朱と鳥と、三人の皇子。 4


 空が夕陽の朱に染まり始めた頃、朱衣は掃除に使った雑巾を洗いに井戸へと向かった。

 朱衣と白麗の住まう建物の近くにも井戸はあるが、血だらけの雑巾を見たら侍従達がいい顔をしないことは分かっていた。

 こうして、東にある白麗と朱衣の住まいとは真逆の西の別棟。歩き回った末に人気ひとけのない井戸をやっと見つけ出した。

 汲み上げた水は冷たくて、肌に刺すような痛みを感じさせる。何度も雑巾を濯いで、固く絞った。あとは自室で干せば掃除は一先ず終わりだ。


 碧英が手伝ってくれたからこの時間に終わったけれど、そうでなければ夜遅くまでかかっていただろう。

 書庫の血の痕は、朱衣の部屋の床よりも広範囲汚れていた。書物が無事だったのが不思議なほどだった。

 朱衣は手を洗い、真白な息をかけて温めていると、近くの窓が開いた。

 中から顔を出したのは、眠た気な目をした色男だった。だらしなく開いた胸元、乱れた癖のある長い髪。

 昼間から寝ていたのだろうことが伺える。


紅晶こうしょう様」


「あー……朱衣」

 手をひらりと振って、紅晶がばつが悪そうに笑う。

 目の前のこの部屋はお針子が縫い物をする際に使う部屋ではなかったろうか。

 なぜここに、と聞く前に、部屋の奥で衣擦れの音と、さらに慌ただしく扉の閉まる音がした。

 なんとなく何があったのか察して、朱衣は顔を顰める。

「紅晶様、お戯れも大概にしたらどうです。第二皇子なのですから、もう少し自覚を持って……」

「あの子は俺から誘った訳じゃないよ。彼女の方から来たんだ。


 それともなにか、朱衣が俺を満たしてくれるの?」


 紅晶の緩やかに垂れた淡い茶の瞳が、西日を浴びて赤く輝く。

「それ、は……」

 言い淀む朱衣を見詰めながら、紅晶は煙管キセルくゆらせる。そして、二の句を継げずにいる朱衣を愛おしそうに笑った。

「もう! からかってるでしょう!」

「朱衣は相変わらず生真面目だな。そんなに真剣に悩まずとも、適当にあしらえばいいじゃないか。

 男と女なんてそんなものだろう」

「男と女って括りじゃないわ! 紅晶とわたしのことよ! ……適当になんか出来ないよ」

 雑巾を握り締めながら、朱衣は苦々しく言って目を伏せた。


「そう」


 煙管から煙が立ち昇り、朱に染まる空へと吸い込まれていく。

「誰を抱いても、満たされないんだ」

 紅晶は窓枠から、だらりと長い右腕を垂らした。

 紅色の袍の広い袖が捲れて、白い肌が露わになる。

 左腕を枕のようにして、朱衣を見上げながら紅晶は呟く。


「俺は丁度いい傀儡なんだ。腹違いの第二皇子。皇権は絶対俺の物にはならない。けれど、腐っても皇族だ。民からは恭しく頭を垂れて貰える。

 おまけに運良く子が産まれれば、子は皇になれるかもしれない。お陰様で女の子には困らないけどね」

「……紅晶」

「なーんてね。同情してくれた?」

 紅晶の頭に拳骨を落として、朱衣は頬を膨らませた。

「おバカ」

 紅晶は「痛い」と頭をさすりながらも、どこか嬉しそうに笑う。

「はいはい、おバカですよ」

「白麗、紅晶、碧英。三人が纏まれば、きっとこの国はもっと良くなるはず。だから、紅晶……」

「はいはい。……まあ、考えておくよ。そうだ朱衣、いいものあげるよ」

 窓にだらしなく寄りかかっていた紅晶は、部屋の奥へと姿を消した。

 朱衣が窓に近づくと、紅晶がすっと手を出した。

「あげるよ。あまり冷たい水に手を浸していると、綺麗な手がダメになる」

 朱衣が両手を皿のようにすると、掌より小さな、貝の形をした陶器の箱をそっと乗せられた。

「これ……」

 紅晶の白い腕が伸びてきて、窓越しに抱き寄せられる。

「頑張り者の朱衣にご褒美。ちゃんと塗ってね」

 彼の吐息混じりの甘い声に、朱衣は石のように固まってしまっている。

 紅晶が名残り惜しそうに体を離すと、熟れた林檎のように頬を染めた朱衣が、上目遣いに「ありがとう」と小さく呟いた。

「あー……うん」

 紅晶は頷くなり、背を向けてしまって表情が読めない。

 怪訝に思いながらも朱衣は袂に大切に忍ばせると、桶と雑巾を持ってその場を後にした。


 紅晶は朱衣に背を向けた後、赤くなった顔を手で覆った。

「やっべ……移った」

 壁に寄りかかって、そのままずり落ちた。

 仰ぐと、窓の向こうの空はもう藍色へと移り変わって、早くも星が煌めいているのが見える。



 朱衣が自室に戻ると、鳥は大人しく眠っていた。

 月明かりだけの暗い部屋は、すっかり冷えてしまっている。

 燭台と火鉢に火を入れる。すると、鳥の尾羽に当たった光が周囲に跳ねて、天井に星空を描いた。

「綺麗……」

 暫しうっとりとした後、我に返って雑巾を部屋の隅に干した。

 それから朱衣は手持ちの蝋燭立てに燭台から灯りを分けて、もう一度書庫へと入った。

 まだ白麗に頼まれた仕事を終えていない。

 だいぶ疲れていたけれど、まだ朱衣の一日は終えられない。

 日も暮れて真っ暗になってしまった書庫を奥へと進み、今度こそ白麗に頼まれた絵巻物を手にして戻ってきた。

 再び鳥の様子を伺ってから、白麗に届けに行くことにした。


 部屋を出ると、隣の白麗の部屋の前が物々しい雰囲気になっていた。

 朱衣が戸の前に居る兵に近付くと、鋭い眼光で睨みつけてくる。

「なにかあったんですか」

「朱衣殿、今は白麗様にはお会いできません。明日また出直してください」

「なにかあったのかを聞いているのです。教えてください」

 兵は、深く溜め息を吐いて、渋々といった様子で朱衣と向き合った。

「白麗様は熱があるようだ。既に医生いしゃが来て、診てもらっている」

「熱!?」

「……大丈夫ですよ、朱衣殿」

 戸を開けて声をかけてきたのは、髭をたっぷりと生やした好々爺だった。


茜彗せいすい医生せんせい


「お疲れでいらっしゃったのでしょう。熱とはいえ、いつもより少し高い程度。

 今は薬で寝ておりますので、明日には治りましょうよ。心配せずとも明日にはお顔を見られます」

 安堵で表情が緩んだ朱衣の肩を優しく叩き、茜彗はふぇっふぇっと独特な笑い声を上げながら帰って行く。

 その後ろを、弟子の少年、菫凛きんりんが一礼してから付いて行った。


 ここに居ても仕方ない。朱衣も絵巻物を抱え直して、兵に頭を下げてから、明日また出直すことにした。



 食堂で夕餉を食べて、共同の大浴場でお風呂を頂いて、朱衣が寝台に入ると、鳥が起きて一緒に寝台へと入ってきた。

「あら、一緒に寝る?」

 鳥は可愛らしく一鳴きすると、朱衣の頬に頭をすり寄せてきた。

「ふふ、くすぐったい」

 背を撫でてやると、気持ちいいのか目を眇める。

「あ、そうだ」

 紅晶に貰った軟膏を手に塗ると、朱衣は横になった。

「いい香りだね」

 鳥に言うと、応えるように鳴いた。

「ふふ。君にもわかる? なんの香りかなぁ。お薬と違うみたいだけど、葉と果物の間のような香りね」

 そして、また鳥の背を撫でる。


「君はどこから来たんだろうね」


 白麗も、碧英も、更には緑寧すら見たことが無いという。

 鮮やかな朱色の羽根、光を浴びてますます輝く長い尾。

 まるでこの世のものとは思えない美しさ。

 緑寧が言っていた言葉が、耳に蘇る。

 ――悪いことは言いません。一刻も早く、この鳥を追い出すことです。魅入られてしまう前に。


 魅入られる、とはなんだろう。

 この美しさに?

 

 確かに美しい鳥だけれど、国を亡ぼすようなほどの魅惑はあるだろうか。

 朱衣にはそれが引っかかって、納得できずにいる。


 月明かりが射し込む中、鳥の尾によって星が散りばめられた天井を見上げていると、隣の部屋の白麗の様子が気になってきた。


「白麗、大丈夫かな……」


 朱衣が不安そうな声で呟いたのが気になったのか、鳥が小さく鳴く。

「白麗ってね、昔から体が弱いの」

 それから朱衣は、鳥にこの国の話を、絵物語を聞かせるかのように語ってみせた。




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