第2話 支度

 十和子は、いったいどうしたのだろう。

 明らかにただごとではなかった。

 寝床として慣れ親しんだ、ほこり臭い納屋の天井を見上げ、名無しはぼんやりと物思いに耽っていた。


 日は薄闇うすやみに沈んでいる。

 雲の名を尋ねてみようか、などと考えていたことなど、もはや思考からすっかり抜け落ちていた。


 胸に抱えた小刀を撫でる。

 なんとはなしに躊躇ためらわれて抜いてみたことはないが、これが娘の唯一の所有物だった。

 合口拵えの、柄巻の糸はところどころほつれ、黒漆塗りの鞘にはいくつも傷が走っている。

 名無しの産着に、ともに包まれていたのだという守り刀。


 これまでどれほど心乱れた時であっても、この小刀を握りしめてさえいれば落ち着くことができた。

 だが、今は。


 ごろりと寝返りを打つ。

 今夜は中々寝付けそうにない。


 土間に直接敷き伸べたむしろに強く耳を押し付け、かたく目をつぶる。


 ふと、頭上で、かつかつ、と木を叩く音がした。

 閉じたばかりの目をひらき、音のした方を見上げる。


「十和子さま」


 明かりとりの格子窓から、白く険しい顔が覗いていた。

 月明かりに照らし出される頬は、常よりなお青白く映る。


「こんな時間に、いったい──」


 人差し指を唇にかざし、十和子はシッ、と鋭く言葉を制した。


「時間がないわ。今すぐ逃げなさい」

「逃げろって……どこへ?」


 名無しは納屋に繋がれているわけではない。

 閉じ込められている訳でもない。

 だが、名無しは他にゆくあてなどひとつも有りはしなかった。


「どこでもいいわ、に見つからない所よ。ほら、早く!」


 まごつく名無しに、十和子は声をひそめたままに急き立てる。

 だが、あいつとは誰だ。何から逃げろと言うのか。


「十和子さま、せめて訳を──」

「来た」


 十和子が苦々しげに歯噛みする。

 耳を澄ましてみれば、遠く荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた、

 音の間隔と重さから察するに、おそらくは大人の男。


 朝晩の食事を運ぶ下働きの女を除けば、屋敷の人間がこの納屋に近づくことはまずありえない。

 好きこのんで名無しに近づくのは十和子だけである。では、これは誰だ。


 わたわたと身を起こし、名無しは力ない手で小刀を握りしめた。

 心臓が早鐘を打つ。


「こっち、」


 窓からの短い呼び掛けに、名無しは再度振り向いた。

 すぐさま、格子の隙間から何が投げて寄越される。

 咄嗟とっさに受け取ったのは、手の内にすっぽり収まるような、小さく平たい何かだった。掌に吸い付くようにずしりと重い。


 恐る恐る手の内をひらいて見れば、それは金属製の小さな丸鏡であった。

 背面から縁にかけて絡まる彫刻の蛇が、青白い月の光でぬらりと光る。


「これ、」


 ──十和子さまの、大事な鏡では。


「あげるわ。せめて、お守りに持っていて」


 十和子が浮かべた笑みはどこかぎこちない。

 その顔も、次の瞬間には格子の向こうに引っ込んだ。

 なびいた髪が名無しの目の奥に儚い残像を残す。


 扉がわりのすだれがめくれる。


「おい」


 びくりと肩が震えた。

 宵闇に低く、男の胴間声が響く。

 逆光の中に男がひとり、立っている。


「起きろ。ついてこい」


 やぶにらみの三白眼が、ぎろりと名無しの姿を捉える。

 源治であった。


 ○ ○ ○


 背丈こそ並みより少し小さいものの、源治の固太りの体格は、その猪首と相まって一種どっしりとした迫力があった。のしのしと歩くその後ろ姿は小柄な熊にも似ている。


 一体、何が起きているのか。

 名無しは源治について歩きながらも困惑の極みにあった。


 十和子は逃げろという。

 何からか。多分、源治からだろう。

 では、源治は名無しをどこへ連れて行こうとしているのか。


 ──わからない。


 なにをさせようとしているのか。


 ──わからない。


 何もかも、状況が掴めない。

 今にして思えば、すべてはあの帝都の男の訪問から始まっている。

 十和子の動揺も、これを予期してのことだったのではないか。


 だが、すべては今更だった。

 十和子が恐れたなにかは既に動き出している。

 そのうえ、一体何が起ころうとしているのか、名無しはいまだ推測すらできていない。


 ○ ○ ○


 夜も更けようというのに、長者屋敷はにわかに活気づいていた。

 庭には数多篝火かがりびがたかれ、赤々と照らし出される敷地のそこかしこを、裾をからげたすきをかけた村の男たちが行き来している。


 その隙間を縫うようにして、名無しは源治のあとを追う。


 常と違うのはそればかりではなかった。

 視線だ。視線が、ああ。


 ──見られている。


 すれ違いざまに。物陰から。遠方から。


 普段は名無しのことなどちらとも見ない村人たちの、無数の視線が名無しの身に突き刺さる。哀れみとも、侮蔑とも、何ともつかぬ、色のない目。


 あからさまな凝視ではない。

 だが、確かにちらと投げて寄越される視線に、名無しは身を固くした。


 知らず知らず、手の内のものを握りしめる力が強くなる。

 抱きかかえるのは小刀と、それから十和子の鏡。

 咄嗟にふところに隠したそれを、名無しは再度、ぎゅっと押さえた。


 前を歩く音の足が止まる。


「上がれ」


 名無しは思わず、男の顔を振り仰いだ。

 源治が示しているのは長者屋敷の縁側である。


 名無しは物心ついてのち、屋敷の中にあがったことはない。

 それは、ずっと許されてこなかったことだ。

 無意識のうちに足がすくむ。本当に、上がれというのか。


 源治は無言で顎をしゃくった。

 恐る恐る、縁側に上がる。

 夜気に冷えた板張りの温度が、名無しの荒れた足裏にひたりと張り付いた。


 ○ ○ ○


 屋敷の内では、村の女たちが慌ただしく何かの支度をしていた。

 襖の向こうは、女たちのささめき声で満たされている。


 その合間を縫って、名無しがまず通されたのは風呂場であった。

 恰幅のよい中年女がひとり、浴場で待ち構えていた。


「脱ぎな」


 思わずここまで案内してきた男の姿を探す。

 いつの間にやら、源治の姿は見えなくなっていた。


「旦那様は支度が終わるまで戻ってこないよ。いいから大人しく洗われるんだね」


 どっしりとした腰に厚い掌を当て、女は唸った。


 ○ ○ ○


 そのあとは散々だった。


 取り上げられてはかなわないと、どうにか小刀(と、紛れ込ませた鏡と)を手元に置くことだけは勘弁してもらったが、あとは嵐に吹きさらされる葦のひと群れの如く、名無しはされるがままになるほかなかった。


 頭から水をかけられ、丸洗いされる。

 予告なく落ちてくる水はしょっちゅう跳ねて気道にに入り、名無しは幾度かむせた。ほとんど犬の洗い方と大差ない。

 それでも、わしわしと髪をほぐされ、耳の後ろから足指の間まで念入りに糸瓜へちまで擦り上げられれば、それなりにさっぱりとして心地よかった。


 ようやく風呂が終わったかと思えば、今度は複数の女たちの手によってよってたかって拭き上げられた。

 いくつもの手ぬぐいと女の手が名無しをもみくちゃにする。

 いつの間にか梳られていた髪をざっとまとめ上げられたかと思えば、今度は別室に引っ張り込まれる。


 そして、今。

 名無しは生まれて初めて化粧を施されていた。


 行燈の薄明かりが揺れる部屋の中に、女たちの吐息と衣擦れの音だけが満ちている。

 ぬるま湯で溶いた白粉の粉っぽい香りがぷんと漂い、生暖かく湿りを帯びた刷毛はけが顔の上を柔らかく滑る。

 こそばゆさに背を震わせれば、すぐに動くなと叱責が飛んだ。

 唇をきゅっと閉じ、身じろぎを耐える。


 脇では、白粉を乗せているのとは別の女が小筆に紅を溶いている。

 水を含ませた小筆が猪口ちょこの内側をなぞるたび、玉虫色がじわり、赤ににじんだ。

 不可思議な色の変化に目を奪われていると、横合いからぐいと顎を掴まれる。


 顔が天井を向く。

 目を閉じていろとの命令に、名無しは素直に従った。

 女たちに逆らってもいいことなど何もないということは、この短い間に嫌と言うほど学んだ。

 小筆が目のきわに紅を乗せてゆく。まずは左目。それから右目。

 最後に、唇。


 一通り仕上がったのか、しばらく顔は触るなと強く言い含められた上で、今度は着付けがはじまる。

 一度ぎゅうと帯を締め上げられた際には潰れた蛙のような声を上げてしまったが、女たちはまるで意に介さない。


 こちらを押されあちらを引かれ、名無しが息も絶え絶えになったころ、ようやくすべての身支度が終わった。


 しばらく待て、とだけ言いつけて、女たちは姿を消してゆく。

 打ち寄せた波が引くように、部屋には名無し一人が残された。


 近くに誰もいないのを十分確認してから、名無しはそろそろと小刀を手繰って 帯に差し、襤褸の下に隠していた鏡を取り出した。

 十和子がこれを投げて寄越した意味が、名無しにはわからない。

 裏に返し、表に返し、めつすがめつながめてみても、名無しには何の変哲もない鏡に見える。

 年頃の娘が持つには蛇の装飾は奇妙といえば奇妙だが、気になるところといえばそれぐらいだった。


 よく手入れのされた鏡面を覗き込む。

 そこには、白無垢を着た、見慣れぬ己が映り込んでいた。


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