに細めて名無しを見た。


「さて、君が八蘇のかな。

 僕は神祇省で陰陽頭おんみょうのかみを務めている、まあ、そこの関口の上司にあたる男さ。

 気安くハルアキさんとでも呼んでおくれよ」


 というわけで、迎えに来たよ。まあ宜しく。

 そう言って手を差し出す男を見て、名無しはなんだかとても狐っぽい人だな、と思った。

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