碧の皇子が望む。 5
――夢を見ていた。
幼い頃の夢。
俺と、白麗、紅晶の三人は一つの部屋に集められて、勉強をすることになった。
それまでは一人ずつ先生が付いていたけれど、俺が先生と二人という空間に慣れることが出来なくて、思うように勉強が捗らなかったからだ。
ちゃんと机に向かっていても、何も頭に入ってこない。
先生はいつも隣に立つと、打っても響かない俺を冷めた目で見下ろしていた。
そうして
寺子屋に行かせられない代わり、だったのかもしれない。
ところが最初の先生は白麗と相性が悪かった。
白麗様は聡明で教えることなどとてもありませんと、一週間で辞めてしまった。
続く二番目の先生はやる気がなくて、紅晶が皇に告げ口をして三日で解雇になった。
どうしたら俺達に質のいい勉強をさせられるか、皇は頭を抱えていた。
その皇の背を見て、俺も必死に考えた。
今まで兄皇子達が先生との一対一で上手くいっていたのならば、俺が我慢すればいいんじゃないか。
そう思って、ある日、俺は皇に「勉強を辞める」と宣言した。
それを聞いたときの皇の表情はよく覚えている。
皇は、いつも俺達には笑顔を崩さないのに、悲しげに俺を見詰めて、言葉を失っていた。
子供ながらに、言ってはいけないことを言ったのだと察した。
それから二日後。三番目の先生が来た。
それが、朱衣の父親の
「はじめまして、朱夏と申します」
拱手の後、上げた顔を見ると、皇よりいくつか上のようだった。
目尻に刻まれた皺に、丸い眼鏡。
笑顔に人柄の良さが現れていた。
そして、朱夏先生の足にべったり張り付いていたのが朱衣だった。
俺達三兄弟にとって、初めて見る自分達以外の子供で、女の子だった。
「……朱衣です。はじめまして」
「うちの子、可愛いでしょう」
「はぁ……」
突然の親馬鹿宣言に、いつも愛想のいい白麗も目を点にして戸惑っていたようだった。
「紅晶様と同い年ですかね。よろしくお願いしますね」
幼い頃の朱衣は人見知りが激しくて、よく朱夏先生の足に張り付いていた。
美人とは言い難いけれど、ぱっちりした大きな目が印象的で、初対面でも引き付けられるものがあったと思う。
俺は二つ上だという朱衣に興味津々だった。
朱夏先生は、最初の授業として試験を受けさせた。
読み書きに始まり、色や動物、植物の名前、果てには料理名や服に使われる布地まで。
簡単ではあるけれど、随分多岐に渡る問題だった。
白麗は一問も間違えずに答え、紅晶は内容によっては空白があったけれど、最後まで粘り強く答えていた。
俺は動物や植物の名前だけ答えていたと思う。
朱夏先生は答えられないことや間違ったことを叱責したりせず、細かなことに気付いて、褒めてくれる人だった。
「白麗は色々とよく知っているね。たくさんの書物を読んできたのだろう。
紅晶は頑張り屋さんだ。時間いっぱいまでわからない問題とよく向き合っていたね。
そして、碧英。君は自然を愛する優しい子だね」
朱夏先生は、他の先生と違うと確信した瞬間だった。
「それじゃあ、みんな。外套を着て、外に出ようか」
外は雪が舞っていて、肌寒さにみんな体を震わせる。
「碧英、勉強は嫌いかい?」
朱夏先生は鈍色の空を見上げながら、横にいる俺に問い掛けた。
「キライ」
不貞腐れている俺に、朱夏先生は肩を叩いて空を指さす。
「碧英、何故雪が降ると思う?」
「え?」
「じゃあ、雨と何か違う?」
「えっと……うんと……」
「そう。わからなくていいんだ。勉強っていうのはね、読み書き出来るだけじゃないんだ。知らないことを知ることが勉強なんだよ」
目から鱗が落ちた。
その頃の俺は、勉強とは、部屋に閉じ込められて、好きじゃないことを延々やらされるものだと思っていた。
こうして空を見上げることも、勉強になるなんて……。
「知らないことを知る?」
「そう。空にあるあの雲はね、お水と氷と塵で出来ているんだ。
塵を真ん中にしてくっついたお水や氷が雲の中でぶつかって、さらにくっついて、大きくなったものが地面に落ちてくるんだよ」
先生の話に聞き入っていたのは、俺だけじゃなくて、白麗兄皇子も、紅晶兄皇子も、興味深く耳を傾けている。
「お空は氷が出来るくらい寒いんだ。
空から、ぶつかって大きくなった氷の粒が落ちて来るとき、地面の方が暖かいと溶けて雨になり、地面も寒いと氷の粒がそのまま落ちてくる。これが雪の正体」
「ふわふわして見えるのに、氷なの?」
「そう。小さな氷の集まりなんだ」
へぇーと四人の声が重なった。
「ほら、一つ勉強が出来た。
どうだい? 碧英、勉強も楽しいだろう?」
それから、朱夏先生は俺が興味を持つであろうものを体験を交えて教えてくれた。
机に向かうことが好きになった訳じゃないけれど、朱夏先生の教えてくれるものは全て好きだった。
「白麗、紅晶、碧英。三人が纏まれば、きっとこの国はもっと良くなるよ」
朱夏先生はそう言って、俺達を一人ずつ自分の子のように頭を撫でてくれた。
三人纏まれば……朱夏先生は、いつもそう言っていた。
纏まることなんて出来るだろうか。みんな、別々の方向を向いているのに。
雪について教わっている間、朱衣は雪が降る庭に降りると、両手を器にして空に掲げた。
そして小さな手に付いた、花弁のような雪を大切に運んできて――
「見て見て、ほんとにお水になったよ!」
掌を俺達に見せて笑った。
朱衣の小さな手の上、雪はすっかり溶けていて、水の跡だけが残っている。
寒空の下、朱衣の、花のように咲いた笑顔に釘付けになった。
あの瞬間の朱衣がずっと目蓋の裏から離れない。
きっとあのときから、恋をしていたのだと思う。
俺も庭に下りて、雪に向かって手を伸ばす。
隣で笑う朱衣の声に、自分の笑い声も重なる。
ああ、俺、朱衣を守らなきゃ。
朱衣の笑顔を守りたい。
守れる存在が、俺であってほしい。
――俺に守らせてくれないだろうか。
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