大照妖異譚
おおひら なみ
1章 みどろが淵
第1話 名無し
大照四年、晩春。
梨の花の盛りをわずかに過ぎた頃。
紺碧の空の上を、眩いほどに白い雲が帆を立てた船の如くなめらかに渡ってゆく。
空には早くも夏の気配が滲んでいた。
──あの雲に、名はあるのだろうか。
刻々と形を変えるちぎれ雲を眺めながら、娘はふと、そんなことを考えた。
みすぼらしい娘だった。
ほっそりという形容詞をいささか通り過ぎたからだ、纏うのは
娘には、名前がない。
否。
あったのかもしれないが、知られることはなかった。
だから便宜上、娘は”名無し”と呼ばれている。
──十和子さまなら、知っているかな。
この村でたったひとり、まともに話しかけてくれる相手を思う。
こんど、こっそりとたずねてみようか。
けれど、ああ、あの雲の様子をなんと形容したものか。
空を眺めたまま、名無しは頭をひねった。
「あいた」
頭にがつんと衝撃が走った。視界に火花が散る。
少し遅れて、こらあ、という
こわごわ振り向けば、散り散りに走り去る子供たちの後ろ姿。
そして、それを追いまわす娘の姿がひとつ。
たぶん、村の悪童どもに小石でもぶつけられたのだろう。
そっと後頭部をまさぐってみたが、特に傷にはなっていないようだ。
そうしている間に一段落ついたのか、子供たちを追い回していた娘が駆け戻ってきた。
「怪我はない?」
掃き溜めに鶴とはこういうことを言うのだろう。
息を弾ませ、眉を
年の頃は十五、六。
名無しとさして変わらぬと見えるが、その
全体に小作りな顔だちの中で、猫の子めいた少し吊り気味の目が印象深い。
ふっくらとした頬は桃色に上気し、丁寧に梳られた髪はゆるく編んで肩口に流している。
さらりと羽織った小袖の物が良いのは誰の目にも明らかだった。
何もかもが煤けて埃を被ったかのような寒村にあって、この娘だけが鮮やかに映る。
十和子であった。
名無しは首を振る。
「本当に? 嘘じゃないわよね? 全くもう、あいつら本当にろくでもないったら!」
つんと唇をとがらせ、十和子は子供たちが逃げ去ったほうを睨みつける。
「あの……十和子さま。あまり声をあげると、源治さまに見つかってしまいます」
おずおずと、名無しが言った。
十和子は長者の娘である。
見方によっては名無しは乳姉妹のようなものだが、彼女の父源治は、娘が馬の骨に構うのにいい顔をしない。見とがめられれば、十和子は名無し共々叱りつけられる事となるだろう。
己がそうされる分には構わない。だが、それに十和子が巻き込まれるのは忍びない。
「大丈夫。いま、帝都からお客様が来ているのですって。だからあの人、今そっちにかかりきりなの」
ていと、と名無しは耳慣れぬ言葉を反復した。
華やかなりし都のにんげんが、こんな山奥の村に一体何の用があるというのだろう。
「気になるでしょう?」
大きな瞳を悪戯っぽく輝かせ、十和子はにんまりと笑んだ。
「気になるわよね? 気になるはずよ。帝都のひとって一体どんななのか。何をしに来たのか。ほらほらそうだって言って頂戴な。そうでしょう! だから私、客とやらが一体どんなひとなのか、こっそり覗いてやろうと思っているの。ね、付き合ってくれるわよね?」
確かに、気にならないといえば嘘になる。
名無しはためらいがちにひとつ、頷いた。
○ ○ ○
十五、六年ほど前のことだ。
村の長者屋敷の前に、赤子がひとり捨てられた。
山あいの寒村のことである。
身寄りの知れぬ赤子がひとり。
再び捨てるにはしのびなく、けれど養育するほどの余録はない。
結果、その子供は生きていても死んでいてもよいものとして、長者屋敷の片隅で野良犬のように育てられることとなった。
村にいるが、村の子ではない。
長の屋敷に住むが、長者の子ではない。
かくして、子供の存在は一種の不可触民と成り果てた。
その子供こそが名無しである。
──そういうことになっている。
○ ○ ○
客間の方からは、話し声だけが聞こえる。
「もめごとかしら」
穏やかでないのは確かだった。漏れ聞こえる声には圧がある。
そして、どうも後手に回っているのは長者のほうであるらしい。
しかし、名無しには話の内容なぞよりももっと気になることがあった。
「十和子さま、」
「……」
「……十和子、さま」
「もう! そんなに引っ張ってなんなの?」
再三袖を引かれた十和子が、声をひそめて名無しのほうに振り返る。
「あの……そんなに乗り出すと、見つかってしまいます……」
「そんなこと言ったって、ここじゃあ全然話が聞こえないじゃないの!」
二人が身を潜めたのは植え込みの影である。
屋敷から出てくる客人の姿を盗み見るにはよい位置だが、盗み聞きには些か遠い。
どうにか十和子を宥めようと、名無しが口を開いた。
そのときだった。
がらりと玄関の戸が引かれた。
「! しっ、伏せて」
慌てて身を低くする。
茂み越しにそっと様子を窺えば、男がふたり、屋敷から出てきたのが見えた。
ちびとのっぽの組み合わせである。
だが、ちびの方には見覚えがあった。麓の集落の駐在警官だ。
ならば帝都から来た客、というのはのっぽの方で間違いあるまい。
ぽつりと十和子が呟いた。
「軍人が、どうして……」
あれが
なるほど、と名無しは得心した。見上げんばかりの長躯であるが、恵まれたままにただ大きいのではなく、しっかりと鍛え上げているのはぴんと伸びた背を見ても明らかだ。
服装も見慣れぬものだった。
ぴったりとした黒服に身を包み、少し癖のある髪を短く刈り込んだ上に官帽を乗せている。
駐在の制服にも似たその装いは、村の中にあってはひどく異質であった。
知らず知らずのうちに、名無しは身を乗り出していた。
ふと、帝都の男が足を止めて振り返る。
──目が合った。
雷で打たれたかのような心地だった。
ただ視線が合ってしまった、それだけで、からだが射抜かれたかのように動かない。
──ずいぶん、おおきな口の男のひとだ。
真っ先に考えたのはそんな事だった。
振り返った男の顔は存外若い。年かさに見積もっても二十の半ば。
目付きは険しく、機嫌か悪いのか、はたまたもともとのつくりがそうであるのか、眉間には深い皺が刻まれている。そして、ぎゅっと引き結ばれた口の大きいこと!
ぱかりと開いたなら、名無しぐらいならばひとのみにできてしまいそうに思えた。
無論、それが錯覚にすぎないことは、名無しにもわかっている。
「ちょっと、逃げるわよ!」
袖を引かれて、名無しははっと我に返った。
わたわたと身をたてなおし、先に走り出した十和子の後を追う。
一度だけ振り返ったが、もう男はこちらを見てはいなかった。
○ ○ ○
ひとしきり走って、物陰に隠れる。
どちらも息は上がりきっていた。
「もう、見つかるなって言ってたあなたの方が見つかってどうするのよ」
「ご、ごめんなさ……」
「ああ、違うわ、違う。そうじゃないの。べつに、あなたが見つかったことを責めてる訳じゃなくて……」
喋りながらも、十和子の語調はどんどんと弱々しくなっていった。
眉尻が下がり、笑みは薄れ、──声はついにたち消えた。
「十和子さま」
うつむき、黙りこんでしまった十和子になんと声をかけるべきか、名無しには図りかねた。
十和子が何を感じているのか、名無しにはわからない。
わかるのは、なにかひどく動揺しているらしい、ということだけだ。
じっと、十和子を待つ。
「……ねえ。あのひと、お父様を捕まえに来たのかしら」
長い長い沈黙のあと、十和子はぽつりとこぼした。
十和子が、源治を父と呼ぶのは珍しい。
近頃はとみにその傾向が強かった。
「わかりません」
名無しにはほんとうにわからない。
捕まったらどうなるのだろう。
なぜ十和子はそれを恐れているのだろう。
どうして、彼は十和子の父を訪ねてきたのだろう。
わからないままに、名無しは必死で考える。
憔悴した十和子に、せめてなにか励ますような言葉をかけてやりたかった。
「ち、……駐在さんは、悪いことをしたひとを捕まえるお仕事のひとだと聞きました。軍人さんもそうなんですよね? じゃあ、悪いことをしていないなら、怖がらなくていいと思います」
十和子の目つきが変わった。
「──
皮肉と、
刃物のように鋭い光を返す眼は
「……、わかりません」
十和子の言う
だが、名無しには、十和子が己の父に対して見せる隔意の理由がわからない。
瞬間現れた悪鬼の表情は、水を垂らした砂糖の山のように呆気なく溶けて崩れた。
下から現れたのは、今にも泣き出しそうな子供の顔である。
「…………そう。そうよね。ごめんなさい。……わたし、もう戻るわ」
言うなり、十和子はふらふらと立ち上がった。
続いて、名無しも慌てて立ち上がる。
「少しひとりにしてちょうだい」
追おうとした足は、その一言で地面に張り付いてしまった。
とぼとぼと去ってゆく娘の背中を、名無しは長い間、立ち尽くしたままに見つめていた。
○ ○ ○
若い雌鹿のような娘がふたり、走り去ってゆく。
「……あれは誰だ?」
ふとこぼれた疑問に、小男が汗をふきふき振り返った。
目を細め、もう豆粒のようになった娘ふたりの背中をようやく確かめて、駐在は言った。
「ああ。ありゃあ源治さまンとこの子らですよ」
たったいま訪問したばかりの家の主人の名に、男は片眉を跳ね上げた。
「彼の家には子供は一人しかいないと聞いていましたが」
「ええ。お子さんは一人っきりですとも。あの小汚ないほうはただの養い子です。
知恵遅れだとかで、源治さまのところで預かってるンですよ。
世話するだけでも大変でしょうに、お優しい事ですよねえ」
心底からそう思っているのだろう。
のんびりと笑う駐在の表情に嘘はない。
「……そうですか」
「ええ。それで、関口さんはこのあとどうされるので?」
そう尋ねる駐在は相変わらず気の良さそうな笑みを浮かべている。
だが、小男の下から窺うような目付きは、これ以上の面倒事はごめんだと雄弁に物語っていた。
この地に赴任している身だ。土地の有力者と揉め事を起こしたくないのだろう。
「しばらく世話になります」
穏便にすませてくれという言外の要求を、関口と呼ばれた男は、同じく言外に突っぱねた。
そうですかあ、と小男がまた汗をふく。
この様子では、積極的な協力は望めまい。
せいぜい、邪魔をされなければ御の字といったところだ。
厄介なことになりそうだった。男とて、厄介事は好きではない。
だが、ちょっとした厄介事がたいした厄介事になる前に解決すること、それこそが、帝都から来た軍装の男、関口の仕事なのだった。
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