紅の皇子は祈る。 5


「おはようございます、白麗様。夜伽」

 朱衣が身支度を整えて隣の白麗の部屋を訪れると、寝台に腰をかけた白麗が微笑んで手を上げた。朱衣は、拱手をしてから部屋へと入る。

 部屋の隅へと視線をやると、夜伽が嬉しそうに頬を弛ませていた。

 白麗は寝台にこそいるものの、いつもと違い、すでに寝衣から青いパオへと着替えていた。

 朱衣が来るまでに済ませて、待っていてくれたのだろう。

 いつも寝衣で迎えられるので、新鮮な気持ちだ。

 顔色も血色があって、つい先日までの青白い顔が嘘のようだ。

 朱衣はもう一度丁寧に拱手をしてから、白麗の元へ歩み寄った。

「おはよう、朱衣」

「お目醒めでいらっしゃいましたか」

「うん。早く目が醒めてね」

 白麗は朱衣の手を取ると、引き寄せてその腕の中に閉じ込めた。

 そして、朱衣の肩越しに夜伽を睨みつける。夜伽への明らかな挑発だ。

 囲まれた兵士の間から白麗の視線を受けて、夜伽は口角を上げて返した。

 互いの視線は、今にも殺し合いを始めそうなほど張り詰めている。周囲の兵士達も思わず呼吸を躊躇うほどだ。

「あ、あの……?」

 そんな空気の中で、朱衣が小さく声を上げた。

 白麗の表情が緩み、緊迫した雰囲気は少し和らぐ。

 しかし、朱衣は内心それどころではなかった。

 ここ二日ほど、忙しなく過ごしていた白麗。こうしてゆっくり顔を合わせることも久しぶりのような気がしているのに、こうも抱きしめられては心の臓が落ち着かない。

「どうかした?」

 甘く艶やかな夜伽の声とは違う爽やかな声が、耳朶を擽る。

 朱衣は近くから聞こえる白麗の声に驚き、体を跳ねさせて、首を振った。

 聞きなれたはずの白麗の声に、なぜだか頬が熱くなる。

「放して頂きたい、です」

「照れているのかな」

「……おふざけも大概にしてください」

「本当に、朱衣は手厳しいな」

 白麗は笑いながらも、朱衣を放そうとしない。

 むしろ、腕の力を強めて、さらに密着しようとする。


「朱衣、気をつけてね」


 白麗は朱衣の細い肩に顔を埋めると、首筋を吸い上げた。

 朱衣は首筋に虫に刺されたかのような痛みを感じて、体を強張らせる。

「は、白麗?」

 小さい声で尋ねると、白麗は「お守りだから」と言って、やっと朱衣を放した。

「さて、朝餉に行ってくるよ」

「……はい」

 朱衣の頭に優しく手を置いて、白麗は侍従達を伴って部屋を後にしようとしている。


「あ、あの!」


 振り返った白麗の横顔が朝陽に包まれて、輝いて見える。

「なんだい?」

「……ご無理は、なさらないでくださいね」

 朱衣の搾り出した声は、微かに震えていた。

 白麗はゆっくり一つ頷く。

「うん。朱衣がそう言うならそうしよう」

 部屋を出て行く白麗の背を見送って、朱衣は胸を押さえた。

 見知らぬ人に触れられたかのようで、心がざわめいている。



「朱衣」



 振り返ると、夜伽が丁度槍の檻から抜け出してきたところだった。

 そして、朱衣の首筋に触れる。そこは、先程小さな痛みを感じたところだ。

「……夜伽?」

「僕、アイツは嫌いだ」

 朱衣を抱き締めながら、夜伽は深く溜息を吐いた。

「あの……朱衣殿、あとで新しい書物を届けさせます」

 侍従の好奇な目に苦く笑いながら、朱衣は頷いた。

「あ、はい。お願いします」

 朱衣は抱きついている夜伽を引き摺るようにしながら、白麗の部屋を出る。

 そして部屋の前で、肩に乗っている夜伽の手を二回叩いた。

「夜伽、わたし朝餉に行くね」

「もう行ってしまうの?」

 夜も一緒に居たじゃない、と言いかけて、口を噤んだ。

 どこで誰に聞かれているかわからないのに、迂闊に誤解を生むような発言をしてはいけない。

 皇宮暮らしが長くなってきた朱衣はそう学んでいた。

 夜伽は昼間開放されているとはいえ、目立つところを連れ回すわけにはいかない。

 白麗と明確に言っていた訳ではないけれど、妖が居るなどと騒ぎ立てられたら面倒なことになる。

「うん、だから放してくれると嬉しいんだけど」

「……わかった」

 するり、と指が離れる。

「行ってくるね、夜伽」

「うん、待ってる」




 それから、白麗に仕えている侍従が朱衣へと書物を届けに来たきり、朱衣の部屋は静まり返っている。

 主の朱衣が帰って来ないまま、日が海の向こうへと沈もうとしている。



「あれ? 夜伽だけか?」



 部屋を訪れてきたのは、待ち人ではなく第三皇子の碧英だった。

「朱衣は?」

 夜伽は部屋の中心に胡坐で座り、口許を手で覆って何かを考えていたようだ。

 視線だけで碧英を確認すると、また床へと視線を落とす。

「……戻ってこない」

「はぁ?」

「朝餉に行ってから、戻ってこない」

 言葉を理解するなり、碧英の顔色が変わる。

 もう夕刻だ。半日以上朱衣がいないことになる。

「おい! どういうことだ!」

「わからない。朱衣の気配が急に途切れた。皇宮内から出ていないことはわかるけれど、僕にはそれ以上が辿れない」

「こんなとこに居る場合か! 探すぞ!」

 碧英は夜伽を伴い皇宮内を駆け回ったものの、広大な皇宮内で人を探すのは難しい。しかも二人では、日付が変わっても全部の部屋を検めるのは厳しいだろう。

 闇雲に探しても仕方ない、と食堂から朱衣の部屋までの道を辿る。

 何かしらの痕跡は見つかるかと思ったが、残念ながら何も見つからない。

「くっそ……!」

「部屋を一つずつ探すしか」

「その前に朱衣に何かあったらどうするんだ」

「……何故、朱衣の気配が辿れないんだ」

 夜伽は目を閉じて、必死に朱衣の気配を探る。

 居ても立ってもいられず、碧英は立ち上がる。

「俺は知っているやつがいないか訊いてくる!」

 急いで部屋を出ようとした碧英の前に、白麗が立ち塞がった。


「二人して何をしているんだ、騒々しい」



 

 朝餉の後、見慣れない女中に声をかけられた。

 朱衣よりも頭一つ背が高く、長い手足や小さな顔がしなやかな猫科の獣を思わせる。

 美しい女中の多い中でも、美しい女中だ。


「朱衣殿、少しご相談があるのです」


 まるで、旧くからの友人のように、美しい手が朱衣の手を取っていざなっていく。

 白麗達の手とは違う。細くて柔らかな手。


「朱衣殿の手は、滑らかでお美しいですわね」

「そんなことは……。でも、以前より、手荒れは減ったのかもしれません」

「そうなのですか?」

「ええ。紅晶様からよい香りのする軟膏を頂いて……」


 その一言の後、今まで相槌のように返事をくれていた女中が、急に返事に間を空けた。

 瞬間、嫌な予感が過る。

 誰よりも、学んでいたつもりだった。

 迂闊に誤解を生むような発言をしてはいけない。

 朱衣は彼女の手を振り解いて、逃げようかと思った。



 けれど、彼女は朱衣を逃してくれなかった。





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