紅の皇子は祈る。 7

「なんだよ、碧英」


 いつの間にか長椅子で眠ってしまっていた紅晶は、不機嫌そうに頭を掻きながら身を起こした。


 ――俺、いつから寝てたんだ?


 体が古い木材のように音を立てて軋む。労わりつつゆっくり伸ばしていると、碧英が肩を掴んで乱暴に揺さぶった。

「おい、やめろよ」

「朱衣がいなくなったんだよ!」

「え?」

 先ほどまで見ていた夢のこともあって、紅晶は取り乱すことなく碧英の話に耳を傾けた。

「……どこを探してもいないんだ。夜伽も気配を感じられないって言ってる。白麗兄皇子アニキも侍従とか下働きを使って探してるけど、どこにもいない」

「いつからいないんだ」

「夜伽が言うには、朝餉に出て行ったきりだって」

 窓の外はすでにとっぷりと日が暮れて、月がそらを泳いでいる。

 夜伽は以前、朱衣と碧英が皇宮から出て行った際に、特別な何かを感じ取って、迷うことなく彼らを見つけ出した。

 その夜伽が気配を辿れないと言っているということは、一体――。


「閉じ込められている、のか……?」


 それも気配すら隠してしまうようなところ、に。


 皇宮の外に出た、ということは考え難い。朱衣が皇宮の外に出れば、夜伽がいち早く察知するはずだ。

 仮に夜伽に気付かれないようにして連れ出すとしたら、朱衣を入れられる程の入れ物を用意せねばならず、そこまでして運び出すとしたら門兵に不審がられるだろう。


 皇宮内には厚い壁や扉で覆われた部屋がいくつもある。夜伽から朱衣を隠すことも可能かもしれない。

 そして中には、紅晶達皇子すら立ち入りを禁じられているところもある。

 ただ、その辺りは白麗が今頃手を回して調べてくれていることだろうと思う。


 碧英が紅晶の元に来たということは、今回の朱衣の失踪の原因についての手がかりを欲しているからに違いない。

 つまり、普通に探していたのでは見付からないのではないか、と白麗は考えたのだろう。


「生憎、場所はわからないよ。けれど、そうだな……心当たりはある」


 長椅子の前のテーブルに置かれた茶器。茶杯に残るお茶から漂う甘い香り。

 紅晶が長椅子から立ち上がり、上衣うわぎを羽織って部屋を出ようとすると、

「紅晶兄皇子アニキ、俺も一緒に行く」

 と、碧英が後ろを付いてきた。

「碧英、白麗兄皇子にいさんにも伝えてくれ。必ず朱衣を無事に連れて部屋に戻るから、捜索をせずに待っていて欲しいと」

「でもっ!」


「碧英の言いたいことはわかる。だが、追い詰めると本当に何をしだすかわからない。朱衣を守るためだ。


 頼むよ、碧英」


 いつもつややかな紅晶の流し目は、今は清流のように澄んでいて、瞳の奥に強い意志を感じる。

 碧英は、頷いた。

 ――きっと、紅晶兄皇子なら連れ戻してくれる。



 

 

 皇、皇妃、皇子達は、いくつもの袍・襦裙ふくを所持している。

 それも儀礼に始まり、政治に纏わる仕事のとき、日常使いまで含めると膨大な数だ。

 よく着るものもあれば、一度着たきりのものもある。そして、中にはいつ着るときが来るかわからないものも。

 常に着られるように、衣裳は針を扱う女中達によって、ほつれや汚れのない綺麗な状態にされてから、保管され、必要であれば新しい衣裳も繕ってもらう。


 室内には十人程、縫製に勤しんでいる女中達がいた。次の神事に向けて、新しい衣裳を作っているところだろう。

 紅晶は声も掛けずに扉を開けて、中の女中の顔を見渡した。

 突然の皇子の訪問に、女中達は慌てて、拱手をして頭を垂れる。

 その中で一人、拱手をせずに目を逸らす女中が居た。紅晶が無下に同衾を断ったあの女中だった。


「仕事中にすまない。少し、彼女を貸して頂けるかな」

 

 女中は特に嫌がることもなく、紅晶の後に続いた。

 




 後ろに付いてくる女中の気配を感じながら、紅晶は朱夏の言っていたことを思い出していた。


 ――全て人の認識だからね。枠から外すことが出来るように、枠に戻すことも出来るんだよ。


 朱夏は、幼い紅晶に人との付き合い方を教えてくれた。

 いつからか他人という枠から、朱衣や朱夏が外れたように、関係を築いて、他人という枠から外すことも出来れば、関係を壊し、他人という枠に戻すことも出来る。

 紅晶は、朱衣の為と思いながら、様々な思惑を受け止めていたつもりでいた。

 全て、朱衣の為だと思っていたから。

 けれど、そこにあったのは、虚しさだけだった。

 誰かを守るために、自分を犠牲にする方法を選んだつもりでいた。

 けれど、それに傷付いたのは自分だけではなかったのだと思い知った。

 朱衣や母親、白麗や碧英にだって嫌な思いをさせていたかもしれない。



 夕餉の時間も過ぎて、人気の少ない食堂の前で歩みを止めた。

 振り返ると、顔に血の気のない女中が、下唇を噛み締めてこちらを睨み上げてくる。彼女の美しさに険しさが加わって、さながら鬼と対峙しているようだ。

「あの小娘のことでございましょう?」

「いや、違う」

 女中は、目を見開いて驚いていた。

 紅晶は、てっきり彼女のことを問い質しにくるだろうと思っていたからだ。

 すると、紅晶は腰を折り、深く頭を下げた。

「え……?」

 皇族が、一介の女中に頭を下げるなどと聞いたことがない。女中が動揺しているを感じる。

「……ごめんなさい」

「紅晶様」

「失礼なことを言って、君を追い出してしまったこと。本当に申し訳なく思っている。

 ……君に謝罪もせずに、朱衣の居場所を訊くのは違うと思った」

 女中は長い睫毛の下から、はらはらと涙を零す。

 噛み締められた下唇から、紅を引いたように鮮血が滴っていく。

「なにを今更っ……!」

 女中が腕を振り上げた。

 紅晶が異変に気付いて顔を上げると、女中の手には鈍く輝く裁ち鋏が見えた。


 ――ああ、自業自得だな。


 半ば、諦めの境地で彼女の怒りを受け止めようとした。

 しかし、振り上げた腕はそのまま、杭に打ち付けられたかのように固まっている。


「止めときな、お嬢ちゃん。そのお方を傷付けたら、アンタは一生をダメにしちまう」


 彼女の腕を止めていたのは、立派な白い髭を蓄えた老兵だった。黒色の残っていた眉毛もすっかり白く染まっている。

 紅晶は、彼に見覚えがあった。

「貴方は……」

「紅晶様、このジジイに任せて、お逃げくださいや」

「いや、鴎茶おうさ殿。まだ話が終わっていない」

 紅晶は女中の目の前に立つと、真っ直ぐに彼女を見据えた。

 未だ怒りに満ちた彼女の瞳に、紅晶の姿が歪んで映る。

「……君の名前を教えてくれないか。

 俺が傷付けてしまった人を、ただの女中という枠で憶えているのは失礼だと思うんだ」

 紅晶の真っ直ぐな声が、静かな空間に響く。

 女中は紅晶の決心に諦めたのか、鋏を滑り落とした。

 鴎茶は素早い動作で彼女の腕を放すと、床に転がる鋏を拾い上げた。

 彼女の表情から怒りが抜け落ちて、涙が頬を伝っていく。


「わたくしは柑惺かんせいです。紅晶様。

 朱衣殿の元へご案内します」


 彼女は恭しく拱手をしてから、先を歩いた。



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