第4話 淵神

 準備はできたか、とふすまの向こうから声がした。

 慌てて鏡を懐にしまいこむ。

 はい、と応える声は少し、裏返ってしまっていた。


 襖が引かれ、するすると女がひとり、入ってきた。

 慣れぬ衣装に足元のおぼつかない名無しの手を引く。


 引かれるまま、たどり着いたのは先ほど屋敷に上がった縁側である。

 磨き上げられた床板は月光を照り返し、濡れたように鈍く光っていた。


 それから──正面の庭には、いつの間にか神輿みこしが鎮座していた。

 担ぎ手の男たちが、無言でその脇に待機している。

 月明かりに照らし出される神紋は糸輪に七ツ繋ぎ鱗。


 淵神さんの神輿だ、と名無しは気付いた。

 旧盆のころに使う神輿が、なぜ今出されているのだろう。


 学のない名無しが神紋や祭りの時期を覚えているのは、この祭りに参加したことがからだ。


 名無しは、祭りの時期は決まって納屋から出ることを禁じられていた。

 それと知った十和子が、いつからか、祭りのたびにその内容をあれこれと語って聞かせてくれるようになったのだった。


 曰く、淵神祭りはつまらない。菓子のひとつも配ればいいものを。

 曰く、淵神さんの社は遠い。女子供には道のりが険しすぎる。

 曰く──


「おい」


 はっと我に返る。

 目の前には源治が立っていた。


「持て」


 ぐいと丹塗にぬりの杯を押しつけられる。

 反射的に受け取ったそれになみなみと、透明な液体が注がれる。

 その表面が揺れるたび、ぷんと強い酒気が香った。


「飲め」


 これを、本当に飲めというのか。

 源治の方を伺い見る。

 むっつりとした三白眼の男は、ぴくりとも表情を変えない。


 恐る恐る、ちびりと舐めてみる。

 たったそれだけで、舌先に火がついたようだった。


「飲め」


 重ねて、男が言う。

 飲みきるまで容赦してくれる気はないらしい。

 ままよ、と名無しは杯をあおった。喉が焼けるように熱い。

 どうにか飲み下し、こほこほと咳き込んでいる間に、杯には再び酒が注がれた。


「飲め」


 目が回る。まだ飲まねばならぬらしい。

 どうにか杯を受け取り、名無しは再度杯をあおる。

 口の中がかっと熱くなる。頬に血が上る。


 何か別の事を考えなければ、と名無しは思った。

 そうでもしなければ、今にも意識が飛びそうだった。


 つい先ほど格子越しに見た、泣き笑いを浮かべる娘の表情がふと脳裏を過ぎる。


 ──十和子さま。


 そうだ。十和子は、淵神祭りをなんと言っていたのだったか。


 曰く、淵神祭りは社まで供物を捧げにゆくだけの行事だ。

 曰く、供物は神輿にのせ、それから──


 杯に三度酒が注がれる。

 丹塗りの水面に月が揺れている。

 その月ごと、三杯目をあおる。ぐにゃりと床がたわんだ。


 そうだ。それから。

 ──供物は、淵に投げ入れる。


 意識が落ちた。



 ○ ○ ○


『タタリ堕チノ兆候強シ』──。


 それは緊急の案件であることを示す一文である。

 この資料にそれ以降の更新の履歴はない。

 つまり、この”緊急の案件”は未だ対処されきっていないということになる。


 文書に最後まで目を通した関口は、きつく眉をひそめた。


 話が違う。

 未処理の案件は存在しないのではなかったか。


 この職務においては、残念ながら、任務中の失踪や殉職は珍しいことではない。割くべき人員は慢性的に足りておらず、今回のような殉職者の遺体回収や捜索は為されることのほうが珍しいのが現状だ。


 だが、任務の未遂となれば話は別である。


 任務中、担当者が何らかの要因で活動の継続が困難になった場合、その案件は速やかに別の者に引き継がれることになっている。また、任務は完了したが報告はできなくなった場合でも、後任者が報告書をまとめて提出することが義務づけられていた。


 任務の遂行とその報告はすべてに優越する。

 未遂の案件が引き継ぎもされずに放置されているなどいうのは、決してあってはならないことだ。特に、それが緊急案件とあっては。


 阿賀茅あがち八蘇やそ

 それは、先任が消息を絶った集落の地名である。


 ○ ○ ○


 がたりと一際大きく揺れたのをきっかけに、意識が浮上する。

 名無しはゆっくりとまぶたを開いた。

 あたりは墨で塗りつぶしたような、のっぺりとした闇に包まれている。


 体を起こそうとしたが、身じろぎした途端、こめかみに脈打つような痛みが走った。

 当てずっぽうに伸ばした手はすぐに壁に突き当たる。

 名無しはどうやら、狭い箱のようなものの中に居るらしかった。

 心細さに胸元を手探る。帯に差した小刀は取り上げられてはいなかった。懐の鏡もだ。確かにそこにある感触に、名無しは少しばかり安堵した。


 突然光が差し込んだ。

 引き戸が開け放たれたのだ、と気付くまでには、少しばかり時間を要した。

 四角く切り取られた夜空に数多の星が瞬いている。

 名無しは、どうやら神輿の中に放り込まれていたようだった。


「起きてんじゃねえか」


 村の──これは、誰だったか。

 とにかく、村の男の声だ、と名無しは認識した。

 感情の見えない無機質な目が、名無しを覗き込んでいる。


「おい、起きてるんなら自分で出てこい」


 娘が鈍い頭痛と脱力感とによって動けずにいると、焦れたような舌打ちのあと、太い腕が伸ばされた。

 皮の厚い手が名無しの細い手首をつかみ、ぐいと外へ引く。


 勢いのまま転び出る。

 萎えたままの足はもつれ、したたかに膝を打った。


 神輿は、どこかの沢に下ろされたようだった。

 そこかしこで蛙が鳴いている。


 鬱蒼うっそうとした山中にあって、周囲は比較的ひらけていた。

 横合いを流れる渓流のひときわ川幅が広くなったあたりは、星明かりに照らし出されてなお深く、暗く澱んでいる。

 その淵の脇に、小さな社が鎮座していた。


 幕には糸輪に七ツ繋ぎ鱗。──淵神の社。


 では、目の前のこれが、十和子の言っていたか。


「手をかけさせるんじゃねえ。立て」


 のろのろと立ち上がる。

 たいがい勘の鈍い名無しでも、このあとどうなるかの見当はついた。


 供物の鶏は絞められるものだ。

 己もここで殺されるだろう。


 死ぬのは怖い。

 だが、不思議と心は凪いでいた。


 十和子は、あのあと見つからずに帰れただろうか。

 あのやさしい娘が、この結末を知って、気に病まねばいいのだけれど。


「淵に向かって歩け」


 川に足を踏み入れる。着物の裾が水に浸かる。

 比較的浅い場所でも、流れは早かった。

 気を抜けばすぐ、ぬめる底石に滑って転んでしまいそうだ。


 神輿を担いできた男たちもついてきている。

 逃げ場はなかった。


 ひときわ水の色が濃くなる手前で、足が止まった。

 この先は淵だ。踏み込めば溺れるほかない。

 気づけば、冷えきった指先が震えていた。


 後ろからどんと肩を押される。前に泳いだ体が水面を打つ。

 枚数を重ねた衣装はすぐに水を含んで重石となり、藻掻もがく名無しを水底へといざなった。


 ごぼりと息が逃げる。

 水中から見上げた空には、無数の星と、歪んだ月とが揺れていた。


 ○ ○ ○


 激しく戸を叩く音がした。

 駐在所に、誰か尋ねてくる者があったらしい。

 何事かと関口が階下に下りると、丁度駐在が目をこすりながら起き出してきたところだった。


「おや、起こしてしまいましたか」


 まだ眠気が抜けぬと見える。

 洋燈ランプを手に釣ったまま、駐在はふわあ、と大あくびをした。


「こちらで応対致しますから、寝ていていただいても大丈夫でしたのに」

「寝付けなかったもので」

「ああ」


 この季節はうるさいですからねえ。都会の方にはお辛いでしょう。

 男の言葉に、関口は不器用な愛想笑いを浮かべた。


「ところで、何かあったのですか」

「さて、わたしも一体何がおきたやら」


 寝間着の駐在は小さく首をすくめた。


「こんなこと、滅多にあるもんじゃァないんですがね。こんな夜更けに、一体何の用で……」


 ぼやきながら、駐在はのんびりと玄関の鍵に手をかけた。

 はいはい、今あけますよ、という声と共に、がらりと戸がひらかれる。


 息を飲む。

 星明かりを背に、幽鬼のような女が立っていた。


 ここまで全力で駆けてきたらしい。忙しなく肩で息をつく女の髪はざんばらに乱れ、着物はどこかで転んだものか泥にまみれている。

 その乱れ髪の合間から覗く瞳は、揺れる洋燈の仄明かりを照り返して爛々と輝き、まっすぐに関口を見つめていた。


「──八蘇のお嬢さんじゃァないですか!」


 駐在が叫んだ。

 その言葉を聞くまで、関口は目の前の女が誰であるのか、まるで判別がつかなかった。

 改めて女を見る。確かに、これは昼に見た源治の娘に相違なかった。


 駐在の言葉を聞いているのかいないのか、娘はふらりと一歩、前に出た。

 その足元に履物はない。

 やわらかそうな足裏は傷にまみれ、あちこちから血が滲んでいた。


 へたりこむようにして、娘が地に手をつく。

 慌てて駆け寄った駐在がその体を抱え起こした。


「どうか──どうか、あの子をお助け下さいませ」


 顔を上げた娘は、切れ切れの息を繋いでようやくそれだけ言った。


「ご説明願えますか」


 膝をつき、娘と視線を合わせる。

 関口をまっすぐに見返す、その瞳だけがまだ力を失っていない。

 喘鳴を交えながらも、十和子はハッキリと頷いた。


 ○ ○ ○


 時間がありませんので、端的に申し上げます。

 父は、源治は、あの子を淵に投げる気なのです。


 ええ、ええ。そうです。

 あなたが見かけたという、襤褸ぼろを着たあの子です。


 都会の方には信じがたい事でしょうが、このような古い土地では、驚くような俗信がいまだに信じられていたりするものなのです。

 私どもの住む八蘇でも、集落の者が蛇害や水害にあわず、安定して豊かな収穫を得られるのはみどろが淵の蛇神さまのおかげであると強く信じられています。

 ですが、この蛇神は供物を要求する神であるともされているのです。表向きは、毎年家禽を淵に捧げていることになっておりますが──ええ。


 はい、そうです。

 確かに家禽も供物にしてはおりますが、

 何年かにいちどは、村の娘を捧げているのです。


 あの男は、昼の訪問で何か感づかれたと思ったのでしょう。

 儀式が滞ることを恐れてか、予定を早めることにしたのです。

 今年の供物を届ける、淵神祭りの神輿はもう出発したころでしょう。

 このままでは、あの子は今晩にもみどろが淵に沈められてしまいます。


 どうか、どうか。


 どうか、お願いでございます。

 あの子をお助けくださいませ。


 ○ ○ ○


 一息に、十和子はそこまでを話した。


「そんな、今どき人身御供なんてものあるはずが」


 血の気のひいた顔で駐在は首を横に振る。

 その言葉を遮るように、関口はかさねて尋ねた。


「その淵までの道は」

「うちの屋敷の裏手から、山道を進んだところです。私が案内を」

「いけません、いけません!」


 立ち上がろうとした娘を、駐在が押しとどめた。


「まさかお嬢さん、その足で山道を行こうって言うんですか、とんでもない!」


 もっともな意見だった。

 十和子の足裏の傷口には大小の砂利が食い込み、赤く腫れている。案内どころか、まず手当てが必要なのは明らかだった。


 娘が駆けてきたであろう道を、関口は見た。

 細い山道である。街灯などあろう筈もなく、左右は鬱蒼とした茂みに覆われ、ぽっかりと闇が口を開けているような恰好だった。虫と蛙の鳴き声だけがかわらぬ調子でやかましい。


「だいたいもう夜更けじゃありませんか。追いかけるにしたって、日が昇ってからでなきゃあ」

「でも、それじゃあ、」


 泣きそうな声で、娘が言う。


「大丈夫ですよ、お嬢さん。生贄だなんて、そんなのは妙な新聞の読みすぎですとも。きっと朝になればなんでもない顔でみんな帰って──」

「わかりました、自分が一人で向かいます」


 関口の言葉に、駐在は頓狂とんきょうな声をあげた。


「関口さん、あなたも何を言ってるんです!

 こんな時間から土地勘のない人間が山に入ったりしたら遭難するだけでしょう!

 だいたい、いまから八蘇の集落に向かったって、到着はいったい何時になると思って」


 生贄を迷妄と断じ、何よりまず目の前の人間の身を案じるこの小男は、やはり基本的には常識的で気のいい人間なのだろう。

 おそらくは本気で、人身御供などという前時代的な風習が、今この時代に執り行われようとしているなどとは思ってもいないのだ。


 だが、関口は知っている。

 


「問題ありません。ところでお嬢さん、何か、みどろが淵に向かった人間にゆかりのある物を持ってはいませんか」

「ゆかりのもの、ゆかりの……、そういえば」


 十和子は懐から、小ぶりの巾着袋をひとつ取り出した。

 朱の地に金糸で細かく刺繍が施された華やかな生地だが、年月を経て、その赤はやや色あせている。


「これはどうでしょう。いつもこれに鏡を入れて持ち歩いていたのですけれど、中身はさっきあの子にあげてしまったのです。取り上げられたりしていなければ、鏡はまだ、あの子が持っているはず」

「十分です。お借りします」


 巾着袋を受け取ると、関口は衣嚢ポケットから何か小さい切り紙を取り出し、その上に何かを書き付けた。切り紙を空に投げる。

 ぱっと散った白い紙切れは夜の闇にひらひらと舞い、──


「は……」


 ぽかん、とした表情を浮かべ、十和子と駐在の男は、もう何もいない空を見上げた。視線の先には、星の瞬きと夜の闇だけが満ちている。


「それでは、お嬢さんを駐在所の中に。自分はみどろが淵へ」

「ちょ、関口さん、あなた」


 駐在の言葉を待たず、関口は身を翻した。疾風の如く駆け出す。

 ひなにあってひときわ目立つはずの軍装長躯の男の姿は、あっと言う間に夜の闇に飲まれ、すぐに見えなくなった。

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