2章 名取り地蔵
第1話 名取り地蔵
名無しと関口が最後の峠に差し掛かったころには、日は暮れかかっていた。
血のような夕日が木々を赤く染めている。
馴染みのない風景は、それだけでどこか異界めいて見えた。
先を歩いていた関口が振り返って、名無しの様子を窺う。
肩で息をつき、よたよたとついてくる痩せこけた娘に、軍服の男は声をかけた。
「もう少しですが、歩けますか」
「えと、……はい、」
がんばります。
その返事を聞いて、関口は渋いような、困ったような、複雑な顔をした。
日のあるうちに街道近くまで下りる行程の筈であった。
しかし、想定以上の名無しの体力のなさが響き、道行きは大いに遅れている。
休ませた方がいいのは関口にも判っている。しかし、そうすれば日暮れまでに宿場へたどり着くのは難しくなるだろう。
男ひとりならばともかく、この娘づれでまさか野宿という訳にもゆかない。
せめて負担を軽くしてやろうにも、娘の荷物は端からすべて関口が持っている。
結局関口は、無理はしないように、という半端な言葉を投げかけるに終わった。
○ ○ ○
みどろが淵の後始末は、それなりに大事になった。
大怪我を負った源治を担いで八蘇の集落へ下り、駐在とともに取り乱す村人たちを
源治の負傷は命に関わるほどのものではなかったが、落ち着いて話を聞き出せるほどの状態でもない。帝都からの伝令では交代要員を派遣するとあり、源治を含めた村人からの聴取はそちらに引き継がれることとなった。
そうなれば、関口のやるべきことはたった一つである。
名無しを帝都に連れかえることだ。
翌朝すぐに立つ旨を伝えると、名無しは特に何をいうでもなく頷いた。
急に家の切り盛りを任されることになった十和子はてんやわんやしていたが、その事を聞きつけるとすぐ、名無しの旅支度をまとめて寄越した。
なるだけ早くここを出た方がいい、というのが十和子の言い分だった。
今回の件に関わった村人たちにとっては、名無しの存在はそれ自体が罪の象徴のようなもの。
側にあれば落ち着かなくなるだろうし、それが長引けば妙な考えを起こす者も出るだろう。
だから、場が混乱しているうちに、安全なところへ連れて行ってやって欲しい。
貴方方があの子をどうするつもりかまでは判らないけれど、きっとここに居るよりはいいはずだ。
その判断はおそらく正しいだろう、と関口は考えた。
せめてとなるだけ
気丈なことだ、と関口は思った。同時に、その気丈さが哀れでもあった。
名無しを案ずる十和子とて、場が落ち着けばその立ち位置は厳しくなるだろう。
村の船頭役を失い、その船頭役を船頭たらしめていた力を失って、実績があるわけでもない娘がどれだけのことをできるか。
否、と関口は思考を打ち切った。
そこから先は、別の者の管轄だ。関口に出来ることはない。
荷物とは言っても、ほとんど捨て育てられていた名無しのことだ。厳密な当人の持ち物といえば淵神の鏡と、あのあと渓流から拾い上げた、朽ちた守り刀のふたつきりである。種々の着替えや、小物や、履物は、十和子がおのれの持ち物のうちから名無しに分けてやったものだった。
その荷物を抱えて、夜明け前。
関口と名無しは八蘇を立った。
目指すは街道の宿場町。
そこから、手配された馬車に乗って帝都へ向かう。
そういう予定であった。
○ ○ ○
結局、宿場町近くまでたどり着いたころには日も沈みきり、空は藍色に沈んでいた。
平坦になった道の歩きやすさは、険しい山中とは比べものにならない。
歩き通しだった為に名無しのふくらはぎはぱんぱんに張り詰めていたが、ここまで来れば、へろへろの身でも宿までぐらいは歩ける。
ふうふうと息をつきながら、関口の背を見る。
視線の先には、ぽつぽつと街の明かりが見えた。
生まれてこのかた村を出たことのなかった名無しにとっては、これがはじめての外の世界だった。
その、十和子の語りの中にしかなかった光景がいま、名無しの目の前にある。
その手前に、赤い前掛けの地蔵尊が一体、ぽつんと佇んでいた。
「……」
「関口さま?」
いつの間にか、関口が足を止めていた。
何が気になったのか、男はじっとその地蔵尊を見つめている。
「……いや。何でも」
ちいさく首をふり、関口は歩みを戻した。
名無は慌てて、その背を追いかける。
宿まではあと少しだった。
○ ○ ○
「はい、お二人ですね。
宿帳に記入をお願いできますか。……関口さまですね。
どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」
人の良さそうな女将の案内で、関口と名無しは部屋に通された。
質素だが、きちんと手の入った一室だ。
一通り部屋の説明をすると、女将は簡単に夜食でもご用意いたしますね、と言って部屋を出て行った。
すとんと襖が閉じる。
女将が歩き去るのをきっちり確認してから、関口は口を開いた。
「少し構わないだろうか」
「えと、はい」
男の愛想のない視線を向けられ、名無しは身構えた。
関口の明るい虹彩がこちらに向くのは、どうにも落ち着かない。
「宿帳に名前を記入する必要がありましたので、君の名前は仮に”ななこ”とさせていただきました」
「ななこ」
不思議な気分だった。
繰り返し、その音を口の中で転がしてみる。
仮面の上から顔をなで回されているかような、妙なくすぐったさと違和感とがあった。
ななこ。
自分の名前。──ただし、仮初めの。
では、己のほんとうの名前とは何だろう。
ふと、そんなことを思った。
「また、自分と君とは兄妹ということにしています。
問題はないでしょうが、問われることがあればそのように答えていただきたい」
「え、あ、はい。わかりました」
名無しの内面をよそに、関口の淡々とした説明は続いていた。
よろしいか、と念を押されて、名無しははっと我にかえる。
「それから、これを渡しておきます」
手を、と言われて差し出した両手の上に、何枚かの切り紙が乗せられた。
まじまじとそれを見る。鳩の意匠だろうか。せいぜい名無しの手のひらほどの大きさのそれは、簡略化されてはいたものの、羽根を広げた鳥のかたちをしていた。切り損ねたのか、足は三本になっている。
「これは?」
「まあ、要は連絡の道具です。何かあればすぐ動けるよう近くには居ますが、必要と思えばこれをすぐ投げるように」
男の言に引っかかりを覚えて、名無しは尋ねた。
「どこかへ行かれるのですか」
「ええ、少し確認を。朝方には戻ります」
言う間に、関口は窓の桟に手をかけていた。
ここは宿の二階である。だがこの男、まさか己ひとりを宿に残してこのまま窓から出て行く気なのだろうか。名無しは焦った。
「あの、わたしはどうしたら」
「どうぞ、部屋でゆっくり休んで下さい。場合によっては明日も歩いて貰うことになりますので。
女将が夜食を持ってきたら、私は先に寝ているとでも答えておいていただければ結構」
それでは、と言うなり、関口はひらりと窓から向こうへ身を投じた。
男の長身は、あっという間に夜の闇に溶ける。
慌てて窓から身を乗り出してみても、もう関口の姿は影も形もなかった。
「……どうしよう」
がらんとした部屋にひとり取り残され、名無しは途方に暮れた。
こういう
知らぬうちに何か粗相をしてはいないか、自分などがいても良いものかとひどく落ち着かない気持ちになってしまう。
ともかく戸締まりはせねばなるまい。窓を閉め、切り紙を懐に仕舞う。
それだけで、名無しのすべきことはもう、一切無くなってしまった。
手持ち無沙汰になった指先で、もじもじと着物の袖口を捏ねまわす。
うろうろと部屋の中を彷徨った挙げ句、名無しは部屋のなるだけ隅のほうで、壁に背を預けて膝を抱えた。
対角の隅では、行燈の明かりが寂しげに揺れている。静かだった。
『奴もまあ、仕事熱心なことよな』
どこからともなく声がした。
はっと目をやれば、己の着物の袖口から、小さな白蛇がするすると這い出てくるところである。
名無しは慌てて手のひらで椀をつくった。
小蛇はそ知らぬ顔でその中に収まると、ちょんと行儀良くとぐろを巻いた。
そのちいさな口先からは、ちろちろと赤い舌が見え隠れしている。
「淵神さま」
是と返事をするかのように、白蛇は鎌首をもたげた。
鱗はつやつやと真珠のように輝き、つぶらな瞳は
成りの大きさこそ違えど、これこそ、かつてのみどろが淵の主に他ならない。
「どうなさったのですか」
『いや、なに。何やら途方に暮れておるようだったのでな。
おまえこそ、どうしたのだ』
小蛇の口から、しゅうしゅうという音とともにあの少年の声がするのは、名無しには不思議な感覚だった。
何にせよ、話相手ができたのは喜ばしい。
「ええと。……ひとりで、どうしていいかわからなくて」
『成程。心細うなったか』
蛇の表情は、名無しにはわからない。
だが、ふふ、と笑ったような気配があった。
『だがまあ、まずはあの男が言うたように、きちんと休息をとることだ。
夜食で腹をくちくしたら、あとはゆっくりとおやすみ。
待ったところで、あれは今晩中には戻るまいよ』
「戻らない? なぜですか?」
『おまえも年頃の娘であろうが』
娘は頭をひねった。あまりぴんとこない。
それよりも、名無しは今最も気になることを訊ねてみることにした。
「淵神さま。わたし、このあとどうなるんでしょうか」
ぽつりと、名無しはこぼした。
名無しが帝都行きに同意したのは、そこに何かの展望を見いだしたからではない。
あの状況で八蘇に残れば、十和子は名無しを庇おうとしただろう。
そしてそれは、きっと十和子の立場を悪くする。名無しはそれを避けたに過ぎない。
『さてなァ。そればかりはおれにも判らぬ。
だがまあ、おまえをどうこうしようという思惑あっての事ならば、まず真っ先にお前からおれを取り上げているだろうよ。今のところは、そこまで案ぜずとも良かろ』
蛇の言葉に、名無しは曖昧に頷いた。
確かに、この蛇神の形代はいまだ名無しの手元にある。
彼が言を違えぬ限りは、その加護は名無しにあるのだった。
『時に娘や』
「はい、なんでしょう」
蛇神からの呼びかけに、名無しは居住まいを正した。
白蛇の、滑らかな鱗に覆われた口先からちょろりと赤い舌が覗く。
『おれのことはもう、淵神とは呼んでくれるな』
「ええと、……なぜですか?」
名無しは困惑した。
そうは言われても、他の呼び方など知りはしない。
『そうさな』
白蛇は少し考えるような仕草をして言った。
『ちからある名は、おれたちのような存在にはそれだけでちからの源泉と成りうる。
鬼と呼ばれれば怪力を得よう、変化と呼ばれれば姿を変える
だが、それはまた、同時に存在を縛られるということでもある』
成程、と名無しは頷いた。
ぼんやりとだが、言われていることは判ったような気がする。
『淵を離れたおれがなお
「では、どうお呼びすれば」
名無しの問いに、悪戯っぽく笑ったような気配があった。
『何ぞ、おまえがふさわしいと思う名で呼んでおくれ』
「えっ」
思わぬ大任に、名無しは動転した。
名前の重要性はわかった。判った故に、下手な名で呼ぶわけにはいかない。
名無しはあれこれたっぷりと考えを巡らせてから、ようやく口を開いた。
「ええと……では、カガチさまと」
おずおずとそう言えば、白蛇はしゅうと鳴いて身をくねらせた。
満足そう……な、ようにも見えるが、蛇の表情はやはり判らない。
まあ、とりあえず否定はされていない。
ならば良かろうと、名無しは思うことにした。
「では、カガチさま。あの……」
『誰ぞ来たな』
小蛇の言葉に、名無しははっと口を噤んだ。
耳を澄ませば、確かに小さく足音が聞こえる。
その間に、白蛇はするすると名無しの袂に戻っていた。
ぴたりと足音が止まる。
襖越しに、お夜食をお持ちしました、と声が聞こえた。
「えっと、……あの、どうぞ」
「失礼します」
襖を引いたのは、先ほどの女将ではなかった。
夜食をのせた盆を手に居たのは、名無しと年頃の変わらなさそうな、ひとりの娘だった。
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