紅の皇子は祈る。 10



 日が変わって――。

 紅晶が朱衣の部屋を訪れると、朱衣が丁度書庫から出てきたところだった。

 

「あら、おはよう紅晶」


 柔らかくて血色のいい赤みのある頬。唇は艶のある薄い薔薇色。

 元気そうな朱衣がそこにいて、胸を撫で下ろす。

 あの日、朱衣は見たこともない顔色をしていて、冷たくて、今にも死んでしまうのではないかと思った。

 あのとき感じた絶望も、全て夢幻ゆめまぼろしだったかのように、笑顔の朱衣が駆け寄ってくる。

「おはよう、朱衣。あれ、夜伽は?」

 朝とは言え、もう昼時に近い。

 いつもであれば、夜伽が白麗の部屋から飛び出して、朱衣の元へと来るのに、姿が見えない。

「まだ白麗の部屋に居るみたい」


 ――これは、僥倖だ。 


 紅晶は朱衣の腕を引き寄せて抱き締めると肩口に顎を乗せた。柔らかくて、さっきまで焚いていたのか、朱衣の好きな香の慎ましやかな花の香りがして落ち着く。

「紅晶?」

「ねぇ、朱衣。すこしだけ、俺の懺悔に付き合ってくれない?」

 懺悔という言葉に、朱衣は神妙な面持ちで頷いた。

「いいよ。お茶を淹れるね」

 朱衣と小さな簡易のつくえを囲いながら、紅晶は淹れてもらったお茶を口にした。梅の塩漬けの入ったお茶は、ほんの少しの塩気と柔らかな梅の香りがして、口の中で華やかに広がる。

 東の国から輸入してきたものだろうか。華羅国の梅はまだ蕾のままだ。

「美味しい」

「それはよかった」

「……朱衣。俺さ、今まで関係持ってきた人に謝ってきたんだ。三十四人。名前も教えて貰ってさ」

 朱衣は二度目を瞬きさせて、微笑んだ。

「そっか。大変だったんだね」

「うん。俺、すんごい頑張ったんだよね。自分で撒いた種とはいえさ、少し疲れちゃってさ」

 紅晶は卓に寄りかかるようにうつ伏せると、朱衣の顔を見上げた。

「ねぇ、ご褒美頂戴よ。これから頑張る俺の為にも」

「いいけど、なにが欲しいの?」

「朱衣が欲しい」

 悪戯っぽく笑いながら、紅晶は上目遣いに朱衣に尋ねる。

「もう、またそんなこと言って」

「嘘は言ってないよ。でも、本気で言ったら朱衣が困るでしょう」

 すでに朱衣は頬を赤らめて、俯いてしまっている。

 紅晶は起き上がると、身を乗り出して朱衣の耳許で囁いた。


「ご褒美、くれるんでしょう?」


 いいと言ってしまったことを後悔しつつ、朱衣は小さく頷いた。

「じゃあ――」




 朱衣に寝台に腰掛けてもらうと、その膝に紅晶は頭を乗せて、朱衣に背を向ける形で横になった。

「これでいいの?」

「え、もっと欲張ってもよかった?」

「そんなことは言ってないけど……」

 無機質な枕とは違う、温もりのある柔らかさに、紅晶は目を細める。今だけは朱衣を独り占め出来ていると思うと、心が震える。

 朱衣の指先が紅晶の髪を撫でると、紅晶は体を強張らせた。

 微かに耳が赤く染まっている気がする。

 いつも朱衣の余裕を無くすくらい甘い言葉を囁くくせに、紅晶は自身が優しくされることに不慣れだ。

「紅晶、子供の頃もわたしのこと探してくれたことがあったでしょう?」

「え? ああ……」

 朱衣と碧英がかくれんぼしていて、いなくなってしまった朱衣を、朱夏、碧英、紅晶の三人で探したときのことだろう。

 今回、幽閉をされた朱衣を探す前にも、あのかくれんぼしたときの夢を見た。神仏からの夢告ゆめつげだったのかもしれないな、と紅晶は笑う。

「お父さんから何度も聞いてたんだ。紅晶は冷静にわたしを探してくれたって。いつも、探してくれて、見つけてくれてありがとうね。紅晶がいなかったら、わたしどうなっていたか」

 寒い部屋に閉じ込められていた朱衣。

 あのままいれば、命も危なかったかもしれない。


「当然だろ。どんな所にいても、朱衣のことは見つけ出すよ」


 自信満々に語る紅晶に、朱衣は小さく笑って、また紅晶の髪を撫でた。

 指先が触れる度に心地よくて、久しぶりの穏やかな時間に微睡まどろむ。

「俺はさ、朱衣を守りたいって思っていたんだ。その為になら、自分を犠牲にしてもいいって。

 でもさ、結局俺が犠牲にしていたのは俺だけじゃなくて、周りも巻き込んでいたって気付いた」

 朱衣の視線からでは紅晶の表情が読み取れない。

 けれど、紅晶は決して悲嘆に暮れているわけではないと感じる。

 朱衣は否定も、先を促すこともせずに、ただ聞き漏らさないように耳をそばだてて頷いていた。

「だから、謝ってきたんだ。馬鹿だろ。この年齢としになって過ちを犯して、謝罪して回るって」

 朱衣は両手で紅晶の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

 驚いた紅晶が頭を上げて、朱衣の顔を見る。

 朱衣は今にも泣きそうな目をしながら、笑顔を浮かべていた。

「そんなことないよ、紅晶。紅晶は、間違っていたことに気付いて正そうとしたんでしょう?

 それを馬鹿にする人は心のない人だわ」

「朱衣……」

「お父さんもきっと喜んでいると思う。紅晶のこと、とても心配していたから」

「朱衣がそう言ってくれるってことは、きっと朱夏先生もそう言ってくれるんだろうな」

 紅晶はそのまま体を起こすと、朱衣を押し倒した。


「そうだ、もう一つ決意したことがあるんだけれど」


 朱衣は急に変わった視界に目を丸くしている。

 紅晶の肩越しに天井が見える。

 今まで見たことのない角度で紅晶を見上げていて、そのつややかな双眸に針で留められてしまったかのように動けない。

「俺、もういい子ぶって我慢するの辞めるから」

「え?」

「ねぇ、朱衣。なんで俺のあげたべに、塗ってくれないの? 塗って欲しいってことなら、喜んで塗ってあげるけど?」

「ね、ねえ、紅晶?」

「知ってる? 紅をあげるってことは、ここに返してってことなんだってさ」

 とん、と紅晶が自分の唇を指さす。

 朱衣の頬が一気に赤に染まった。

「え? ええ?」

 紅晶の綺麗な顔が、ゆっくりと降りてくる。

 夜伽や碧英とは違って、抜け出す隙を与えてくれない。

 蜘蛛の巣に絡められた蝶のように、このまま口付けてしまえば抜け出せないのではないか。

 そんな恐れで、背が冷たくなる。


「こ、紅晶っ」


 朱衣が声を掛けると同時に、紅晶と朱衣の僅かな隙間に白い手が差し込まれた。

 手の先を辿っていく。青いパオ、陶磁器のような白い肌。涼やかな笑顔。

「白麗……?」

「朱衣に何をしているんだ、紅晶」

「これはこれは、白麗兄皇子にいさん。二人で愛を語り合っていたところなのですが」

 白麗の威圧感に気圧されることもなく、紅晶は満面の笑顔を浮かべた。

 その笑顔には一切の邪気もない。


「まったく、油断も隙もない」


 紅晶の後ろ襟を掴むと、白麗は朱衣から紅晶を引き離すようにして連れていく。

「すまない、朱衣。これは連れて行くから安心してくれ」

「ちょっと、兄皇子にいさん放してくださいよ」

 騒がしく出て行く二人に、胸を撫で下ろす。

 紅晶に、あんな風に触れられるなんて思ってもみなかった。

 朱衣は未だ高鳴っている胸に手を当てた。


 ――俺、もういい子ぶって我慢するの辞めるから。


 紅晶は一体、どういう気持ちで言っていたのだろうか。

 朱衣は頭を抱えて、唸り続けた。





  


 


 


 

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