第6話 山狩り

 

 少年の言葉に、名無しは目を瞬かせた。


「フチガミさま」

『うむ』


 鷹揚おうように少年が応える。


 名無しはしばし考え込んだ。

 フチガミさまというのは、確か蛇の神なのではなかったか。

 では、目の前のこの少年は、実は蛇だというのだろうか。


 正面のヒトガタをまじまじと観察する。

 見たところの年齢は名無しと同じか、少し幼いぐらいであろうか。

 その輪郭には、子供と青年の間に特有の、性別の曖昧な柔らかさがある。

 身に纏うのは簡素な白衣である。立て膝に座した恰好で拘束されているが故に、その裾を割って、まばゆいほどに白い腿が露わになっていた。


 どこかに鱗の一枚でも生えているものかと思ったが、それらしいところはどこにもない。

 ただ、ヒトのカタチではあれどヒトではないことだけはありありとわかった。


「では、その。淵神さまは、どうしてそのように囚われておいでなのですか」

『うん、それなのだ』


 我が意を得たりとばかりに、少年は身じろいだ。

 黒縄の拘束がきしみをあげ、瓔珞ようらくを揺らしてしゃらしゃらと涼やかな音が鳴る。


『娘や。おまえ、おれの形代を持っているだろう』

「かたしろ、」


 意味を理解せぬまま、名無しは言葉を反復した。


さ』


 はっとして、名無しは懐に手をあてた。

 果たして、そこには十和子から貰った鏡がある。

 その背面には確か、蛇の彫刻が施されていたはずだ。


『それはな。わが神体、わが憑坐よりましとしてながく社に祀られていた鏡なのだ』


 目を塞がれているはずの少年は、まるでそれとは思わせぬ口ぶりで言葉を続ける。


『この世ならざる者が現世で十分に力をふるおうと思えば、まず現世のものを介する必要がある。

 こうしておまえが溺れる前に引き上げることができたのも、おまえがそれを持っていたからよ。

 だが、それは少し前にわが社から持ち去られてしまっていたものでなあ。

 困り果てておるうちに誰ぞに縛り上げられてしもうて、このざまよ』


 言って、少年は肩をすくめた。

 しゃりり、とまた、どこかで鈴の音が鳴る。


 社のご神体を盗み出す。神を拘束する。

 それが大層な罰当たりであることは、名無しにもわかる。


 しかし、それをして一体誰になんの得があるのだろう。

 娘の素朴な疑問は、そのまま口に出た。


「誰がそんなことを?」

『さて』


 かすかに苦いものをふくんだ声で、少年は言った。


『おれは自身の転生祈願のため衆生安堵の誓願をたて、周辺の民に加護を与えておった。八蘇の子らが俺を祀っておったのはそのためよ。

 しかし、それがついに満願成就と相成る故、おれはこの淵を離れなければならなくなった』


 テンセイキガン。マンガンジョウジュ。

 突然小難しい言葉を並べ立てられ、名無しは目を白黒させた。

 わからぬなりに、どうにか意味をかみ砕こうと必死で頭を働かせる。


 つまり、少年には何か叶えたい願いがあり、その願いを叶えるために、これまで村人を手助けしていたということだろうか?

 そして、その願いごとがもうすぐ叶うことになったので、この土地を去らなければならなくなった、と。


 あまり自信はないが、おそらくはそういう理解で間違いではなかろう、と名無しはふんだ。


『挨拶のひとつもなしに去るのはあまりに情がなかろうと思うて、そのよし氏子総代に伝えたのだが、残ってくれと懇願されてなあ。断った翌日には、鏡はのうなっておったわ』


 そう語る少年の口許に滲むのは自嘲であろうか。


 かれは確とは口にしなかったが、名無しの知る限り、“淵神さん”の氏子総代を務めるのは代々十和子の家である。

 さらに鏡を持っていたのが十和子であることを勘案すれば、下手人の候補は自ずと絞られるように思えた。


 逃げろ、という十和子の警告を思い出す。


 裏切りを受けた蛇神の、怒りを鎮めるための贄。

 つまるところ、己に望まれたのはその役であったのだろう。


 あらためて、名無しは目の前の少年を見た。

 見てとれるのは怒りよりもむしろ落胆である。


 ほう、とひとつ、少年が息をこぼす。


『ながく見守ってきた里のことよ。無論愛着もないではない。

 居てくれと乞われれば応えてやりたくもなる。だが──。

 だが、これはおれの悲願だったのだ』


 寂しげな口ぶりに、名無しの口からは自然と言葉がついて出た。


「わたし、どうすればいいですか」


 ゆるりとした所作で、少年は名無しに向き直った。


『この戒めを解き、鏡を返してくれまいか。

 さすれば、おまえを無事に返すと約束しよう』


 厳かな宣誓であった。

 名無しの懐の裡で、今度は確と蛇がのたうった。


 ○ ○ ○


 やにの燃える匂いが鼻をつく。どこかで松明が爆ぜる音がする。

 その方角に目をやれば、山肌にぱらぱらと火が点っていた。

 遠く、おうい、おういと誰かを呼ばう声がする。


 どうやら何者かが山狩りをしているようだ、と関口は気付いた。

 藪の中を疾駆していた足を止め、耳をすます。


 遠く、呼ばれているのは十和子の名だ。間違いない。

 八蘇の村人が、十和子を探している。

 やはり面倒なことになった、と関口は独り言ちた。


 関口の職分から言えば、向かうべきはまずみどろが淵である。

 十和子の言に偽りなければ、例の娘の置かれている状況は一刻を争う。

 仮に間に合わぬとしても、証拠の保全もかねて状況をできるだけ早く確認する必要がある。


 かといって、山狩りを放置するのもまた難しかった。

 事の真偽が確認できていない今、告発者である十和子を村人たちに引き渡す訳にはゆかぬ。

 今は山側を探しているようだが、そのうち麓に下りる者も出てくるだろう。

 十和子が連れ戻されぬよう、彼らを説得し、村に押し留めておかねばならない。


 苛立ち紛れに頭をかきむしる。

 現状、何もかもが後手に回っていた。


 いちばんの問題は、事態が関口ひとりの手には負えなくなりつつあることだ。

 緊急の報は飛ばしたが、距離と余剰人員を考えれば応援はまず期待できない。

 となれば、これ以上事が大きくなる前に、根を叩くより他はあるまい。


 逡巡しゅんじゅんは短かった。

 さっときびすを返す。関口は、自分からいちばん近い明かりに足を向けた。


 ○ ○ ○


「なァ、どう思う」

「何がだよ」

「十和子お嬢様さ」


 がさがさと藪をかき分ける年長の相方に、松明を掲げた男はささやいた。


「十和子お嬢様が何だよ。今探してるだろうが」


 藪を探す男は、そう答えながらも手を止めない。

 時折、おうい、と声を張り上げるのも忘れてはいなかった。

 相方の気のない返事に、明かり役の男は焦れた声で言った。


「フチガミさんなんじゃねえのか」


 ギョッとした顔で男が振り返った。

 強ばった顔には畏れの表情が滲む。


「やっぱり、フチガミさんに連れてかれちまったんじゃあねえのかな」

「ばかいえ」


 吐き捨てるような返事に、松明の男はムッとして言い返した。


「じゃああんた、ほんとにそんなことはねえって言い切れンのか?」

「……そりゃあ、」


 男はもごもごと言葉尻を濁す。

 なんとも言えぬ嫌な空気が漂った、その時だった。


「もし」

「ひえっ」


 闇からぬっと現れた姿に、松明を掲げた男が悲鳴を上げて飛び上がった。

 側の相方が振り向いて、背の高い洋装の男を認める。関口であった。


「あ、ああ、吃驚びっくりした、帝都のお方じゃありませんか。

 てっきり山犬でも出たものかと思いましたよ」


 大仰に胸をなで下ろす若人に対して、もう一人は不審げなそぶりである。

 口にこそ出さねど、目つきは訝しげなものを見るそれであった。

 だが、それを気にしている余裕は関口にはない。


「それは失礼。

 ところで、急ぎひとつお尋ねしたい」

「なんでございましょう」


 恐る恐るといった体で、村人たちは伺いを立てた。

 馴染みはないが粗末に扱う訳にもゆかぬ立場の相手に物怖じしている様子である。


「源治殿はどこに」

「ああ、そうです!」


 松明持ちはぽんと手を打ち、大声で叫んだ。


「聞いて下さいまし、実は十和子お嬢さんがふいと姿を消しちまいまして!

 川にでも落ちたんじゃアねえかってんで村中大騒ぎになってるんですわ。

 源治さまもひどく心配されて、みどろが淵までご自分で探しにゆかれる始末でして……」

「みどろが淵」


 早口にまくし立てる男の言葉から、関口は必要なところだけを拾い上げる。


「お客人、どんな些細なことでも構いません。お嬢様の行方について、何かご存じじゃあございませんか」

「お嬢さんなら、麓の駐在所で保護しています。少し怪我はされていますが無事ですよ」

「なんですって」


 男たちが目を見開いた。


「そいつは朗報だ、すぐに迎えを……!」

「いいえ」


 浮き足立つ村人ふたりを、関口は言葉で押しとどめた。


「お嬢さんの証言から、源治殿に二三話を聞く必要がでてきました。

 確認が取れるまで、お嬢さんへの接触は何人たりとも許可できません。

 こちらから連絡があるまで、八蘇の者は皆、各家で待機するように。

 山狩りに参加されている他の方々にもそのようにお伝えいただきたい」


 男たちの顔つきが強ばる。


「で、ですが」

「反した場合は公務への妨害と見なします。重く罪に問われる旨、承知されたい」


 よろしいか、と重ねて念押しする。

 有無を言わせぬ口ぶりに、男たちは気圧された様子で頷いた。


「それでは」


 踵を返す。

 慌てて、年若のほうが問うた。


「いッ、一体どこへ行かれるので?」

「みどろが淵へ」


 短く答えるなり、関口は再び藪の中へと姿を消した。

 あとには村の男がふたり、取り残されるばかりである。


「……とにかく、皆に伝えるか。行こう」

「あァ、……まあ、そうだな」


 生返事であった。

 合流しようと促す松明持ちを尻目に、年配の男はじっと、関口の消えた藪を見つめている。


「どうしたんだよ。何か気になることでもあるのか? 

 そりゃあ、お沙汰が下るまで大人しくしてろっていうのはどうにも穏やかじゃあねえけどよ、少なくともお嬢様がご無事だってのが判ったのは僥倖じゃねえか」

「……そうじゃあねえよ」

「じゃあ何だよ」


 聞き咎める者もないというのに、男は低く、声を潜めて言った。


「……。あのお人、藪から出てきたがな。

 、どうやってここまで来たんだ?」

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