碧の皇子が望む。 6
洞穴から出ると、澄んだ薄い色の青空と高い雲、頬を刺すような冷たく清らかな空気。真っ白な雪の世界がどこまでも広がっていた。
朱衣が目を輝かせて、新しい雪の上へと降り立つ。
「見て、碧英、夜伽。雪が膝まで積もってるわ」
皇宮内では常に兵士や侍従、官吏が居て、積もったとしても誰の足跡もないまっさらな状態を目にすることはない。
朱衣は子供のように、雪を掬い上げると、二人に見せた。
「朱衣」
寄ってきた碧英が、朱衣の両手を外側から包み込む。
あの小さかった手は、今はすらりとした大人の手だ。
「碧英?」
「夢を見て、昔のことを思い出したんだ」
朱衣の手の隙間から、体温で溶けた雪が溢れ、碧英の手を濡らす。
「……皇宮に、初めて父様と行ったときのこと?」
「うん」
「ふふ。懐かしいわね」
二人の小さな笑い声が、白銀に染まった世界に吸い込まれていく。
夜伽は洞穴の入り口に立ち、二人の様子を、欠伸を噛み殺しながら見下ろしていた。
二人は雪で玉を作り、一番近くの木に向けて投げる。
「子供の頃、こうやって碧英とよく雪で遊んだよね」
「白麗
「懐かしいね」
「ああ。……朱衣、懐刀は持ってるよな」
朱衣は深く頷いた。胸元にある懐刀に触れて、ここにあると示す。
碧英は頷き返すと、背後に佇んでいた夜伽の方を振り向いた。
「なあ、朱衣を皇宮へ連れて行ってくれないか」
「碧英……!」
「お前はどうする? 第三皇子殿」
「歩いて帰る」
碧英の目には、獰猛な獣を感じさせる、鋭く力強い光が戻っている。
朱衣は碧英の左腕にしがみついた。
「それならわたしも歩く!」
碧英は朱衣に抱き付かれている腕を引き抜くと、夜伽の方へ朱衣の背を押した。
「朱衣がこの深さの雪を歩いて帰るには難しいだろう。梗もこの深さの雪道には慣れていないし、道を踏み外すこともあるかもしれない。
その点、夜伽は抱えて飛べると言っていた。今は晴れていて視界がいいし、飛んでいくほうが安全だ。
俺は梗を見捨てられないし、歩いて連れて行くよ」
「でも、碧英を置いていくなんて出来ないよ」
朱衣ならばそう言うと思っていた。
碧英は屈むと、朱衣の額に自分の額を当てた。
「俺、朱衣が好きだよ」
碧英は一歩下がると、青空が霞むくらいの清々しい笑顔を見せた。
「だから、朱衣に好きなヤツが出来るまで諦めない。
絶対に振り向かせるから。
俺が戻るまで、安心して皇宮で待っててくれ」
「碧英」
「必ず皇宮へ送り届けろよ、夜伽」
「……はいはい。じゃあ、頑張ってね」
夜伽の膝まである朱色の髪が肩まで短くなって、代わりに大きな翼が背に生える。
朱衣を抱き上げると、翼を羽ばたかせてゆっくりと地から離れて舞い上がっていく。
「碧英、待ってるからね!」
声を張り上げて、碧英に呼びかける朱衣に碧英は手を振って応えた。
上空は地上と違って風が強く吹いていた。朱衣は夜伽の首に腕を回して吹き付ける冷たい風に耐えている。
「朱衣、下を見てごらん」
怖くて目を瞑ってた朱衣だったが、夜伽の一言で恐る恐る目を開けた。
「うわぁ……」
口を開けて、目を輝かせている。
――本当に、よく表情が変わる。
朱衣の万華鏡のように変わる表情を見ているのは楽しい。時折見せる空っぽな表情も、全てくるくる変わる表情で塗り尽くしてしまいたい。
「あそこに街が見えるだろう。その中心から山へと真っ直ぐ伸びた大きな街道の先。朱色の建物が皇宮だよ」
「あれが、皇宮」
空から見た華羅国は、街道に沿って縦横整然と並べられていて美しい。
皇宮の反対には、朝陽で煌めく海。
陸の境にある港には多くの船舶が泊まり、海沿いには民家とは雰囲気の違う建物が並ぶ。
そして街道に沿って、山の方へ視界をずらすと、辺り一面雪で真っ白に染まっている中で、一際目立つ
あそこに住んでいるのだと、朱衣はその目に焼き付けようと大きく見開いた。
「綺麗」
いつか白麗達がこの国を支え、守っていく皇になるのだと思うと、幼馴染として誇らしく思う。
「それじゃあ、朱衣。降りるよ」
「お、お願いします」
夜伽にしがみ付くと、夜伽も朱衣の背に回していた手に力を入れた。
それだけで、恐怖が和らぐ。
夜伽はゆっくりと旋回しながら、皇宮内へと降り立った。
見慣れた白麗の部屋の前の中庭。
「おかえり、朱衣」
夜伽がそっと朱衣を下ろす。
皇宮内は雪掻きが行われたのか、降り立った中庭は地面が見えている。
「ありがとう、夜伽」
「うん」
まだ、碧英は帰っていないだろう。
とりあえず、白麗に声をかけなければならない。
朱衣が白麗の部屋へ向かおうと中庭から廊下へ上がろうとしたところで、「朱衣!」と紅晶が駆け寄ってきた。
「無事でよかった」
力強く抱きしめられて、紅晶が如何に心配してくれていたかわかる。
「心配かけてごめんね」
「いいんだ。連れ出したのは碧英なんだし。それで、碧英は?」
「それが……夜伽にわたしだけ運んで貰ったの」
「……そっか。アイツは頑丈が取り得だから、きっと無事に帰ってくるよ」
朱衣が小さく頷く。帰ってきた途端に、先に帰ってきてしまったことの罪悪感でいっぱいになっていた。
「おかえり、朱衣」
白麗が紅晶の背から声をかける。
朱衣が顔を上げると、白麗が柔らかく微笑んだ。
様子を見ていた夜伽が見たことのない白麗の微笑みに、渋い顔をした。
「白麗、起きていて平気なの?」
「ああ、幾分か調子がいいんだ」
今日は薄ら血の気もあって、顔色は確かに悪くない。
「それならよかった」
「さて、行こうか」
白麗の後ろに控えていた侍従が沓を差し出して、中庭へ降り立つ。
そして、付いて来いと目で促した。
雪の除けられた城の正門の前で、白麗はおもむろに敷物を敷き始めた。
「白麗
紅晶も目を丸くして見守っている。
城から侍女が来て、茶器やお湯、菓子を置いていく。
「ここで碧英を待とうと思う」
白麗が敷物に座ると、朱衣も沓を脱いで白麗の横に腰を下ろした。
朱衣が座れば、夜伽も真似て朱衣の隣に腰を下ろす。
「こんな道の真ん中で待たなくても」
紅晶が顔を顰める横で、朱衣が手を差し伸べた。
「みんなで待とうよ。紅晶も」
「……まあ、朱衣が言うなら」
紅晶も渋々といった様子で腰を下ろした。
四人でお茶会を始めて、どのくらい経ったのだろう。いつの間にか日が西へと傾いてきた。
風が強くなってきて、昨日の新雪が巻き上げられて舞ってくる。
四人の中に、不安の陰が過ぎって、口数は少しずつ減っていった。
「戻ろうか」
そんな中、声を上げたのは紅晶だった。
「紅晶?」
「白麗
「……碧英は帰ってくるわ」
朱衣は立ち上がり、手を合わせて道の先へ祈りを捧げた。
――俺、朱衣が好きだよ。
――だから、朱衣が好きなヤツが出来るまで諦めない。
――俺が戻るまで、安心して皇宮で待っててくれ。
「約束、したもんね。碧英」
碧英はどこまでも真っ直ぐで、明るくて、いつも傍に居てくれて、笑わせてくれる温かい存在だ。
本当の弟みたいで可愛くて、それは体が大きく逞しくなっても変わらない。
そして、劣等感を抱えながらも、兄皇子たちの背を追う碧英を朱衣は心から尊敬している。
横で菓子を頬張っていた夜伽が顔を上げた。
しばらくして、馬の駆ける音が聞こえてきた。
「全く、困った弟だ」
そう口にしながらも、白麗は嬉しそうにお茶を啜っている。
「碧英ー!」
朱衣が叫ぶと、夕陽に染まりゆく景色の中、梗に跨った碧英が大きく手を振っているのが見えた。
続。
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