碧の皇子が望む。 3


「……俺じゃ、ダメ?」


 朱衣は碧英の胸に埋めていた顔を上げた。碧英を見下ろすと、今にも泣き出しそうなほど、顔をくしゃくしゃにしている。

 先程、大きくなったように感じたばかりだったのに、どうも中身は幼い頃のままらしい。

 碧英に昔の面影を感じて、少しだけホッとした。

「碧英がダメなんてことないわ。そうじゃないのよ」

「なら、結婚しよう」

「碧英……」

「もしかして、好きな人でもいるのか」

「そうじゃない、けど」

 碧英の手が、優しく朱衣の頬に触れる。

 大きくて無骨な手は、いつも朱衣に触れるとき、壊れ物に触れようとするかのようにどこか躊躇してから触れる。

 その優しさを朱衣はしっかり受け止めていたつもりだった。

 頬に触れた碧英の手に、自らの手を重ねる。

「ずっと、兄皇子アニキ達に朱衣が取られちゃうんじゃないかって思ってた。

 俺は二つ下だし、勉学も苦手だ」

「そんなことはなかったわ。同じ年の子に比べたら良くできてるってお父さんが言ってたもの」

朱夏しゅか先生は優しいからさ。

 俺は兄皇子達が同じ年だったときに比べたら、出来が悪いと聞いた。周りはずっと、二人に比べて足りないと囁いていた。

 白麗兄皇子も、紅晶兄皇子も、頭も良ければ、剣も立つ。

 俺は二人の背中を追いかけながら、いつか朱衣はどっちかの兄皇子を選んでしまうんじゃないかって怯えてた。……それなのに」

 碧英の表情が穏やかなものから、険しいものへと変わる。

「あの怪鳥バケモノ

 碧英の内にあるのは、怒りだろうか。それとも、焦りだろうか。

 突然現れて、横から朱衣を攫っていこうとする夜伽を恐れているのかもしれない。

 しかし、それを慰める術を、朱衣は持たない。

「……碧英。でも、わたしなにもされていないのよ。みんなが心配しすぎなんじゃないかと思うわ」

「そんなことない。アイツは、よからぬことを考えている」

 碧英は起き上がると、朱衣の両手を取って、力強く見詰める。

 碧英がそう言い切るのは、様々な生き物を見てきているからだ。見た目にそぐわず、危険で獰猛な生き物など数え切れないほどいることを知っている。

 それに対して、朱衣の発言には根拠がない。

 それでも、なぜだか夜伽のことを見捨てたくない。三人の皇子に手を染めてもらいたくない。

 その気持ちだけで、夜伽を庇っている。

「そうかしら」

「朱衣は危機感が無さ過ぎる!」


 話を続ける二人の元に、大人しく草を食んでいた梗が近寄ってきて、碧英の頬に鼻を擦り寄せてきた。

「梗……?」

 梗はよく躾けられていて、人の会話に割り込むようなことは滅多にしない。

 朱衣と碧英の間に一片ひとひら、白いものが舞った。

 見上げると、いつの間にか空は陰ってきている。

 鈍色の空からまた一片、冷たい風に乗って飛んでくる。

「雪?」

「みたいだな」

 華羅国の天気は変わりやすい。大陸側から風が吹けば寒くなり、東の国側から吹けば暖かくなる。

 雪が降るのは平年よりも遅いけれど、今年は随分と大陸からの乾いた風が吹いてきて寒かった。

 雪を蓄えた鈍色の雲は風に流されて、ゆっくりと向かってくる。


「朱衣、行こう」


 碧英は素早く梗の支度をすると、朱衣を梗の背に座らせて、手綱を引く。

「この先に小さな洞穴があるんだ。寒さは凌げると思う」

「ねえ碧英、帰ろう。みんな心配するわ」

 碧英は聞こえていただろうに、返事をしない。

 帰るという提案は受け入れて貰え無さそうだ。

 ――困ったなぁ。

 一人で帰ろうにも……朱衣は自分の足を見下ろす。

 沓も無く、知らない道――まして舗装されていない獣道で、何が落ちているかわからない。

 無闇に歩き回るのは危険だ。

 大人しく梗の背に乗っていることしか出来ない自分に少しずつ苛立ってくる。


 白麗達は今頃どうしているだろか。


 振り返ると、城があるであろう方向はすっかり鈍色の雲に包まれて、霞んで見える。

 二人と一頭は、島の中心部にある聖なる山、至色ししきさんへと向かっていった。




「雪、か」

 渡り廊下から手を伸ばす。

 紅晶の指に、花弁のように雪が舞い降りて溶けていった。雲は厚く光が入ってこない。直に吹雪くかもしれない。

「白麗兄皇子にいさん、誰かに探しに行かせるの?」

「ああ、すでに手配をしている」

「碧英の行きそうなところに心覚えは?」

「……ないな。だからと言って、放っておく訳にもいかないだろう。野宿でもされて、二人して野垂れ死になっては困る」

「虱潰しか……」

 碧英もそこまで考えなしではないし、朱衣も傍にいる。雪をどこかで凌いでいてくれることだろう。

 ただ、今夜はどのくらい冷えるかわからない。

 碧英だって、雪や野宿の準備まではしていないはずだ。


 ――夜までに探し出せればいいが……。


 紅晶が深く溜息を吐くと、背後から「ねえ」と声をかけられた。

 高すぎず、低すぎず、甘く艷やかな声。

 先程は「平気だ」と言ってみせたけれど、彼から溢れてくる色香は、気を抜けば男の自分でも酔いそうになる。

 朱衣や侍女にはさぞかし毒だろう。もしかしたら兵士達にも。

「なんだい、怪鳥バケモノくん」

「人の足で朱衣を探してたら間に合わないだろう。僕が行くよ」

 兵士の槍に囲まれながら、夜伽は不敵に笑って見せた。

「へぇ……。随分自信を持っているようだけれど、居場所がわかるの?」

「わかるよ、朱衣の居場所はね」

 白麗は寝台から降りると、刀を抜いて夜伽へ切っ先を向けた。

「白麗兄皇子!」

 ふらついている白麗の肩を、紅晶が支えてやる。

 白麗の体が熱い。立っているのも、辛いことだろう。


「夜伽」


 初めて白麗に名前を呼ばれて、夜伽は目を丸くした。

「朱衣と碧英を無事に連れ戻せ。指一本でも触れたら、私が命を懸けて貴様を殺す」

 夜伽を信用したというよりも、朱衣が無事に帰って来る可能性を少しでも確実にしたいのであろう。

 槍の檻が開かれて、夜伽は体を伸ばした。

「少し待て」

 今にも飛び出して行きそうだった夜伽は、呼び止められて眉根を寄せた。

「なに」

「碧英はともかく、朱衣はそこまで丈夫ではない。今夜帰れないことも考えて、荷を持たす」

「……ああ、そう」

 朱衣の甘露さえあれば生きていける夜伽とは違い、朱衣には食べ物や暖を取れるものが必要だ。

 紅晶は二人のやり取りを見詰めながら、くすりと笑った。

 朱衣に関して対立していたはずなのに、朱衣に関して二人は歩み寄っている。


 ――人とは不思議なものだ。


 紅晶は静かに微笑んだ。



 




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