第9話 みどろが淵
『ふふ。おれを討つ、とな? おまえが、このおれを?』
「如何にも」
少年は嗤った。
関口は表情を変えない。
じり、と関口がにじり寄る。
呼応するように、蛇神もまた身構えた。
『良かろう。来やれ。
その赤錆た刃でわが白鱗を徹しうるものか、試してみるがいい!』
しゃあっ、と蛇の威嚇音が響く。
両者の気配が爆発的に膨れ上がった、そのときだった。
「おっ、お願いがあります!」
名無しが、半ば裏返った声を張り上げた。寸前で両者の動きが止まる。
男と蛇神、双方から寄せられる視線の圧に、娘はたじろいだ。
名無しはただの痩せこけた小娘である。
ともすれば村の悪童にすら簡単にひねり潰される、ひどくちっぽけな存在でしかない。
淵の大蛇と、それを相手取って一歩も引かぬ腹の男と、その両者の争いの間に割って入ったところで、路傍の石ほどの妨げにもなりはすまい。
そう理解すればこそ、言葉を用意していたはずの喉が引きつる。
だが、名無しにはこれしかなかった。
意を決して、娘は再度口を開いた。
「淵神さま。取り置いていた願いを、今ここで使わせて下さい」
少年神の目が、すう、と細められた。
その口元に微笑みはない。
ただ、冴え冴えとした月の如き人外の
『言うてみよ』
「どうか、……源治さまを、放して差し上げて下さい」
言った。言ってしまった。
語尾はみっともなく震えていた。
心臓が早鐘を打つ。
この嘆願に、怒れる蛇神はどう反応するだろう。
名無しにはまるで予想がつかない。
まっすぐ見上げたその貌は、つめたく凍りついたままである。
瞬きの間すら、永遠にも思えた。
篠突く雨が、降り続いている。
『何故だ』
ようやく、蛇神はそれだけを言った。
『おまえとて、この男にはさんざ虐げられてきたろう』
「それは、……」
否定はできなかった。
己の置かれていた環境が到底まともでなかったことぐらい、名無しも判っている。
積極的に虐げられることはなかったが、庇護されることもなかった。
ひどく飢えることはなかったが、満足には食べられなかった。
雨風を凌ぐことはできたが、清く安全な寝床にはほど遠かった。
ただ、生かされていた。
『あの男の助命なぞ願わずとも、他に叶えたい願いの一つもあるはずだ』
それも、間違っていない。
叶うことなら、父がいて、母がいて、もしかするときょうだいがいる。そんな家に、己も生まれてみたかった。
叶うことなら、綺麗な着物に袖を通して、美味しいごはんをお腹いっぱい食べてみたかった。
叶うことなら、十和子と一緒に、尋常科に通ってみたかった。
それができる周囲のすべてが、いつだってうらやましかった。
「……。そうかも、しれません。でも」
でも、そうはならなかった。
だから、もう、それはいいのだ。
それに──仮に、そのように生まれていたら。
きっと、十和子とは出会わなかった。
「源治さまが死んでしまったら、きっと十和子さまが悲しむから」
氷のような雨粒が、頬を打つ。
ふ、と、空気が緩んだ。
『仕方あるまい。
おまえの願いを聞き届けると誓ったのは、確かにこのおれよ』
少年の姿をした蛇神は、やれやれとでも言いたげにちいさく首を振った。
どさり、と源治の体が岩がちな川縁に投げ出される。
呻きが漏れるところをみるに、まだ息はあるらしい。
それを認めて、名無しはほんの少しだけ安堵した。
雨足が急速に弱まってゆく。
雲の切れ間からは、朝陽が差し込んでいた。
「良かったのか」
『まさか』
関口の端的な問いに、蛇神もまた端的に答えた。
言葉に違わず、少年神の赤い瞳の奥にはいまだ、ちろちろと厭悪の熾火が灯っている。
『だが、この娘はおれとの約定を果たした。
なれば、おれが違える訳にはいくまいよ』
「そうか」
『そうとも。だが、少しばかり確認はしておこう』
ゆるり、と蛇神は関口の方に向き直る。
向けられた鋭い視線を、関口は正面から受け止めた。
『犬よ。お前は“人の子は人の理で裁かれるべき”と申したが、それは確かに果たされるのだな?』
「我が名にかけて」
重々しく、軍装の男は肯定をかえした。
ならばよい、と呟いて、蛇神はその目を閉じる。
『しかしまあ、ほとほと愛想が尽きたわ。おれはこの淵を離れる』
「どちらにゆかれるのですか?」
名無しの問いに、そうさなァ、と蛇神は呟いた。
『では、こうしよう。娘や。おまえに、その鏡をやろう。
それがおまえの手にある限り、我が加護はお前のもとにある』
おまえの手から離れたその時は、まあ、考えるさ。好きにせよ。
その言葉を最後に、少年の姿は空に溶けるようにかき消えた。
いつの間にか、偉容を誇った白い蛇体も消え失せている。
あれだけ水量を増していた川もすっかり水が引き、何もかもが幻であったかのように、あたりまえの渓流の朝がやってきていた。
恐る恐る、名無しは懐から鏡を取り出した。背面を返す。
ぐるりを囲む蛇の彫刻の目が、いつの間にか赤く染まっていた。
「君。立てるか」
差し伸べられた手に、名無しははっと顔を上げた。
隣に仏頂面の関口が立っている。
「あの、……はい、すぐに、」
立ち上がろうとして、名無しは盛大によろめいた。
「おい、君!」
焦った様子で、関口がふらつく名無しを抱き留めた。
がっしりとした腕は、娘ひとりを支えてなお、びくともしない。
「すみません、すぐ立ちます」
「無理はしなくていい」
「でも、」
名無しは立とうとするが、足に力が入らない。指先の感覚もほとんどない。
何故だろうと考えて、それと思い至った瞬間、ぎゅうと心臓が締め上げられたようになった。
「あ、」
怖かったのだ。
体が今更それに気付いたに過ぎない。
遅れて呼吸が浅くなる。
「ちょっと、大丈夫なの!」
ぱっと視界が開けたような気がした。
耳慣れた、勝ち気そうな声。
顔をあげれば、そこには十和子がいた。
少し怒ったような顔。
きれいだった小袖は泥はねとかぎ裂きとで汚れ、さんざ雨に降られたためか髪は乱れている。
杖に体を預けるようにして立っているのは、どうやら足を怪我しているからか。
「十和子さま、お怪我を?」
尋ねた瞬間、十和子は猫のような目をいっそう吊り上げた。
「お怪我をじゃないわよばか! まずは自分の心配をしなさいよ!
自分で立ててもないじゃないの、そっちこそ無事なんでしょうね!」
「あの、はい。腰が抜けてしまっただけで、」
「本当に? 嘘をついたら承知しないからね!」
「ほ、ほんとうです」
「本当の本当?」
「はい、」
「そう」
よかった、という言葉と共に、十和子の瞳から大粒の涙がこぼれた。
その顔に当たる朝日が、次々と頬を伝う水滴を照らす。
その涙は、若葉に乗る朝露にも似てきらきらと輝いていた。
「あの、十和子さま。やっぱりどこか痛めて、」
「……ああもう、ばっかじゃないの!」
突如噴火した火山の如く、十和子は激憤した。
「だからなんで私の心配なんかするのよ! 違うでしょう!
人のことなんか気に掛けてる場合じゃないの、あんたは怒るところなの!
殺されかけたのよ、わかってるの!」
「でも、ええと、……ほら、生きてますし」
「生きてますしじゃないの、そんなもの結果論でしょう!
私はねえ! 扱いに怒れって言ってるの!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙はそのままに、十和子の語調はますます強くなった。
立て板に水とばかりにまくし立てる彼女に、名無しは口を挟めない。
「まるっきりあんたの意思なんか無視して、何もかも全部お膳立てされたことに怒れって言ってるの!
何一つ知らされずに勝手に“貴い犠牲”なんてものにされかけたことを怒れって言ってるの!
ちゃんと、……ちゃんと怒ってよ」
最後の声は、小さく掠れていた。噛みしめた唇が震えている。
十和子の言うことは、名無しにはいまいちぴんとこない。
それよりも、その頬を伝う涙を拭ってやりたかった。
「わたし、」
ぽつりと、十和子がこぼした。
「いずれあんたが殺されるんだってわかっててずっと黙ってたのよ。
碌でもない扱いされてるのもわかってたのに、ずっと見ないふりをしてた。
あんたが死ねば、ぜんぶ丸く収まるんだからって。わかる?」
口の端を歪めて、十和子は嗤った。
「わたしだって、あの男と変わりゃしないのよ」
皮肉と、自嘲と、それから悪意とをたっぷりと籠めた、あの口ぶりだった。
刃物のように鋭い光を返す眼は、涙に濡れて揺れている。
それが可笑しくて、名無しは少しだけ笑った。
「でも、十和子さまは助けに来てくれました」
「────ッ、ばか! ほんっとばか!」
泣き濡れた悪鬼の顔は、あっという間にぐずぐずに溶けて崩れた。
十和子が男の腕ごと、力一杯名無しを抱きしめる。
ぎゅうぎゅうとしがみつくように肩を掴む指先が、身に食い込んで少し痛い。
首筋に顔を埋めてしゃくり上げる十和子の背を、名無しはおずおずと抱きかえした。
その姿は、仲の良い姉妹にも似ている。
「……あー、取り込み中申し訳ないのだが」
気まずげに、関口が口を開いた。娘ふたりが顔を上げる。
若干ウッと気圧されながら、関口は言葉を続けた。
「取りあえず集落まで下りて、手当を──」
その途中で、ちち、ち、と鳴きながら小鳥が一羽舞い降りた。
白い小鳥は関口の肩に止まったかと思うと、ひらり一枚の紙片に姿を変える。
関口は眉間の皺を深くすると、空いたほうの手でそれをとらえて器用に開いた。──きつく瞑目する。
「……事情が変わった」
「事情とは?」
赤く泣きはらした目で、十和子が問うた。
「そもそも、あなたは何のためにこの集落へ?」
男が口を開く。
「自分は、
失踪人調査を命じられてこの地へ来た──が」
きろりと男の視線が名無しをとらえる。
なんとはなしに、身が竦んだ。
「たったいま下った命により、君を帝都まで連れて行くことになった」
ご同行願う。
男の発言をうまく飲み込めず、名無しははあ、と気の抜けた返事をした。
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