紅の皇子は祈る。 3


「ごめん、やっぱり無理だ」



 紅晶は体を離すと、脱いでいたパオに腕を通した。

何故なにゆえで御座いますか」

 女中は体を震わせて、紅晶の背中に抱き着く。

 袍越しに彼女の柔らかな肌を感じて、紅晶は顔を顰めた。

「わたくしが至らなかったのなら謝ります。どうか」

「どうか、わたくしにお世継ぎを……って?」

 紅晶の低く冷たい言葉に、女中は息を呑んだ。

「そ、そのようなことは」

「白麗も碧英も、朱衣に夢中でとりつく島もないもんなぁ」

 紅晶は喉の奥で笑うと、振り返った。

 つややかと感じさせる緩い垂れ目が、今は冷たく凍てつく刃のようだ。

「もう帰ってくれるかい。気分じゃない」

 肩を震わせて、女中は大袈裟に泣いてみせる。

 そうした一つ一つの仕草が紅晶を苛立たせていることに、彼女は気付いていないのであろう。


 ――もう、うんざりだ。


 紅晶は泣いている女中を置いたまま、隣の部屋へと移動した。上衣を着て、窓辺に腰掛ける。

 眠くて堪らないのに、眼が冴えて眠れない。

 布団に潜るだけの夜を過ごして、もう三日目になる。

 起きていると、煩わしいことばかり目に入ってきて苛立つ。

 そして火を入れた煙管キセルを口に咥えようとして――虚しくなって、溜息を吐き出した。




 紅晶の母親は、大陸出身の踊り子だった。

 神事の際に奉納の舞いを踊っていたところを現皇に見初められて、第二皇妃という地位を得た。

 言わば、民間出の王妃だ。

 しかし、皇宮内では家柄を重視する者が少なからずいて、母はそんな人達に面白おかしく揶揄されてきた。

 母は気丈に振舞っていたけれど、夜な夜な一人で静かに泣いていたことを知っている。

 皇宮は魔窟だ。

 欲望が渦巻いて、人々を鬼に変えていく。

 朱衣が皇宮に来てから、殊更そう思うことが増えた。

 朱衣は皇族でもなければ、良家の育ちでもない。

 白麗によって招き入れられた存在だ。

 母と似ている境遇。

 朱衣がどんな噂を立てられているか、聞くまでもなかった。


 紅晶が十六になった去年。

 急に周囲に若い侍女、女中が増えた。

 白麗に相手にされなかった者が、紅晶の元へ来たのだと察することは簡単だった。

 紅晶も最初は相手にしなかったものの、彼女達も簡単に諦めたりしなかった。

 その矢面に立たされたのは、朱衣だ。

 皇子達を唆す悪女。そんな風に彼女が謂れの無い噂を立てられることに、我慢ならなかった。

 この魔窟で彼女が傷付かないで居られるように、紅晶は女性からの誘惑を拒むことを諦めた。

 すると、少しだけ耳に届く朱衣の噂は減って、紅晶の女好きという噂に塗り換わった。

 これが、正しいとは思わない。でも、朱衣を守れるためなら、なんだってできる。耐えられる。

 

 そうして、この一年を過ごしてきた。


 先日、弟の碧英が、朱衣を連れて皇宮から飛び出して行くという事件があった。

 白麗は家出と称していたが、紅晶にとっては衝撃的な出来事だった。

 朱衣を守るために、彼女の手を引いて、この皇宮魔窟の外へ出るという発想が、紅晶の内にはなかった。

 自分であったなら、あんな選択を出来ただろうか……。

 

 あの日から、媚びてくる侍女や女中が気持ち悪く感じた。

 触れることも、触れられることも吐き気を催すほどに嫌気が差す。

 碧英が帰ってきて、次の日――夜伽の沙汰を決めた日――の夜。

 体が眠るのを拒み始めた。

 紅晶は自分に起こった変化に付いていけず、一人苛立ち続けていた。




 食事とお風呂を済ませた朱衣が部屋に戻ると、暗がりの中から人影が現れた。

 思わず悲鳴を上げそうになったところで、人影に抱きしめられる。

 不思議と安心する腕。長い夕焼け色の髪が、音を立てて流れる。

「朱衣」

「よ、夜伽……?」

「うん、待ってた」

 ――あれ? 白麗が出ていいよって言ったのかな?

 そもそも白麗の部屋は兵士に厳重に囲まれている。

 白麗が夜伽に筵の上から出ないように言っていたを知っているので、白麗が外に出してあげたとしか思えなかった。

「待ってたって……部屋真っ暗だし、退屈じゃなかった?」

「大丈夫。白麗の部屋よりずっといい」

 朱衣が燭台に火を点けると、部屋の中はぼんやりと明るくなった。その間も朱衣を抱きしめながら、夜伽が恍惚とした表情で呟く。

 肩に顔を埋めると、いつも二つに纏めている髪が解けているせいか、朱衣の香りが色濃く感じられる。

「ここは朱衣の気配がするから退屈じゃないけれど、本物の朱衣に会えなくて寂しかった」

「もう……昼間に会ってたでしょう?」

 夜伽の冗談とも本気とも取れない言葉に、朱衣は鈴の音のようにころころと笑った。

「朱衣、可愛い」

 夜伽がそっと朱衣の頬を手で包む。

 それだけで朱衣の頬は朱に染まり、目は安らぐものを探して右へ左へと慌しく動く。


「今夜も、ちょうだい」


 夜伽に甘い声で耳元に囁かれて、膝から力が抜けてしまいそうになる。

 思わず夜伽の腕を掴むと、夜伽は朱衣の額に口付けた。

「本当に、朱衣は可愛いね」

 寝台に連れて行くと、朱衣をそこに座らせた。

 朱衣は体を硬くさせて、夜伽に不安そうな視線を向けている。

 夜伽は跪き、朱衣と同じ高さになるよう視線を合わせた。

 金色の瞳に、朱衣が映りこむ。

「夜伽……」

 温度の違う互いの指同士を絡ませると、夜伽は朱衣の華奢な手首の内側に唇を寄せた。

 朱衣の体が小さく跳ねて、押し殺している声が静かな部屋に水面を立てるように響く。

 もっと、と焦る自分を宥めながら、夜伽が顔を上げる。

「朱衣、嫌ではない?」

 朱衣は薄らと目を開けて、小さく頷いた。

 ――おや。

 夜伽が目を見開くと、朱衣がその目から逃れるように視線を逸した。


「夜伽が、これでお腹空かないなら」


 色気のない答えに、夜伽が笑い声を上げる。

 朱衣は何故夜伽が笑っているのかわからずに、目を白黒させた。

「いいよ。今は、それでも」

 もう一度、夜伽が手首に口付けする。

 朱衣が顔を逸らすと、壁に夜伽と朱衣の影が映し出されていた。

 跪き、朱衣の手首へと口付けている姿が、まるで忠誠を誓っているようで……。

 朱衣は頭を振って、恥ずかしい考えから離れようとした。


 ふと、夜伽が顔を上げて扉の方を振り向く。

 朱衣も視線を辿ると、辛そうに薄く開いた扉鴎茶体を預ける人物がいた。


「お邪魔、だったかな?」

 扉に寄りかかっていたのは、紅晶だった。

 顔が青褪めていることに気付いて、朱衣は慌てて駆け寄った。

「紅晶?」

 そっと肩に触れようとした瞬間、紅晶は朱衣に向かって倒れ込んできた。

 碧英よりは小さいとはいえ、紅晶も朱衣より頭一つ分大きい。朱衣は支えきれずに、後ろへと倒れかかる。

 ――紅晶は守らなきゃ……!

 朱衣が紅晶の頭を抱えこんだところで、「大丈夫?」と夜伽が朱衣の腰を支えてくれた。

 すんでの所で、なんとか床に叩きつけられずに済んだ。

「あ、ありがとう。夜伽」

 さすがに肝が冷えて、朱衣は安堵の息を漏らした。

 体制を立て直すと、紅晶より背丈のある夜伽に、紅晶の体を任せる。

「うん。……これ、どうする?」

 夜伽に凭れかかっている紅晶は、静かに目を瞑っている。

 紅晶はあまり病気にかかったりする人ではない。体の調子には常に気付かっていて、努力家ではあるけれど決して無理をすることはなかった。

 こうして弱っている彼を見ることは滅多にない。

 朱衣が額に手を当ててみるものの、熱がある様子はない。

「寝てる、のかな」

 よくこんな体勢でも寝れるなぁ、と関心していると、夜伽が「重い」と呟いた。

「うーん。でもこんなに気持ち良さそうに寝てるし、起こすのは可哀想だよね」

「床に転がして置く?」

「それじゃあ体が痛くなっちゃうでしょう。夜伽、わたしの寝台まで運んであげて?」

「それじゃあ朱衣はどこで寝るんだ」

「一緒に寝るよ。この調子なら、朝まで起きないでしょ」

 夜伽は首を振って、幼子のように頬を大きく膨らませた。

「やだ」

「夜伽」

「朱衣と紅晶が一緒に寝るなんて嫌だ」

 子供のように駄々を捏ねている夜伽に、困ってなにも言えなくなってしまう。

 何度も同じやりとりをしたけれど、夜伽は一向に引かない。



「じゃあ、僕も一緒に寝る」


 

 結局、朱衣が根負けして、朱衣を真ん中にして三人で川の字になって眠ることになった。




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