第6話 神隠

  この日、時が過ぎるのは嫌に遅かった。


 八蘇の集落にいたころは、ただぼうとしている間に全てが過ぎ去るのが当たり前だったというのに、名無しはもう、あのころの己がどうして過ごしていたのかを思い出せない。


 何もしないで過ごす時間がこれほど長いものだとは、名無しは考えてもみなかった。

 ほんの数日前のことが、こんなにも遠い。


 窓から空を見上げる。

 太陽はまだ、空の高みにあって燦々さんさんと輝いていた。


『落ち着かぬ様子だな』


 するり、と首筋に冷たい鱗の感触があって、名無しは窓の側から身を引いた。

 肩口から、白蛇が顔を覗き込んでいる。


「その、はい。わたしが言い出したことなので」


 人影のない部屋は、妙に広々として感じられる。

 ほかに居るのは白蛇姿の蛇神だけだが、当の蛇神は素知らぬ顔でとぐろを巻き、ちょろちょろと舌を出し入れしているばかりである。

 その蛇神に、名無しはおずおずと尋ねた。


「あの、カガチさまはどう思いますか」

『どう、とは』

「誰かと約束した、というのが、わたしの気のせいかどうか」


 白蛇は小首を傾げる。


『さて、わからぬ。おれも万能ではない故な。

 だが、一つ判っていることはある』


 それは、と名無しが問えば、僅かに笑いを含んだ声で蛇神は言った。


『おれと、おまえと、あの男。この中でそういったものを調べるのにいちばん長けているのは奴だという事さ』


 そもそもこれは奴の仕事であろう、まずは大人しく任せておくがよい。

 そんな言葉に、名無しは躊躇いがちに頷いた。


 ○ ○ ○


 一方、関口はまず昨日の名無しの足取りを追っていた。

 さして大きいわけでもない宿場町のことである。よそ者の姿は目立つ。

 名無しを見たという者はすぐ見つかったが、他の誰かと居るところを見かけたという者はなく、この方向では取り立てて収穫はなかった。


「確かにその子は見かけたけど、誰かと一緒にいるとこは見てないねえ」

「そうですか」


 帳場にゆったりと腰掛け、ずれた丸眼鏡をかけ直しながら、通りに面した漢方堂の主は関口の予想通りの答えを返した。


 薄暗い室内には生薬や漢方の独特の香りが充満している。

 壁の棚には、関口にはよくわからない薬の数々がところ狭しと並んでいた。


「旦那、誰かお探しで」

「ええ。連れが借りたものをお返ししたいのですが、どこの誰か判らず」


 ふゥん、と主人は呟いて、禿頭を傾げた。

 さてどうだったかな、とあらためて名無しを見たときのことを思い返しているようである。


 考え込みはじめた店主をよそに、関口は壁の薬棚に視線を走らせた。

 その視線が、棚のある一角で止まる。


「店主、こちらは?」

「うン? ああ、その辺りは概ね心臓病の薬だね。それが何か?」

「いえ、どこかでこの匂いを嗅いだような気がしまして」


 店主は眼鏡をずらして関口が手にした薬を確認すると、ああ、そいつは薬効が大分キツいやつだね、と言った。その分匂いもキツい、とも。


「これを置いているということは、近くに誰か心臓を患っている方でも?」

「いンや、この辺りにゃいないけど……そういや、なんでそんなの仕入れたんだったか」


 店主は首を捻っている。

 口ぶりからして、頻繁に処方されるような薬ではないのだろう。

 しかしそれにしては外装が真新しい。


 ラベルを確かめる。

 その名称をしっかりと記憶してから、関口は店主に訊ねた。


「話は変わりますが、宿の人間で何か持病を持っている者はいますか」

「いや。顔はよく合わせますが、あそこはみなピンピンしてますよ」

「そうでしたか」


 手にした薬を棚に戻す。


「ご協力、ありがとうございました」 


 こんな話で良かったんですかい、と戸惑う店主を残して、関口は薬局を出た。

 聞くべき事は聞いた。次に必要なのは確認である。


 ○ ○ ○


 どこかで、と漢方堂の店主にはぼやかした物言いをしたが、実のところ、関口はあの匂いをどこで嗅いだか、はっきりと覚えている。


 それはいつの間にか娘が手にしていたハンカチーフから。

 そして逗留している宿の一室から、確かに匂っていた。


 薬局を出た関口は、まっすぐ宿に戻った。

 玄関をくぐり、坪庭を横切り、匂いをたどってその庭に面した母屋側の一室の障子をあける。


 中に人影はない。代わりに、部屋の中は雑多な物で溢れていた。


 舶来のオルゴール。硝子の置物。火は消えているが炭が入ったままの火鉢、華奢な枕元灯には花びらをかたどったランプシェード、衣紋かけには華やかな振袖。枕元には、読みかけの少女小説。

 寝起きそのままといった風情で上掛けのめくれた布団の上には、真新しい着物が乱雑に放り出されている。折れた畳紙には”なかむら”と屋号が記されていた。


 布団を囲むように並べられたそれらの品々は、いかにも若い娘が好みそうなものばかりに映る。


 それから──あの、強い薬のにおい。

 その出所を探れば、階段箪笥の上に封のあいたあの薬があった。中身はまだ半分ほど残っている。

 それらを確認してから、関口はあらためて室内を見渡した。


 この部屋に残るのは明らかに、ごく最近まで人が生活していた痕跡である。

 しかし、記名がなされていそうなものはひとつとして見当たらない。


 やはり失われているのは名前だ、と関口は判断した。

 名前と、存在だけが、徹底的に消え失せている。


「お客さん、どうなすったんです」


 通りかかった宿の主人が、関口に気づいて声をかけた。


「申し訳ありません、部屋を間違えました。……この部屋は」

「ああ、物置ですよ」


 当然のように男は言った。


「使ってないガラクタを放り込んでるんです。お見苦しいものをお見せしました」

「いえ。こちらこそ、勝手にあけてしまって申し訳ない。

 しかし、これらはお嬢さんの持ち物ではないのですか?」

「いえ、


 関口の言葉に、主人はあっけらかんとそう答えた。

 一見した限り、意識して嘘をついているようには見えない。

 さて、と関口は思案した。


 あの部屋の品々を、一通り集めるためにどれほどの財力が必要となるか。

 家族で営むようなちいさな宿の稼ぎでは、相当な無理が必要となる筈だ。

 それをあっさりとガラクタと言ってのけるのは、持ち主に関する記憶が失われているからか。

 

 しかし、と関口は思う。それだけだろうか。

 仮に娘がひとり消え失せているのだとして、娘はもう一人いるのだ。

 記憶を書き換えるにしても、もう一人の持ち物であったように思い込むほうが自然だろう。


 だというのに、あれらの品々が当然の如くと言い切られるのは何故だ。


 怪異による記憶の書き換えがそれほど融通が利かぬというだけのことか。

 それとも──彼の中で、あれがゆきの持ち物ではないということがよほどであるか。


 いや、と関口は首を振った。

 何とはなしに嫌な予想へ傾きかけた思考を一旦切り替える。

 そして、そういえば、と関口は別口から切りこむことにした。


「そういえば、宿場の外れにある地蔵尊は、名取り地蔵と呼ばれているのですね」

「おや、よくご存じで」

「外で子供たちが騒いでいるのを小耳に挟みまして。なにか謂れでも?」


 関口が水をむけると、まあよくあるお伽噺ですがね、と宿の主人は話し始めた。


「むかし仲の悪い嫁と姑がいて、嫁にあんまり腹をたてた姑が、お地蔵さまに嫁が居なくなるよう願をかけるんです。

 お地蔵さまは姑の願いを聞き入れて嫁を隠してしまうんですが、いざいなくなってみるとあれもこれも不便になって、やることなすこと気にくわなかったはずの嫁がその実いろいろと尽くしてくれていたと気付くわけです。

 それで、姑はあらためて嫁を返してくれとお地蔵さまにお願いすると、嫁は無事戻ってきた」


 聞きながら、関口はひそかに眉間の皺を深くしていた。


 

 その大枠こそ一致しているが、主人の話は、名無しが子供たちから聞き出した話と比べるとあまりに要素の異同が多い。

 説話としても、対象と意味合いが大きくずれてしまっている。


 変質している、と関口は思った。

 昨日の調査の合間、裏取りとして関口も名取り地蔵の逸話を別口から収集していたが、そちらは名無しの聞き出した内容とほとんど相違ない。つまり。


「めでたしめでたし、これからは家族仲良くいたしましょうと、まあ、元々はそんな話ですよ」

「元々は?」

「ええ。最近は子供に言い聞かせるのに、”名取り地蔵に連れてってもらうぞ”なんてふうにダシに使われたりもしてるようで」


 なるほどそんな事が、などとどうとでもとれる相槌を打ちながら、関口は思考を巡らせる。

 ふと、背後に誰かが通りすがったような気がした。


 ○ ○ ○


 結局、この日関口は戻らなかった。


 用意された夕餉は

 その異常性に、名無しと蛇神だけが気づいた。



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