第2話 ゆき

 

 そのころ、関口は宿場町の外れにいた。


「……」


 先程は通り過ぎたが、集落と外部の境界に道祖神として地蔵が祀られるのはよくあることだ。

 赤い前掛けをし、月光に濡れて佇むその姿におかしなところはない。


 ただ、言いようのない違和感があった。

 冷たい夜気に、じわり澱んだ何かが滲む。

 先程通りすがった際には気のせいかとも思ったが、こうして確かめに来てみればやはり、臭い。嫌な感じだった。


 だが、と関口は眉間に皺を寄せた。

 その嫌な感じがどこから来るものかがわからない。

 一体どうしたものか、と関口は思い迷っていた。


 対処の指令が下っているわけでもなし、これが既に別の者に割り振られている件であれば下手に手を出すのは余計な世話で、却って迷惑にもなるだろう。

 逆に報告から漏れているのであれば見過ごす訳にもいかないが、今のところな漠然と嫌な感じがするという以上の問題はなく、どこがまずいかの説明もできない。


 結局、報告だけは上げておくべきだろうと関口は結論づけた。

 気のせい、或いは二重報告ならばそれでよし、未報告の件であれば調査に向いた者が対処すればよい。

 男が懐の紙片に手を伸ばした、そのときだった。


 白い三つ足の小鳥が関口の肩に止まる。

 嫌な予感に、関口は顔をしかめた。


 ○ ○ ○


 名無しの部屋を訪ったのは、黒髪をきりっとまとめ、袖をたすきに絡げた、凛とした印象の娘である。

 お部屋を担当致します、ゆきと申します、と仲居姿の娘は頭を下げた。


「あれ、お連れさまは?」

「えっと、」


 先に寝ている、と言いかけたところで、名無しは布団すら敷きのべていないのに気付いた。

 嘘をつくにもあからさますぎる。

 しどろもどろになりながら、娘はどうにか言い訳をひねり出した。


「……ちょっと、外の空気を吸ってくると言って、外へ」


 こんな時間に? と疑問を呈する仲居の娘に、これ以上の巧い言い訳も思いつかず、名無しは中途半端な笑みを浮かべた。


「夜食をお持ちしたんですけど、お連れさまの分はどうしましょ」


 盆上には大きな握り飯がふたつ。脇には漬物も添えてある。

 それを見るなり、ぐうう、と名無しの腹の虫が盛大に鳴いた。

 そういえば、昼以降何も腹に入れていない。


 はっと仲居の娘のほうを見れば、きょとんと目を丸くしている。

 それから、娘はいかにもこらえ損ねた風に吹き出した。


「あはは、それだけ期待していただけるンなら用意した甲斐もあるってもんです」


 ふふふ、と笑う娘の顔は、先程までとはうってかわって親しみやすい雰囲気である。こっちの方が好きだな、と名無しはぼんやり思う。


「よっぽどお腹が空いてらしたんですね。おむすび二つじゃあ足りなかったかしら。

 どうぞ遠慮無く全部お召し上がりくださいな。お連れさんにはまた何か用意しますから」


 さ、どうぞ。

 ぐいと差し出された握り飯の魅力に、名無しは抗えなかった。


「あの……じゃあ、いただきます」

「はい、どうぞ召し上がれ。

 お湯もお持ちしたので、暖かいお茶も淹れましょうね」


 盆で口元を隠しながら、ゆきと名乗った娘はふふ、と重ねて笑った。

 名無しは宿の勝手がわからない。

 わからないので、お願いします、と素直に頭を下げた。


 ぽぽぽ、と音を立てて、湯飲みに茶が注がれてゆく。

 夜も遅いことですし薄めに淹れますね、と言う娘の手つきはこなれている。

 ふわりと湯気がたちのぼるのを見るともなく眺めながら、名無しは握り飯を少しずつかじった。


「ところで、お客さんたちはどちらへ行かれるんです?」

「ええと、帝都へ……」

「帝都! いいなあ」


 言いながら、仲居の娘は湯飲みを差し出した。

 名無しはそれを素直に受け取って、熱い茶をちびちびと啜る。

 濃さはどうですか、と問われるが、そもそもこれまで茶を飲んだことのない名無しは当然茶の濃い薄いもわからない。

 仕方ないので、これも曖昧に頷いた。おいしい、とは思う。


「帝都に行かれたこと、あるんですか?」

「いいえェ、まさか! そりゃ、行ってみたいのは山々なんですけどね。

 けど、こんな商売だとどこかに遠出するっていうのもなかなか難しいでしょう?」


 少しばかり眉尻を下げて、ゆきは笑った。

 名無しは、湯飲みの上でかすかにふれた彼女の指先の感触を思った。

 水仕事に荒れてかさついた、働き者の手だった。


「けど、お客さん方から聞く話では、そりゃあ賑やかでいいとこだって聞いてますよ」

「そうですか」

「あら、暗い顔をなさって。何かあるんです?」


 そういってこちらを覗き込むゆきの顔は、つくりはまるで違うのに、どことはなしに十和子に似ている。

 そう思うと、気付けばぽろりと本音がこぼれていた。


「その、……村から出るのが初めてなので、不安で」

「まあ。でも、お兄様は帝都住まいなのでしょう? そう不安がらずとも。

 何かあっても身近に頼れる人が居るというのは心強いじゃありませんか」

「ええと」


 実のところ、その男は名無しの兄ではないし、もっと言えばほんの三日ほど前に知り合ったばかりのほとんど知らない人物である。

 さりとて迂闊うかつに事情を語るわけにもゆかず、名無しはああ、だのうう、だの唸りつつ、どうにかそれらしい事情をひねり出した。


「その、兄とはながく離れて暮らしていたものですから。

 今更どう話していいかもわからなくて」

「成程ねぇ」


 ううん、と仲居の娘は首を傾げる。ほんのぼやきのつもりだったのだが、ゆきは思いのほか真剣に捉えたようだった。

 己のどうでもいいその場しのぎの言葉がこの娘を悩ませているのだと思うと、名無しはなんともいたたまれない気持ちになって、言い訳のような何かを言い連ねた。


「あの、たぶん、向こうも距離を測りかねているのかな、と……。

 そのうち、わたしも、向こうも、慣れてくると思うんです。

 ただ、……今はまだ、ぎくしゃくしているだけで」

「話は、したほうがいいと思いますよ」


 思いのほか静かな声で、ゆきは言った。


「家族だし、そのうち、そのうちって思ってると、いつの間にやらふかぁい溝ができていて、そのまま埋められなくなったりするものですもの」


 その声は、夜の湿りと冷たさを帯びて、すとんと名無しの胸に落ちた。

 胸中で、たったいま投げかけられた言葉を反芻する。

 そこには、かたく、確かな手触りがあった。


 なあんて、余計なお節介でしたね、と唐突に明るい調子でゆきは言った。

 そろそろお布団も敷きますね、と立ち上がり、てきぱきと動き出す。

 その後ろ姿は、もう十和子とは重ならない。


 その日、名無しは物心ついてはじめて、布団の上で眠った。


 ○ ○ ○


 障子越しに柔らかく差し込む朝日に頬を照らされて、名無しはぼんやりと目を覚ました。

 体温で温んだ厚い繊維の層が、柔らかく肌に馴染んで名無しを包み込んでいる。

 その心地よさに、名無しは一度あけた瞼をゆるゆると閉じかけた。


「起きたか」


 低い男の声に、名無しははっと目を見開いた。窓際に人影がある。

 上背のある、厳めしい雰囲気の男の姿だ。

 いつの間にか、関口が戻ってきていた。


「おはよう、ございます」


 あわあわと起き上がって、身なりを整える。

 筋肉痛ですこしばかり軋みはしたが、体は今までにないくらい軽かった。


「迎えの馬車の手配が遅れているので、しばらくここに滞在することになりました。

 昨日の強行軍の疲れもあるでしょう。君はゆっくり体を休めるといい」


 淡々とした口ぶりで、関口は言った。


 果たしてこの男、昨晩はどこで眠ったのだろうな、と名無しはぼんやり考えた。

 敷かれている布団は、名無しが使っていた一組だけだ。

 男の顔をまじまじ見ても、その鋭い目元に隈は見当たらない。

 白い朝日が、その横顔の陰影をくっきりと浮かび上がらせているだけだ。


「あの、関口さまは」

「自分は少し、することがあるので」


 返事は短かった。取り付く島もない。


 話をしたほうがいい。

 ゆきにはそう言われたが、名無しはもうめげそうになっていた。

 朝食をお持ちしました、と声がしたのは、丁度そんなときだった。


 襖の向こうに居たのは、昨晩と同じくゆきである。

 仲居の娘の浅く日に焼けた肌が、朝の清い光の下に露わになる。

 それが一層、彼女の凜とした雰囲気を引き立てていた。


 ○ ○ ○


 静かな朝餉だった。

 清々しく軽やかな朝の空気に反して、雰囲気は妙に重苦しい。

 何かしら話をするべきなのかもしれないが、場を主導する関口が口を開かぬ以上、名無しには声をかけるのも躊躇われた。

 眼前に並べられた艶々の白米や、香ばしく焼き上がった魚が、ひどく白々しい。


「お客さんがた、今日はどうなさるんです?」


 その空気を破って、ゆきがごく自然な調子で尋ねた。

 話しながらも、空になったひつを片付けるその手元は澱まない。


「もう数日、滞在を延ばそうと思っているのですが、大丈夫でしょうか」

「そりゃもう、うちは大歓迎ですとも。ご滞在のあいだは何かご予定でも?」

「いえ、特には。しばらく羽根を伸ばそうかと」

「まあ」


 完爾かんじとゆきが笑った。


「でしたら、この辺りを妹さんに案内してさしあげては如何です?

 このとおり小さな宿場ですけれど、橋のあたりには市も立って少しは賑やかなんですよ」


 もちろん帝都に比べればお粗末なものでしょうけれど、宿でぼうっとしているよりは気晴らしになるのではないかしら。妹さんは、村からでたばかりで心細いようですし。


 にこにことした笑みを絶やさぬまま、仲居の娘は畳みかける。

 何を言い出すのだろうと驚いてそちらを見れば、ゆきは悪戯っぽい目つきで名無しに目配せして見せた。意図が汲めない。

 戸惑いに駆られて関口の方を見れば、いつの間にか、男はじっと名無しの顔を見つめていた。

 思わず背筋が伸びる。


「あの、」

「そうしようか」


 ご用事があるならそちらを、と名無しが続ける前に、予想外の台詞が関口の口から飛び出した。

 男の後ろで、きりりとした雰囲気の娘がしてやったりという顔をしている。

 その口元が、がんばれ、と動きだけで名無しを励ましていた。

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