第三夜 洞穴。
二人で火を囲みながら、碧英に気付かれないように少しずつ少しずつ術をかけていた。
碧英は最後まで睡魔に抵抗して起きていたけれど、やっと効いたのか、壁によりかかったままで眠ってくれた。素直に早く寝てくれればいいものを、と肩の凝りをほぐすために首を横に倒す。
碧英が襲い掛かってくる眠気に耐えようとしていた証に、深く眉根を寄せているのが見える。
そういう気丈さは第一皇子、白麗によく似ているように思う。
僕は朱衣の横に座り直すと、柔らかな頬に口付けようと覆いかぶさった――ところで、彼女の大きな目が開いた。
その瞬間、胸が音を立てて跳ねた。
自分の金の瞳が映り込むほど間近に朱衣がいるせいだ。
「夜伽……?」
名前を呼ばれただけで、胸が締め付けられる。
欲望のまま、君をどうにかしてしまいたくなる。
「朱衣」
朱衣は頬を染めると、掌で壁を作った。
「ち、近いよ」
「少しだけ、君の甘露を分けて欲しい。朝から腹が空いて仕方がないんだ」
「……甘露って?」
「君の『精気』は特別なんだ。何よりも甘く、何よりも心が満たされる稀な『精気』。
僕も百年を生きてきたけれど、君ともう一人しか知らない」
朱衣は眉尻を下げて、悩んでいる。
僕は腹を擦り、腹が空いていることを訴えると、朱衣は「それって、痛くない?」と聞いてきた。
なんとか朱衣に甘露を分けて貰う運びになったものの、肝心の朱衣は緊張して石像のように固まってしまっている。
僕も怖がらせるのは不本意だから、こちらから手を伸ばすようなことをせず、朱衣の様子を見ていた。
朱衣はそんな僕を見詰めながら、おずおずと手を差し伸べた。
「手でも、いい?」
「もちろんさ」
僕は恭しく、朱衣の柔らかくて冷たい左手を取ると、指を絡ませた。
朱衣の緊張は少し解れてきたのか、されるがままにしている。
手の温もりが同じくらいになったのを見計らって、僕は口許へ近付けると、指先に口付けた。
喉を甘い感覚が通っていく。
胃から、臓腑全体へと広がり、体中に小さな痺れが回っていく。
「……っ」
朱衣の体が小さく跳ねて、甘い息が漏れた。
柔らかな頬は上気して、淡く朱に染まる。
それから目をきつく瞑り、下唇を噛んで耐えている姿に加虐心が芽生える。
もっと、その表情が見たい。
僕が薬指に甘く噛み付くと、朱衣は驚いて目を見開いた。
潤んだ目が、焚火で黒曜石のように輝く。
――そう、ちゃんと僕を見て。
「夜伽……?」
不安を滲ませた瞳が潤んでいく。
まるで狼に狙われる子鹿のようだ。
「もっと、呼んで」
手を引き、体を抱き寄せる。
耳許で囁くと、朱衣は体を捩り、離れようと抵抗した。
「や、だ」
「お願い、朱衣」
「よ、とぎ……」
羞恥に目を伏せて、震える朱衣。
もっと色んな朱衣が見たくて、もっと触れてしまいたくなる。
けれど、これ以上は朱衣を傷付けるだろう。
嫌われるのだけはごめんだ。
「ありがとう、朱衣。ごちそうさま」
最後に頭を撫でて、僕は朱衣から離れて腰を下ろした。
急に離れた僕に、朱衣は不思議そうにしながらも安堵の息を漏らした。
それから、暫く黙ったまま火を囲んでいた。
洞穴のあちこちに乾いた枝や葉があるから、朝まではなんとか持ちそうだ。
「……ねぇ、夜伽」
沈黙に耐えきれなかったのか、朱衣が声を掛けてきた。
「なに?」
「夜伽は、どうしてあの日書庫に居たの?」
書庫に居た理由は、僕もよくわからない。
あの時は息も絶え絶えで、無我夢中で空を飛んでいた。どこをどう飛んでいたのか、それすらも記憶にない。
素直にわからないというと、朱衣は「そうなの」と頷いた。
「僕は東の島国に居た
空腹を満たすために夜な夜な里に下りてはいたけれど、あとはずっと山奥で一人で暮らしていた」
朱衣は視線を火から僕へと向けた。
「……寂しくなかった?」
「どうだったかな。忘れてしまった」
そう言って笑う僕を、朱衣は悲しそうな目で見詰めている。
きっと、隠した本音に気付いているのだと思う。
「……ある日、有名な術師が寺を訪れた。町の誰かが告げたらしい」
「夜伽を退治するために?」
「そう。あの寺を塒にしてからは、餓えを凌ぐくらいに済ませていた。誰かを傷付けたことなんてないし、眠りを妨げたこともない。
朱衣のような甘露の持ち主は滅多にいないし、僕ももう誰かと関係を持つことを諦めていたからね。
だから、術師に襲われるのは、本当に寝耳に水だった。妖というだけで疎まれるから、仕方ないのかもしれないけれどね」
朱衣は大きな目から、大粒の涙を溢した。
僕のことを憂いてくれるのは嬉しいけれど、出来ればこんな風に悲しそうな泣き顔は見たくなかった。
髪を梳くように、頭を撫でてやると、朱衣は「ごめんね」と袂で目尻を拭った。
「朱衣、そろそろ寝ないと。明日は雪道を歩かなきゃいけないよ」
「……うん。おやすみなさい、夜伽」
それから、朱衣は寝ようと横になっていたけれど、寝息が聞こえてこないから起きているようだ。
碧英のように術を掛けて寝かせることも考えたけれど、眠れないのが僕のことを考えているせいだとしたら、今は寝かせたくなかった。
飛ぶにしろ、歩くにしろ、朱衣を抱えていけばいいことだ。
そういう状況になって、朱衣が体を預けてくれるのであればさらに嬉しい。
夜が明ける前、碧英が目を醒ますと、横になっていた朱衣も体を起こした。
「朱衣、何もなかったか?」
「う、うん。なにも」
碧英は何度も朱衣に謝りながら、朱衣の無事を確認する。
雪もすっかり止んでいたので、腹ごしらえをしてから身支度を整えて、三人で朝日を待つことにした。
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