第9話 名取り地蔵

 

『 《名取り地蔵》        記録地:○○県才郷町

 収蔵分類:丙-ロ   管理:第 七五四八二 号


 一、

 むかし仲の悪い嫁と姑がいた。ある日姑は、嫁にあんまり腹をたてたので、密かに町外れのお地蔵さまに嫁が居なくなるよう願をかけた。

 すると、お地蔵さまは姑の願いを聞き入れて嫁を隠してしまった。

 姑は大層喜んだが、いざいなくなってみるとあれもこれも不便になって、やることなすこと気にくわなかったはずの嫁がその実いろいろと尽くしてくれていたと気づいた。

 深く反省した姑が、あらためて嫁を返してくれとお地蔵さまにお願いすると、嫁は無事戻ってきた。

 以来この家では嫁は姑を支え、姑は嫁を大事にしたので、家中の諍いは絶えたという。


 二、

 町外れに名取り地蔵という名の地蔵尊がある。

 この地蔵尊に消えて欲しい人物の名前を書いた紙を供えてお願いをすると、その人物は消えていなくなる。

 取り戻すには、消えた人物の名前を唱えなければならない。   』


『             現地調査報告書

 大照四年 第 五七号


 大照四年 五月二一日 才郷町の神隠し伝承の件について


 神隠し発生の疑惑により調査開始。

 地蔵尊に纏わる神隠し伝承(一)及びその変奏と見られる伝承(二)を確認。

 また、伝承変化に伴う神霊の変成が認められた。

 神隠しを一件確認、被害者を救出後これを封印処理。

 以降の経過観察を進言する。


 暫定収蔵分類:丙-ロ                       』



 ふう、と息をついて、文机に向かっていた関口が万年筆を置く。

 ぐっと腕を伸ばすその背に、名無しは声をかけた。


「報告書、終わったんですか」

「ああ」


 のっそりと振り向いた関口の表情は、どこかぐったりしている。

 おつかれさまでした、と名無しが頭を下げれば、関口はいえ、と言葉少なに力なく微笑んだ。

 詮無せんないことだ、と名無しは思う。


 みどろが淵の後始末も決して楽なものではなかっただろうが、あれは村人たちと関口らとの間に暗黙の了解があった。淵に纏わる儀式と怪異について、ある程度の共通の認識があった。

 対して、今回の名取り地蔵にはそれがない。彼らの中で、名取り地蔵の逸話など子供だましのお伽噺に過ぎない。


 となれば場の人間で事を収めるほかないのだが、当のゆきは泣きじゃくるばかりで話にならず、さちはさちで何が起きていたかをまるで理解していない。そんな中に騒ぎを聞き付けた宿の夫妻まで駆けつけたものだから、有り体に言って場は混迷を極めた。


 この夫婦に何があったかを正直に語ったところでまず正気を疑われるのは目に見えており、また、ゆきの今後のことを思えば下手に事の顛末を明かすわけにもゆかない。そんな状況に放り出されて、関口は場をおさめるのに四苦八苦した。なんとか誤解からくる姉妹喧嘩ということにして場が収まったのは、いっそ奇跡であったかもしれない。


 ところでその上役だというハルアキはといえば、そんな擦った揉んだの最中いつの間にやら姿を消しており、よれよれになった関口と名無しがようやく宿に戻ってみれば、そんな騒ぎなどそ知らぬ顔で、先に確保した宿の一室にて優雅に寛いでいるといったありさまだった。

 なんとなくではあるが、名無しはこの一件で、関口が上役に渋い顔をする理由の一端を理解したように思った。


 室内を照らす行灯あんどんの、その暖かな橙色のあかりが、関口のどこか疲れの残る横顔を照らし出している。

 名無しはそれを、見るともなしにぼんやりと見つめた。

 外は既に暗い。宿で過ごす、最後の夜だった。


 文机の前、昨日は空っぽだった場所に、あるべき人がいる。

 たったそれだけのことにひどく安心している己を発見して、名無しは新鮮な思いでおのれを見つめ直していた。


 八蘇を出たばかりのころの自分は、果たしてどうだったろう。

 少なくとも、この状況には居心地の悪さしか感じなかった筈だ。

 それが変わったのは、果たしていつだったか。


 ──話しは、した方がいいですよ。


 ふと、ゆきの言葉を思い出す。

 あのとき、あの台詞を、彼女はどんな思いで口にしたのだろう。

 名無しにはわからない。

 ただ、話をしてくれればいい、と思った。


 言葉は意味を成さないかもしれない。

 間に、暗く深い溝があることを確認するだけに終わるかもしれない。

 それでも──、話を、してくれればいいと思った。


「随分ぼんやりしていますが、大丈夫ですか」

「え、あ、……はい」


 関口の声に、名無しはびくりと肩を跳ねさせた。

 物思いに耽っていたのは事実だった。

 男は少し眉根を寄せ、相変わらずの鋭い目でこちらを見下ろしてている。


 怒っているようにも見えなくはないが、これはたぶん心配だとか、何かそんな時の表情だ。

 名無しはぼんやりとではあるが、関口の表情を理解しはじめていた。


「疲れているなら、自分のことは気にせず早めに休んでください。

 それから、今回被害者を抑えられたのは君のおかげです。ありがとうございました」

「いえ、そんな」


 関口の言葉に、名無しは恐縮した。

 手がかりを探すと言い張ってはみたが、関口の名前を思い出せたのは追い詰められたが故の偶然に過ぎず、また、ゆきの妹の名にあたりをつけることが出来たのも、関口がある程度まで彼女を連れ戻していたおかげだ。


 結局、己は最初から最後までおろおろしていただけに過ぎない。

 名無しはそう思っている。


「しかし、あの娘の名をよく思い出せましたね」

「ええと、思い出した訳では、」


 名無しの言葉に、関口が片眉をあげた。


「……思い出したわけではない?」

「えっと、名前は、思い出せていなかったんです。

 ただ、……会話を、いくつか思い出していて」

「どんな?」


 思いのほか強い関口の追及にいささか気圧されながら、名無しはおずおずと口をひらいた。


「その、……得たいものを得られなかった、というについて、

 それから、彼女の名前が”姉と同じような名前”であるということ、

 ”自分ばかり名前負けしている”ということ、そんな感じです」


 話しながら、名無しはちら、と関口のほうを見た。

 男は無言で、話の続きを促している。

 それを確かめて、名無しは続きを語りはじめた。


「それで……お姉さんの名前はゆき、ですよね。

 その音なら、女の子の名前に使われそうな意味は二通り考えられると思うんですけど、名前負けする、ということは多分、空から降ってくる方の雪じゃない。

 と同じような名前だというのなら、色白で、今にも消えてしまいそうな妹さんには、むしろしっくりきてしまうから」


 ふう、と名無しは一旦、息を整えた。緊張する。

 まさか、関口を相手に何か説明する事があろうとは思ってもみなかった。

 きちんと伝わるように話せているかどうか、名無しはいまいち自信がない。


「だから、ええと……たぶん、ゆきさんのゆきは

 そして、妹さんも同じような名前だというのだから、あり得るとすればふく、とか、あるいは、」

さちだろう、と」

「ええと、はい」


 なるほど、と呟いて、関口は何やら考え込むような仕草を見せた。

 ちらちらと揺れる灯りが、関口の目の辺りの陰を濃く揺らがせる。


「あの、何か変でしたか」

「いえ、……それより君は、自分の名前はもう決めましたか」

「じぶんのなまえ、」


 なんとなく話を逸らされたような気がしつつも、名無しは関口の言葉を反芻した。

 自分の、名前。


「今回ばかりは名前がないというのが却って有利に働きましたが、市民生活を送る為にも、霊的な守りの意味でも、名前はあったほうがいい。

 おそらく、帝都に着いたら君の戸籍を作ることになるでしょう。

 その時に登録する名前を、今からでも考えておくといい」

「はい」


 真面目な顔をした関口に、名無しは頷いた。

 娘はまだ、名無しではない自分というものがうまく想像できない。

 だがそれも、結局は今の間だけのことなのだろう。


 自分というものが、刻々と変わってゆく。

 それは、空恐ろしいことのようにも、心躍ることのようにも思えた。


 ○ ○ ○


 また何やら物思いに囚われているらしい名無しをよそに、関口は、娘がたった今述べた双子の名前について考えを巡らせていた。


 


 その推察が、ではない。

 その推察にたどり着くことが、である。


 娘は文盲である。彼女に教育を施した者はない。

 少なくとも、八蘇の村人はそのように証言し、娘自身もそのように自認している。関口自身も、娘についての報告書の作成時にそれを確認し。だが。


 ゆきさち


 文字に対する理解抜きに、この解に至ることが果たして可能かどうか。


 関口はもう一度、名無しを見た。

 壁に背をあずけ、ぼんやりと爪先を弄んでいるそのさまは、やはりただの娘のそれである。


 この娘に、敵意や悪意があるわけではないのは関口にも判っている。

 そうであるならば、男が名取り地蔵に引きずり込まれた際に、そのまま捨て置けば済んだ話だからだ。


 だが、関口はもうひとつ、引っかかっていることがあった。


「ところで、」


 おもむろに、関口は切り出した。名無しが顔を上げる。

 その瞳に行灯の明かりが映って、ちらちらと揺れていた。


「君は最近、蛇神殿をという名で呼んでいますが。

 それは、彼が自らそのように名乗ったのですか」

「いえ……。淵神さま、という呼び方はもうふさわしくないとのことだったので、恐れ多いことですけれど、わたしが呼び名を考えました」

「そうでしたか。何か由来でも?」

「いえ、……ただ、?」

「なるほど」


 それが何か、と少し不安げな名無しに、関口はいえ、なんでも、とだけ答え、静かに瞑目した。


 


 関口は、娘から、とでもいうべきものの気配を感じ取っていた。

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