紅の皇子は祈る。 8
食堂から北西の方へと進んでいくと、未婚の女中達の住まう二階建ての寮があった。
家庭を持たない女中、侍女達にはそれぞれに部屋が与えられて、住むことを赦されている。
北東には、同じような造りで侍従や兵士達、男性が住んでいる寮がある。
あちこちから
――確かに、ここは盲点だったな。
白麗たちも、ここは未だ探していないことだろう。この顛末を聞いたらどんな表情をするだろうか。
「こちらです」
一階の中程、柑惺の示した先に、扉に御札が貼られている部屋があった。
「これは……」
「魔除けの呪符でございますなぁ」
鴎茶が立派な髭を撫でながら答えた。
「魔除け?」
なるほど、夜伽は妖だ。この呪符のせいで、朱衣の気配を探れないようになっていたのだろう。
夜伽のことを知っている人物、ということだろうか。
一つ一つ答えを知るほどに、もっと早く朱衣を見つけ出してあげられただろうに、と落胆しそうになる。
「恐らく以前住んでいらっしゃった方の物でございます。今はこの部屋には誰も使っていません」
柑惺が持っていた鍵で扉を開けると、人の使っていない、寂れた部屋特有のほこりと黴の臭いがした。
壁の至るところに、扉に貼られていたものと同じ呪符が貼られている。
六畳ある部屋の隅で、朱衣は体を丸めて眠っていた。
「朱衣!」
紅晶が急いで朱衣の体を抱き起こすと、薄らと目蓋が開かれた。
「こう……しょう……?」
月明かりだけで照らされた部屋の中。空気は冷たく、朱衣の体もすっかり冷え切ってしまっている。
自分の過ちのせいだ。
上衣を脱いで、朱衣の体を包んでやる。血の気を失った青白い肌、菫色に染まった唇。
紅晶の瞳から落ちてきた涙が、雨のようにして朱衣に降り注ぐ。
「ごめん、朱衣。……ごめん」
紅晶は嗚咽を堪えながら、朱衣に何度も謝罪の言葉を囁く。
喉の奥から搾り出すような声が、その苦しさを如実に感じさせた。
朱衣の冷たい指先が、紅晶の涙の痕を伝っていく。
「紅晶、わたしは大丈夫よ。だから、泣かないで」
朱衣の細く途切れ途切れの声を聞きながら、紅晶は小柄な体を抱き締めた。
生きていてよかった。こうしてまた会えてよかった。
涙が次々と流れ、紅晶は人目を憚らずにしゃくり上げた。
「……本当に、申し訳ございませんでした」
背後で、柑惺が叩頭しているのを横目で見た。
紅晶が彼女を傷付けたことと、朱衣を巻き込んだのは別の問題で、柑惺のしたことは到底許せるものではない。
「追って沙汰を
「へい」
鴎茶が出て行ったのを見て、紅晶も朱衣を抱き上げた。
そして、揺らさないように慎重に足を運びながら、叩頭している柑惺の横を抜けて部屋を一歩踏み出た。
部屋を出て間もなく、朱い大きな鳥が眼前を飛んできて、紅晶は蹈鞴を踏んだ。朱衣をしっかりと抱えて、避けようと身を屈めると、頭上で羽ばたく音がして遠ざかる。
紅晶は恐る恐る振り向いた。
「朱衣!」
勢い余って二部屋先で滑り降りた夜伽は、人の形に戻るなり、体を翻して、紅晶の腕にいる朱衣を奪おうとする。
「夜伽っ」
「……返せ」
声は地を這うように低く、夜伽の表情は餓えた獣のようで、紅晶の背を震わせた。
けれど、今この腕の中にいる瀕死の朱衣を渡す訳にはいかない。
紅晶は丹田に力を入れて、朱衣の顔を見た。
青白く、紅晶に力なく寄りかかる朱衣。
急がなくてはならない。
「朱衣は渡さない」
はっきりそう言い放つと、夜伽の表情は増々険しくなった。
夜伽の奥歯が耳障りな音を立てる。
黄金の目が月が照らす薄明かりの中で、
紅晶は、寺院に置かれていた阿修羅の像を思い出した。鎧を纏い、憤怒の表情で凛と立つ立像。
一緒に華札をしていた夜伽の姿はそこにはない。
殺される、とさえ思った。
「僕の
夜伽は大きく一歩踏み込んで来た。
右腕を引いていて、鋭い爪が煌くのが見える。
紅晶は、朱衣に被害が及ばないように祈りながら背筋を正した。
もう自分を犠牲にして、朱衣を守ろうとしようとは思わない。
同じ過ちはしたくない。
そして、夜伽に自分と同じように朱衣を想う気持ちがあるのなら、思いとどまってくれると信じて――
夜伽が近付く。互いの顔が、瞳に映る。
夜伽の刃物のような鋭利な爪は、紅晶の喉を切り裂く寸前で動きを止めた。
黄金の瞳に、僅かに動揺が見える。
「このままじゃ朱衣が本当に死んでしまう。頼む、夜伽。道を開けてくれ」
朱の長い髪に覆われて、夜伽の表情は読み取れない。
けれど、是ということなのだろう。
紅晶は夜伽の横を抜けて、朱衣の部屋へ急ぐ。
後ろを追いかけてくる気配があった。
朱衣の部屋に着くと、先回りしていた鴎茶と医生の
朱衣は寒いのか、紅晶の腕の中でしきりに体を震わせている。
「こちらへ」
優しく寝台に寝かせると、真っ先に夜伽が眠る朱衣の顔を覗き込んだ。白麗と碧英は、邪魔にならないように遠目に見守っている。
「朱衣……」
いつも果実のように赤みの差した頬は青白く、唇は紫に染まっている。呼吸は浅くて荒い。
「朱衣殿、こちらをゆっくり飲めますか」
菫凛が朱衣の背を支えて、茜彗が温かい薬湯を入れた椀を朱衣の口許に運ぶ。とろみがあるせいで飲みにくそうであるが、朱衣は少しずつ口に含んでいった。
それから、菫凜が動物の胃袋で作られた水袋にお湯を入れたものを、朱衣の身体に触れないように、周りへ置いていく。
椀の薬湯を飲み終わって、朱衣の身体を横たえると、茜彗が布団を掛けてやった。
皇子達が寝台の周りへと集まると、茜彗は菫凜と共に部屋の隅で薬を調合し始めた。
しばらくして、茜彗は菫凜の手を借りて重い腰を上げた。
「あとは、ゆっくり休めば大丈夫でございましょう。一応、菫凜を置いていきますから、皆々様ご心配なさらず」
茜彗は穏やかに笑うと、部屋を出て行った。
間もなくして、朱衣の寝息が聞こえてきて、寝台を囲んでいた面々はほっと息を吐いた。
体温が上がってきたのか、少しずつ元々の朱衣の肌色に戻ってきている。
「よかった」
最初に声を漏らしたのは碧英だった。
それぞれ緊張が解けて、安堵の表情が浮かぶ。
そんな中、一人険しい表情のままの人物が居た。
「……犯人は」
白麗の冷たい声が、弛んだ空気に緊張感を落とす。
白麗に委ねてしまえば、柑惺は重い罪に処されることになるだろう。
「白麗
「……紅晶。犯人は朱衣の命を奪おうとしていたんだぞ」
「それはないと思われます」
「何故そう言い切れる」
「
紅晶は
そして白麗に向かって深々と頭を下げた。
「お願い致します。全ての責任は俺が取ります」
白麗は一つ溜息を溢して、「紅晶に任す」と告げた。
そのまま五人は朱衣の様子を見守りながら朝を迎え、朱衣が目覚めるのを、ただ静かに待ち続けた。
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