第3話 帝都の男

 

 田舎はどうにも虫が多くていけない。

 作業のために灯した洋燈ランプには用もないのに羽虫がまとわりつき、始終硝子ガラスにぶつかってはばちばちと音を立てている。


 蛙が多いのもいけない。

 日暮れからこちら、大合唱は延々と続き途切れることがない。

 思考の合間合間に蛙の求愛が差し挟まれるというのは、どうにも集中が乱れる。


 関口はうんざりとして、ついに布団に身を投げ出した。

 ぺらぺらのせんべい布団はその長躯ちょうくを受け止めきれずに、どす、と鈍い悲鳴を上げる。

 驚いた百足がその影から飛び出して、壁板の隙間に潜り込んだ。

 帝都ではまず見ぬその大きさに、男はぎょっとした。


 恐る恐る、たった今下敷きにした布団をめくる。二匹目の百足はいなかった。

 安堵に胸をなで下ろし、再び布団に転がる。

 今度は音は立てなかった。


 間借りした駐在所の二階で、関口は資料を引き比べていた。

 調べていたのは戸籍と、行旅死亡人の届け出記録である。


 彼がこのような山奥にまで足を運んだのは、長らく行方不明となっている先任者の捜索のためであった。

 もっとも、先任はもう生きてはいまい。組織もそのつもりで動いている。

 関口の作業は、だからその死の確認に過ぎない。


 だが。


 関口は寝転んだまま、この日飽きるほど見返したこの地区の行旅死亡人の届け出目録を、もう一度舐めるように確かめた。やはり、ない。

 該当する姓名はおろか、それらしい身元不明人すらない。

 溜息とともに唸り声が漏れる。


 先任の消息はあの村で途切れている。そこまでは間違いないのだ。

 だが、か細い手がかりをたぐってたどり着いた先、先任に最後の宿を貸したとみられる例の豪農は、その行方について、なぜだか貝の如く口をつぐんでいる。


 あの源治とか言う男。何か事情を知っているとみて間違いない。

 消息を語らないのは、余程やましいことがあるからか、それとも。


 全く、面倒極まりないことだった。

 面倒なことと言えば、関口にはもう一つ気になることがある。


 ふと気になって調べてみれば、あの屋敷を覗いていた蓬髪ほうはつの娘、おそらく戸籍がない。どこから来た子かも定かではない。


 赴任して五年になるという駐在は、親類の子と聞いているという。

 しかし、戸籍をどうたどってみてもそれらしい親類縁者は皆無。

 ならばと麓の村人に尋ねてみれば、今度は今度で山向こうからのもらい子だの捨て子だのと各々食い違う。


 ただ、源治の家で養われてはいるが実子ではない、ということだけが証言のなかで共通していた。


 ”あそこの集落は、あの家は、フチガミさんのおかげで余裕があるから”。

 聞き取りの際、麓の村でしょっちゅう聞いた言葉だ。

 確かに、周辺の村落と比べると、あの山あいの集落、そして源治の家は、不思議と豊かであるようだった。

 だから子供を余分に養う余裕もあったのだろう、と麓の住民は言う。


 ぎゅっと目をつぶり、関口は目頭を揉んだ。

 ついでに、眉間の皺も引きのばす。

 澱んだ血流を押し流す感触が疲労に心地よい。


 どのような経緯で引き取られた子であれ、憐情から引き取って養育していただけであろう。目くじらをたてるようなものではない。

 そう主張していたのは、たしかここの駐在であったか。

 無論、そういう可能性もないではない。


 だが、関口は引っかかりを覚えずにはいられなかった。

 そも、該当する親類縁者が皆無というのがおかしいのだ。


 あの家の親族に生まれた女児のうち、神の子七歳を越えぬうちに死んだのが半数。十六を迎えられなかったのが更に半数。

 特にここ十年に限って言えば、無事に十六を迎えることが出来たのは長者の一人娘たる十和子ただひとりとなる。


 あの家の係累は、こぞって娘の死亡率が高すぎる。


 女ばかりが死ぬ一族。

 村の有力者の一粒種。

 戸籍のない娘。

 不自然に豊かな集落。

 ”フチガミさん”。


 ひたひたと嫌な気配が忍び寄ってくるのを感じ、関口は今日何度目かの重い溜息をついた。

 伸ばしたばかりの眉間に再度皺が寄る。


 どうせ、あの男上司はこれを見越してこの仕事を命じたのだろうなあ、というところまで考えてしまい、関口は余計に不機嫌になった。

 あの策士のことだ。そうでもなければ、このどこもかしこも頭数の足りないクソ忙しい時に、急ぎでもない──少なくとも、現状最優先とは全く思えない──ひと昔前の出来事など追わせはすまい。

 思考が愚痴めいたほうにばかり偏りだす。


 もう、寝てしまおうか。


 おおむね、資料からわかることは調べ尽くした。

 先任のことにせよ、あの襤褸の娘のことにせよ、結局は源治の口を割らせなければどうにもならないこともわかりきっている。

 であれば、大事なのは明日に向けて鋭気を養うことだ。

 そうだ。そうに決まっている。


 寝てしまおう。

 それがいい。


 そう腹を決めると、少しばかり気分が晴れやかになった。

 寝転んだまま、ぐうっと伸びをする。

 その爪先が、図らずも文机を蹴った。


 微妙な均衡によって積み上がっていた書類の山が雪崩なだれを打つ。

 紙が舞った。


 寝入ろうとした矢先の悪夢のような出来事に、関口は思わず呻いた。

 重たい気分でどうにか身を起こし、散らばった資料を拾い集める。


 ふと、手が止まった。

 紙山の中に、持ち出した覚えのない資料が紛れ込んでいた。

 失踪の直前、先任が当たっていた案件の資料である。

 拾い上げてみると、ひらりと一枚、張り付いていた紙が剥がれおちる。

 指令書であった。


 ○ ○ ○



『 《みどろが淵》        記録地:阿賀茅あがち八蘇やそ

 収蔵分類:丙-ロ   管理:第 七〇五八七六 号


 阿賀茅村の八蘇の辺りに、かつて、貧しいが大変仲のよい兄弟があった。

 一際厳しい冬を迎えたある年のこと、貧しい彼らの蓄えは早々に底をつき、兄弟はひどくひもじい思いをしていた。

 空腹に耐えかねた弟は、兄が出稼ぎに出た隙に、食べ物を探しに禁じられた山へとひとり分け入った。

 村人の寄りつかぬ手つかずの沢に下りると、弟はあっという間に丸々と太った山女魚やまめを四ひきも釣り上げた。

 季節ではないにも関わらずあまりに魚が釣れるので、薄ら怖くなった弟は早々に釣りを切り上げ、四疋の山女魚を背負い、何食わぬ顔で家に戻った。


 これで今晩は、草臥くたびれて戻る兄にひもじい思いをさせずに済む。

 弟は、囲炉裏端いろりばたで山女魚を焼きながら、兄の帰りを待った。

 しかし、待てど暮らせど兄は戻らない。

 そうしている間にも、立派な山女魚はいい具合に焼き上がろうとしている。


 弟は、それでも兄が帰るまで、二人が揃うまでと口をつけるのをじっと我慢していたが、そのうち、ついに香ばしい匂いと空腹に負けてしまった。


 一口だけと串に手を伸ばし、焼けた山女魚を頬張ると、今まで一度も感じたことがないほどの美味が口いっぱいに広がる。あっという間に、一口は二口になり、二口は三口になり、三口はもっとになって、いつの間にやら弟はひとりで四串すべてを貪り尽くしていた。


 それでもなお飢餓感は収まらない。

 それどころか、臓腑はらわたが焼けるような心地すらしはじめる。

 弟は少しでも空腹を紛らわせようと、ふらふら沢までさまよい出た。

 水辺にたどり着くと、弟は水面に直接口をつけ、そのままがぶがぶと飲み始めた。


 飲んでも飲んでも、飢えは癒えない。

 むしろどんどんと乾いてゆくようにすら思える。

 弟は、ついには一晩水を飲み続けた。

 夜が明けたころ、ふと弟が水面を見ると、そこには一匹の大蛇が映っていた。


 いつの間にか、弟は蛇に変じていたのだった。


 恐れおののいた弟は川上へと逃げ、とある淵にひっそりと棲みついた。


 さて、家へと戻った兄はといえば、家に弟の姿がないのを知るや、取るものも取りあえず方々弟を探して回った。

 そのうち弟が蛇に変じたことを知ると、今度は高名な僧を頼って遠方を尋ね、弟を助けてくれるよう懇願した。


 兄が了承した高僧を伴って村に戻ると、まさに大蛇退治の算段が立てられているところであった。

 慌てて事情を問いただせば、村人はかくの如く語った。


 曰く、弟の変じた大蛇は、初めのころは大人しく淵に潜むだけであった。

 しかし近頃は里に下りては人々を脅かすようになっており、近隣の民はほとほと困り果てているのだという。


 兄は村人たちに一度だけ機会をくれるよう頼み込み、僧を連れて山を登った。

 山を越え、谷を越え、大蛇の潜む淵にたどり着くと、兄は大声で弟を呼んだ。


 返事はしばらく無かった。

 それでも辛抱強く待っていると、暗く澱んだ淵の底からぶくぶくとあぶくが上がり、大きな蛇がうっそりと姿を現した。


 兄にだけはこの悍ましい姿を見られたくなかった。

 だというのに、どうしてそっとしておいてくれなかったのか。

 どうか弟は死んだものと思って欲しい。

 今見たものは忘れて、二度と来ないでくれまいか。


 それに対して、兄は再び大声で返事をした。

 たった一人の弟を、どうして忘れられようか。

 どのような姿に変じようとも、おまえは血を分けた我が兄弟である。

 そんなことよりも、やさしいおまえがどうして人里を脅かすようなまねをするのか、理由を教えてはくれまいか。


 その言葉を聞くや、大蛇は激昂した。

 天地神明に誓って、おのれは人を襲ってなどおらぬ。

 確かに人恋しさに里近くまで下りたことはあったが、里には決して立ち入らなんだ。

 むしろ、こちらが何もせぬうちから石を投げ、竹槍で突いて追い出しにかかってきたのは村人どものほうである。

 そればかりか、近頃はこの淵に毒を投げ込む者まで出る始末。

 それで人里を脅かすとは笑止千万。

 よろしい、そちらがそのつもりであるならば、こちらも相応の用意はある。

 この瞋り、この恨み、如何に晴らしてくれようか。


 言うなり大蛇がしゅうしゅうと音を鳴らすと、空はにわかにかき曇り、雷が鳴り始めた。その弟の剣幕に、兄は恐れおののいた。


 それまでじっと二人の会話を聞いていた高僧は、その様子を見て一つしゃんと錫杖を鳴らし、よく通る声で経文を唱えはじめた。


 すると雷鳴はぴたりと止まり、黒々とした雨雲はあっという間に散り散りになる。神通力を破られた大蛇は更に怒り狂い、今度は直接僧を飲もうと口を開いたが、念仏がひときわ声高になると、のたうち回って苦しんだ。


 弟のあまりの苦しみようを見かねた兄が止めてくれるよう懇願すると、高僧はようやく読経を止め、大蛇を訥々とつとつと諭した。


 おまえの無念、寂しさは察するに余りある。

 しかし大の男の一抱えほどもある大蛇が里の近くに出るとなれば、里人が怯えるのも道理であろう。

 そも、おまえがその姿に変じた理由は禁を破ったことにある。

 故に、おまえがまず成すべきことは里人を恨むことではなく、背負った業のぶんだけ徳を積むことであろう。

 まずは里の禍となるのではなく、守りとなってやるがよい。

 己はおまえを人にもどしてやることはできないが、ふさわしいだけの善行を重ねた暁には、必ずや人への転生が叶うだろう。


 その言葉を黙って聞いていた大蛇は、屹度きっとその通りにいたします、と言って僧侶に頭を垂れた。それから、今度は兄に向き直ってこう言った。


 最早、現世で再び人の姿を見せることは叶いますまい。

 それだけが心残りではあるが、まだ心まで蛇に成り果てたつもりはない。

 かの僧の言うとおり、これからは徳を積むべく修行に入ろうと思う。

 里人にはそのように伝えて欲しい。

 そして、叶うならば、己のためにちいさな社を建て、形代を祀ってはくれまいか。


 無論だとも、と兄は二つ返事で了承した。

 兄弟は今生の別れを惜しんだのち、兄は村へととって返し、村人たちに事の経緯を子細に語って聞かせた。


 それから、弟の願い通り、大蛇の住む淵に社を建ててあつく祀った。

 以来、この淵の近隣では蛇に噛まれる者はおらず、旱魃や水害は途絶えたという。


 大蛇が住むというこの淵の名を、みどろが淵という。


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 現地調査指令書

 明冶三一年 第 四八号


 管理 第 七〇五八七六 号 ノ件


 タタリ堕チノ兆候強シ。明冶三十一年四月末日付デ収集分類ヲ 丙-ロ ヨリ 丙-ニ 二変更。調査ヲ命ズ。 』



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