第7話 問答

 

 行灯の火を落とした部屋の中は人為的な闇に満ちている。

 暗く、人の気配のない室内に、名無しはひとりうずくまっていた。


 

 ぜったいに、おかしい。


 己ひとりで八蘇から出た筈がない。

 己ひとりで帝都を目指す筈がない。


 絶対に、もうひとりいたはずなのだ。

 今度は確信があった──


 名無しは、その誰かを必死で思いだそうとしていた。


 それは多分、背の高い男だ。

 それは確か、黒い服を着ていた。

 それは、きっと。


 己の心音がやかましい。

 ひたひたと、不可視の怪物がすぐそこまで迫ってきているような予感に、名無しは身震いした。

 かたく目を瞑り、瞼の裏のぼんやりとした輪郭を確かめようとする。

 だが一度は捉えたと思った印象も、次の瞬間には霞と消え失せる。

 あれは、ああ、誰であったか。


『やれ、奴めしくじったか』

「カガチ、さま」


 手首を滑るひんやりとした鱗の感触に、名無しは顔を上げた。

 小さな白蛇が、膝を抱えた名無しの顔を覗き込んでいる。


「あの、わたし……」

『まあ落ち着け』


 ちろりと、赤く細い炎のような舌が、狼狽する名無しの手の甲を掠めた。

 暗闇の中、酸漿ホオズキの瞳がきゅうと細められる。


『そう怯えてばかりおっては、大事な事を見落とすぞ。よいか、娘や。

 

 この意味がわかるか?』


 思考の散らかった頭で、それでも名無しは必死に蛇神の言葉を咀嚼そしゃくした。

 居なくなった。気づいている。──


「なんだか、不完全……半端?」

『そうだ』


 ぽつりと零した言葉に、蛇神はゆるりと鎌首を揺らした。

 表情など無いはずの蛇の顔に、にいと笑みが浮かんだような気配がある。


はどうやら、ぎりぎりこちらに踏みとどまっておる』

「ほんとうに?」


 一筋の光明が見えたような気がした。

 失われた誰かが己にとってどんな存在であったのか、今の名無しにはそれすら思い出せない。

 ただ、その誰かは取り戻されるべきだという強い予感は、あった。


『うむ。どうにか道をつけることが出来れば、完全に引き戻すまでは行かずとも、状況を変えることはできよう』

「みち、」

『つながりさ。縁と呼んでもいい』


 首を傾げる娘に対し、おれにとっての鏡のようなものよ、と蛇神は言い足した。


『こちらに繋ぎ止めるもの、これならば奴に届くと確信できる何か。

 藪の中の獣道、世界の折り目よ。筋目があれば、それをたどれる。

 無論、名を取り戻すのが最も確実ではあるが』


 つらつらと重ねられた抽象的な言葉に、名無しは当惑した。

 具体的に何が必要なのかさっぱりわからない。

 獣道とは何だ、筋目とは何だ。そんなものがどこにある。

 どこにいるかも、誰であるかもぼんやりとした相手と繋がるものなど──。


「あ、」


 天啓の如く、名無しの脳裏に閃くものがあった。

 懐を探る。引っ張り出したのは鳥の形の紙切れだ。


 ──連絡の道具です。必要と思えばこれをすぐ投げるように。


 おぼろな虫食いだらけの記憶の片隅で、確か、誰かがそんなことを言っていたような気がする。

 想定していた状況は真逆だろうが、これならば、もしかしたら。


「カガチさま、これ、」

『うん』


 白蛇の頷きに、名無しはわたわたと窓辺に向かった。薄く障子を引く。

 隙間から差し込んだ青い月の光が、白々と畳を濡らした。

 日の落ちた宿場町の人通りは絶えている。人目を忍んで何かするには誂え向きだった。


 さて、と鳥の形の紙を手に名無しは考えた。

 確か投げろとは言われたが、投げてどうなるのかまでは聞かされていない。うまく飛ばす自信もない。

 ともかくまずは試しと、名無しは一枚手のひらに乗せ、ふうっと息を吹きかけた。

 ふわりと空に浮いた白い紙切れは、くるりと回ったかと思うと鳥に変じる。


「!」


 驚く暇もあらばこそ、白い小鳥はその場で二、三度羽撃はばたいたかと思うと、まっすぐどこかへと飛び去っていった。

 名無しは、その姿が完全に見えなくなるまで、じっと見送った。


「これで、どうにかなるんでしょうか」

『まあ、少し待て。意味があったかどうかはすぐに判るさ。

 なに、うまくゆかなんだなら、その時はその時だ。次の手を考えればよい』


 蛇神の言葉に、名無しは惑いつつも頷いた。

 後ろ髪を引かれつつも、そっと障子を閉める。

 その時だった。


「あ」


 届いた、と思った。

 くらりと眩暈がする。


 き止められていた記憶が、奔流の如く甦る。


 黒い繭から名無しを引きずり出してくれた力強い手、少し癖のある短い髪、引き結ばれた大きな口。

 低く落ち着いた声、険しい眼差しと明るい虹彩、微笑むとそれが柔らかな色を帯びること、たぶん少し口下手なこと、不器用な気遣いのこと、──金魚飴。


 名無しはふらりと膝をついた。

 柱に寄りかかるようにして、どうにか体を支える。

 ざらついた木肌に額を押しつけていると、少し落ち着くような気がした。


 目を瞑り、浅く息をつく。

 そうして眩暈をやり過ごしていると、とん、とん、と窓を叩く者があった。


 名無しは、と思った。外に、何かいる。

 眩暈の名残を振り払うようにして、娘は顔を上げた。


『開けるな』


 さんにかかった名無しの手を、しかし押し止めたのは外からの声だった。

 その耳慣れた低音は間違いなくである。

 名無しはその名を呼ぼうとして、──呼べなかった。


『俺の名を思い出せるか』

「あの、……ごめんなさい」


 彼の為人ひととなりを、名無しは思い出せる。思い出している。

 なのにその名前だけが、何かで執拗に塗りつぶされてでもいるかのように出てこない。


 もどかしげに、名無しは己の喉を押さえた。

 その指先は当然ながら何も掴めない。


『いや、己を責めないでくれ。難しいことは判っていた。

 寧ろ、君が機転を利かせてくれて助かった。

 おかげでこうして言葉を交わすことが出来る』


 はふ、と溜息とも笑声ともつかぬ息を漏らした。

 わずかに、空気が緩む。


『それで』


 そこへ鋭く切り込んだのは蛇神だった。

 白蛇はするりと窓辺に這い上り、障子越しに問いかける。


『原因はやはりあのか』

『ああ、やはり名取り地蔵と見て間違いない。

 誰かが願を掛けている。問題は、その名取り地蔵がおそらく変質し始めているということだ』


 へんしつ。

 名無しの呟きが、がらんとした部屋にこぼれ落ちた。


『そうだ。塞の神としての地蔵尊は本来、外敵を退け、集落の守りを成すものだ。

 願われたからといって、誰彼構わず手当たり次第に隠すようなモノではない。

 それが、逸話をねじ曲げられたことによって怪異に変じようとしている。

 君があの子供たちから聞き出したような、捧げられた名を奪って神隠す、そういうモノに成り果てようとしている』

「かみさまが、怪物になろうとしているということですか?」

『そうだ』

「そんなこと、」

『あり得るとも。場合にもよるがな』


 そう答えたのは、外の声ではなく白蛇のほうだった。

 身をくねらせ、鎌首をもたげて、ちいさな蛇神は言う。


『言ったろう。おれたちのような存在にとって、名とはちからと紐付いたものであると。そして、名とは最も短い逸話のことよ』


 この宿の、最初の夜を思い出す。

 名無しは確かに、蛇神からそんな話を聞かされていた。

 名は──蛇神の言葉によれば、つまり逸話は、その存在の有り様を縛る。


『しかし、成程。おまえが量りあぐねておったのはそのためか。

 なりかけとあれば、察知出来なんだのも頷ける』


 ちろちろと舌を踊らせ、蛇神が言った。


『して、おまえはこの後どうするつもりだ?』

『名が戻らないなら戻らないで、やりようはある。

 この状態だからこそ出来ることもあるだろう。

 先に消えたもう一人を連れ戻せないか、試してみよう』


 外の気配がもそりと動いた。


『それから、君。今朝も言ったとおり、明日には迎えが来る。

 申し訳ないが、それまでは部屋に籠もって、じっとしていて下さい。

 大丈夫です。名取り地蔵はその性質上、君に手出しできない』


 娘ははっとした。

 名無しは、である。

 初めからないものは奪えない。道理だった。


「えっと、わかりました。外には出ません。

 ……あの、宿の中は歩き回っても大丈夫ですか」

『いえ、宿の中こそうろつかないでいただきたい』

「どうして、ですか」

『名取り地蔵は、その性質上、受動的にしかその能力を発揮しない。

 人が消えているのは、あくまでもそれを願い、実行に移した誰かがいるからです』


 はい、と名無しは頷いた。


『俺がこういう状況に陥っているからには、その誰かは、俺の名を得ているということ。

 そして、この町でそれを知り得たのは、宿の人間だけです』


 悪意。

 ようやくそれに思い至って、名無しは寒気を覚えた。

 己の鈍さに眩暈がする。


 そうだ。

 彼は、宿に宿泊を決めたとき、確かに宿帳に名前を書き込んだではないか。

 しかし、ではあの感じのよい家族の誰かが、その笑顔の下で、密かに害意を抱いていたというのか。

 ぞわりと、背に冷たいものが走った。


「どうして……?」

『さあ。そればかりは、当人に訊ねてみなければ判らぬことです。

 大方、先に消えた誰かについて嗅ぎ回られるのお逸れてのことでしょうが』


 そこまで言って、外の何かはひとつ、大きく息を吸った。


『ともかく、君に動くなというのはそういうことです。

 下手に動けば、その誰かを刺激することになる。

 君の守りは今、蛇神どのだけだ。

 しかも、塒を離れ、名を改めたことで随分力を落としている』

「そうなんですか?」


 名無しは思わず、手元の白蛇に尋ねた。

 蛇神はふいと視線を逸らす。


『まァ、力が落ちていることは否定はせぬ』

『そういう訳です。君は、夕刻まで凌ぐことだけを考えて下さい』

「あの」


 それでは、と立ち去りかけた外の存在を、名無しは呼び止めた。


「迎えがきたら、あなたや、もうひとりは戻って来られるんですか」

『……大丈夫です。心配には及びませんよ』


 嘘だ、と思った。

 その声はどこか固い。

 名無しは、意を決して言った。


「あの。……お迎えは、夕方になるんですよね。

 私、それまで名前を思い出せないか、手がかりを探してみます」

『危険です』


 間髪いれず、声は言った。


「でも、わたしが思い出さないと、戻って来られないかもしれないんでしょう」

『……』


 否定はなかった。

 やっぱり──それは、よくない。


 わずか数日のことではあったが、確かに面倒をみてもらった、という感覚が、名無しにはある。

 その相手を、当の本人から促されたからと言って、何もせず見捨てろというのには、娘はとても頷けなかった。


「あなたが戻ってこられないのは、だめです。

 それに、私だったら、名前を取られる心配はないんですよね。

 だったら、大丈夫です」

『大丈夫じゃない。

 怪異を起こしているのは名取り地蔵だが、起こさせているのは人間だと言っただろう。

 向こうが本気で君に危害を加えようと思うなら、怪異などという回りくどい手を使わずとも、方法はいくらでもある』

「気をつけます」

『蛇神どの』


 焦れたように、外の声が言った。


『おれが何か言って、聞くと思うか?』


 しれっと蛇神が応えた。

 しばし沈黙が落ちる。

 たっぷりと間をおいたのち、外の声は重く、溜息をついた。


『……せめて、無茶はしないと約束してください』

「はい」


『仮初めの名で呼びかけられても、応えてはいけません。

 君の名前がないという状態はひどく不安定なものだ。いちど認めてしまえば、それが正しい名となってしまいかねない』

「はい」


『それから、重ねて言いますが宿の人間には気をつけて下さい。

 自分や、もうひとりのことについて、覚えている素振りを見せぬように』

「はい」


『自分も、他に戻る方法がないか探ってみます。

 ……くれぐれも、用心してください』


 これにも、はい、と名無しが答えると、外の声は何かを諦めたように、ふっと笑った。


『良い返事です。……それでは、もう遅い。

 明日動くつもりなら、もう休んだ方がいい』


 外の気配が動いた。

 立ち去ろうとしている。

 そう察して、名無しは声をかけた。


「はい。……あの、おやすみなさい」

『──、おやすみ』


 昨日と同じ、柔らかい返事があってから、ふっ、と気配がかき消えた。

 そっと障子を引いてみるが、その向こうにはもう、誰も居はしない。


 それを確かめると、名無しは戸締まりをして、布団に潜り込んだ。

 目を瞑ってみたが、神経が昂ぶっているのか、眠気は一向に訪れそうにない。

 その瞼を、ひんやりとした少年の手が覆った。


『眠れ。辺りはおれが見ていよう』


 その声で、ふ、と強ばりが解けるのがわかった。

 眠りの泥に、意識はゆるゆると沈み、埋もれ、底に沈んだ。

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