第5話 少年

 こふり、とひとつ咳き込んで、大きく息を吸いこむ。

 飲んでしまった水をいくらか吐き出し、肺が新鮮な空気で満ちるのを感じてようやく、名無しは己がまだ生きていることに気がついた。


 のろのろと身を起こす。

 たっぷり水を吸ったはずの白無垢は、奇妙なことにほのかに湿りを帯びているのみであった。着付けも思ったより乱れていない。小刀と鏡もまだ、しっかりとそこにあった。


 顔をあげる。

 そこは見覚えのない、豪奢な屋敷の中であった。


 板張りの床はひんやりとして、鏡のように磨き上げられている。

 行燈のひとつもあるわけではないのに、周囲は不思議とほの明るかった。

 部屋の四方はふすまで仕切られ、五色と金泥で四季の花々がいちめんに描きあげられている。その引手までもが細やかな透かし彫りで彩られていた。

 少し視線をあげれば、精緻に彫り上げられた欄間と、鮮やかな天井画とが目視界に飛び込んでくる。


 この華やかさを前にすれば、集落のお屋敷など、所詮は片田舎のすこし大きな家に過ぎなかったことがありありとわかる。


 ──あっちで目覚めて、こっちで目覚めて。

 なんだか、今日はこんなことばかりだ。


 名無しはまだぼんやりとする頭で、そんなことを考えた。

 他に人影はなく、あたりはしんと静まりかえっている。


 一体、ここはどこなのだろう。

 おのれがまだこうして存在していることに対して、名無しはまるで実感がわかなかった。

 もしかして、まだ生きていると思っているのはただの錯覚なのではないか。

 そして、ほんとうはとうに死んでいて、ここはあの世とかいう場所なのではないか。


 だが、それにしては妙だ、とささやく部分もまた、娘のなかにはあった。


 確かに、この場所はこの世のものとは思えぬ華やかさである。

 だが、このうち捨てられたような、うら寂しい雰囲気はどうしたことか。


 ぴかぴかの床にはうっすらと埃が積もっている。

 漆塗うるしぬり襖縁ふすまべりはところどころ剥がれが目立ち、引手の縁には僅かに錆が浮いている。

 天井近くから室内を睨む欄間らんまの蛇すら、どこか悲しげな表情に見えた。


 ──蛇。


 そうだ、蛇だ、と娘は思った。

 思考にかかった靄がいちまい、剥がれ落ちる。


 欄間に、引手に、襖絵の花々の合間に。

 使われているのは、どれもこれも蛇の意匠である。


 名無しは重ねの上から胸元を押さえた。

 体温でぬるんだ金属の感触を確かめる。

 ここにも、蛇がいる。


『娘』


 不意の呼びかけに、名無しはびくりと肩を震わせた。


『そこな娘や』


 しゃがれたようにも、瑞々しいようにも聞こえる。

 その不思議な響きは、どうやら正面の襖の向こうから聞こえるようだった。

 ずろり、懐で、なにかが蠢いたような気がした。


『こちらへおいで』


 唾を飲む。

 声に従うべきか、抗うべきか。


 迷い迷った末、名無しはついに引手に手をかけた。


 ○ ○ ○


 上がりかまちに腰を掛け、湯を張ったたらいに足をつける。

 ぴりりと傷口がしみる痛みに、十和子は眉を顰めた。


「大丈夫ですか。痛いでしょうけれど、砂を残すといけませんからね」


 乾いた手ぬぐいと薬箱とを抱えて、駐在が奥から戻ってくる。


「すみません。寝入りばなに押しかけてしまって」

「気にせんでくださいよ。わたしゃ、何かあったときのために居るわけですからね。

 全く、お嬢さんにここまで心配してもらえるなんて、あの子も果報者ですねえ」


 駐在は少しばかり余分な肉のついた体を揺らし、陽気に笑って見せた。


「それにしても、一体なんでまた裸足で。ここまで随分距離もあったでしょうに」

「閉じ込められていたんです」


 ちゃぷ、と水音が響いた。


「父は、祭りを前倒しにすると知れれば、私が何かしでかすと思っていたのでしょう。ええ、その通りでしたけれど」


 ふふ、と十和子は歪に笑った。


「部屋に押し込めて、見張りまでつけて……それで、隙を見て窓からこっそり抜け出してきたんです。履物を取りに行っては見つかってしまいますから、そのままここまで」

「まさか」


 駐在は首を振り、こわごわと問うた。


「お嬢さん、まさか本当に、お父上たちが人殺しをしようとしていると仰りたいので?」

「ええ、そうですよ」


 至極あっさりと、十和子は言い放った。

 その横顔は険しい。


「生贄に村の娘が捧げられたのは、私が知る限りでも既に三度。

 表向きは、川遊びで溺れたことにでもなっていたかと思いますけれど」


 盥から足を引き上げる。

 白い爪先から、ぽたぽたと、血の混じったうす赤い水が滴った。

 揺れる洋燈ランプの灯がゆらゆらと水面に妖しい影を落とす。


「あの関口という方は、それを不審に思って調べに来られたものだとばかり思っていたのですが、違うのですか」


 駐在のほうを振り仰ぎ、娘が尋ねた。


「いえ、わたしも彼の職務内容までは聞かされておらんのです。ただ、協力するようにという辞令を上からうけとったばかりで」


 困惑を隠しきれない表情で、駐在はそう答えた。


「そうですか」


 沈黙が落ちた。

 駐在は何か考え込んでいる。


 それを尻目に、十和子は足を拭いた。

 白い手ぬぐいに、わずかに赤が滲む。


 あの子はまだ、生きているだろうか。


 もう何度目になるかも覚えていない、答えの出ない自問に、十和子は唇を噛みしめる。

 何もできないもどかしさが身の内側を焦がし、痛みとなって、傷だらけの足裏で脈を打っていた。


「……あれは、何だったんでしょうね」


 唐突に、駐在が呟いた。


「え?」

「ほら。あの、彼が最後にふわっと投げた、」


 ああ、と十和子は理解した。

 関口が投げた紙切れが、鳥に変じたように見えた。そのことだろう。


「見間違いでは。ずいぶん暗い中でのことでしたし」

「わたしとあなた、二人ともですか?」


 その問いに、十和子は言葉を詰まらせた。

 確かに、あれは不思議な出来事だった。だが、まさか。


 あるはずはない、と十和子は己に強く言い聞かせる。

 そうだ。あるはずはない。だって、仮にかもしれないではないか。


「いえ、そうですね。見間違いだったのでしょう」


 青ざめた十和子の顔を見てか、駐在は話題を切り上げた。

 だが、一度煽られた焦りは、収まるどころかなおも強さを増してゆく。


「駐在さん」


 意を決して、十和子は言った。


「やはり、私をみどろが淵まで連れて行っていただけませんか」


 やはり、どうあっても、己の目で確かめなくては。

 そうでもしなければ、この焦燥はとても収まりそうにない。


 ○ ○ ○


 襖を引く。

 その先の光景に、名無しは今度こそ言葉を失った。


 室内を彩るのは、数々の荘厳具しょうごんぐである。

 天井からは長い瓔珞ようらく吊灯籠つりどうろうがいくつも下がり、それぞれに金色の輝きを放っている。

 どこかで香でも焚かれているのか、かすかに白檀が薫っていた。


 少し、村のお堂に似ている。

 目の前の光景を、名無しは乏しい経験からそのように例えた。


 娘のその直観は正しい。

 村から出たことのない名無しにはあずかり知らぬことであったが、その造りは確かに仏教寺院のそれに酷似していた。


 ただし、本来なら本尊が安置されている場所にあったのは仏像ではない。

 ひときわ立派な天蓋の下、光背を背負い、台座の上に腰を下ろしていたのは、仏ではなくひとりの少年であった。


 異様な光景だった。


 蓮のうてなに、少年はただ座っていたのではない。

 部屋の四方八方から伸びる注連縄しめなわに全身を戒められ、身動きがとれぬよう拘束されているのだった。


『やれ、来たか』


 しゅう、と掠れた声で、少年は言った。

 雪花石膏の如く白い顔の上で、言葉を紡ぐ唇だけが血のように赤い。

 その唇が、かすかに笑みをかたちづくった。


『許せよ。なにぶんこの有様ありさま故、せいぜい呼びつけることしか出来ぬでな』


 有無を言わせぬその雰囲気に気圧されて、名無しは思わずこくこくと頷いた。

 もっとも、それが少年に伝わったかどうかは定かではない。

 ぐるぐると巻き付いた黒い縄のために、かれの視界は塞がれていた。


『久々の客であるというに、もてなしも出来ぬは不便なことよ』

「あの、」


 大げさに嘆いてみせる少年に、名無しはおずおずと切り出した。


「あなたは、誰ですか。ここはどこなのでしょう」

『おれか』


 少年の笑みが深くなった。

 にい、と唇の両端が吊り上がる。


『おれは、このみどろが淵のヌシ

 そして、ここはわがねぐらだとも』


 まあ、おまえたちの言うところの淵神であるよ。

 少年は、何気ない口ぶりでそう自称した。

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