最終日 七段目 希望
いずれその時が近づいた時、目に見えない物があたしを救った。
<クララ>
体中が軋む。
足も、お腹も、背中も、頭も、胸も、全部痛い。
それでも。
クララは痺れる右足を引きずるように歩いた。
荷物が重い。
腰の剣を外し、杖の様に使う。
塔の6階から、7階へ。
内階段を上る。
階段は螺旋状で、先が見えない。
明り取りの窓があるのが救いだ。
高い場所にいるからか、遠くの音がよく聞こえる。
まだ、独りじゃない。
左足を一段上にのせ、杖代わりの剣に体重をのせて右足を引き上げる。
這った方が速いかもしれないが、腰を曲げると、激痛が走る。
ここで動けなくなるのは御免だ。
まだ、やるべきことが残っている。
背中が引きつり、左の腰が悲鳴を上げている。
もって、あたしの体。
もう少し。もう少しだから。ここで諦める訳には行かないの。
肺が痛い。呼吸が苦しい。喉がゼイゼイと鳴る。
止めたい。止めてせめて座り込みたい。
少しでいい。そしたら、きっと回復する。
クララは立ち止まってしまった。
だって、寒いから。
温かい飲み物さえあれば。
あと、毛布。
他はなにもいらないから。
神様、お願い。
遠くで、音がした。
分かってる。
もう一度、左足に力を入れる。
セツエイの黒い鎧を思い出す。セツエイからもらったカゲツネを思い出す。セツエイの酒をあおる姿を思い出し、セツエイの最後を思い出す。
もう一歩。
アルミスの型を思い出す。アルミスの指輪を思い出す。アルミスの剣を思い出し、アルミスの快活な笑顔を、困ったような顔を思い出した。
もう一歩。
アイリののんびりした返事を思い出す。アイリの髪飾りを思い出す。アイリの弓を思い出し、アイリの黒髪と凛々しい口元を、愛らしい目を思い出した。
もう一歩。
老魔導士の蘊蓄を思い出す。老魔導士の鍵を思い出す。老魔導士の魔法を思い出し、老魔導士の愉快そうな笑い声を、頼もしさを、砕けた水晶を思い出した。
もう一歩。
トーマの無邪気な質問を思い出す。トーマの鉢巻を思い出す。トーマの予感を思い出し、長老を、師匠の話を、光る靴を思い出した。
もう一歩。
キーラの甘い香りを思い出す。キーラの指輪を思い出す。キーラの見事な飲みっぷりを思い出し、キーラの柔らかな笑顔と、綺麗な指先を、転がった杖を思い出した。
もう一歩。
シンベルグの無機質な顔を思い出す。シンベルグの苦無を思い出す。シンベルグのフワフワと浮いている姿を、変な笑い方と声を思い出した。
もう一歩。
遠くで音が響く。
もう一歩。
司書のおしゃべりを、司書の軽口を、司書の驚きを、司書の魔法の袋を、司書のくれたお金を、司書のくれた革袋を思い出した。
もう一歩。
大丈夫。
みんな。
あたしは行ける。
クララは、最終階に辿り着いた。
7階の部屋の部屋の扉は、開け放たれていた。
下の階と同様、中央に部屋があり、真ん中で仕切られているようだ。
下の階と違うのは、部屋の左手は、柱が等間隔に置かれ、壁がなく、そのままバルコニーにつながっているために明るく感じることと、右手に重そうで高価そうな緞帳、部屋の隅には甲冑、壁には剣や絵画が飾られていること。
絵画の大半は、人物像のようだ。
垂れ下がる緞帳は―垂れ下がる、という表現が相応しい―ところどころ破れて、隙間が空いている。緞帳の奥には、部屋がある。
何があったのだろう。
手前の部屋には、それらしいモノは何もない。
クララは、杖を突くのをやめ、右足を引きずり引きずり、部屋に入った。
奥の部屋の扉も開かれてはいるが、半開きのため、部屋の様子は良くは見えない。
入り口の扉に手をかけ、念のため、左右を見渡す。
右手の緞帳の奥が気になる。
目をこらす。
何か、塊があり、塊の随所がキラキラしている。
緞帳に沿って、ゆっくり進み、中を覗いた。
なにこれ。なんなの。
緞帳の奥は、地獄絵図さながらだった。
クララの伸長の倍ほどもある塊は、積まれた死体だった。
道中で見た死体の様に、四肢が切断されたり、裸だったりしている訳ではない。
きちんと服を着ていた。
高価そうな服を。
塊のあちこちに剣や槍が突き刺さっている。
床は、流れた血でどす黒く変色していた。
キラキラと光っていたのは、剣の刃や、死体が付けている宝石類だった。
ひどい。
ほとんど干からびているため、腐臭はしなかったが、異様な光景がもたらすそのおぞましさに、それ以上足を踏み出せなかった。
緞帳から手を離す。
ここではない。
奥の部屋へ向かった。
扉の正面に立たぬように、壁に寄り、片手でそっと半開きの扉を押す。
開く扉、開く視界。
一瞬身構えたが、矢は飛んで来なかった。
死体の山もなかった。
あるのは、玉座と、そこに座る王の姿だけだった。
王は目の前のテーブルに肘をつき、何か黒い箱のようなものに手を翳していた。
王の手が翳している場所から、黒い煙が、滝の様に床へ流れ、そして、滝の水しぶきのように跳ね上がり、空中に消えて行く。
ここがそうだ。
間違いない。
カゲツネを抜き、前に出る。
玉座の主は、死んでいるようだった。
前の部屋の死体同様、干からび、眼下は窪んでいる。
本来生気のあるべき、目の奥と、笑うように開かれた口の中は、闇だった。
玉座の後ろにある緞帳には、ブリリアントパークの紋章が描かれていた。
なんだろう。
壁にかかる宝剣、絵画、金の刺繍が施され、白いファーがついたローブ。
豊かさを感じる部屋なのに、とても寒々しかった。
清潔感とも違う。そういう意味では、黴臭く、あまり清潔な印象を受けなかった。
バルコニーから流れ込む、冷気のせいだろうか。
王。カシュワルク王。おそらくその人であろう玉座に座る干からびた死体の指にはめられた、金色の指輪が見える距離まで来た。
王の手の下にある箱―黒い箱―の口はこちら向きに開かれ、そこから無数の管が、王の体につながっていた。
これを、全て断ち切る。そして、箱を破壊する。
カゲツネを振り上げた。
王の歯が、鳴った。
『止めよ!』
脳に声が響く、体がビクリと反応し、思わず一歩下がった。
「な、なに?」
『止めよと申して居る。この愚か者が』
死んでいるはずの王の歯がカタカタとなり、それに伴って、脳内で言葉が響く。
これ、この感じ。シンベルグ伯爵や、長老、エカチェリーナ男爵夫人、黒緑の魔人と同じような…
『下賤の者よ。下がれ』
王が、明らかにそう言った。
振り上げたカゲツネを下ろす。
『ふううむむむ。それでよい。下がれ。余の邪魔をするでない』
「あなたは、カシュワルク王?」
『ちっ。下がらぬか。下賤の者に自ら名乗るとは口惜しいが、如何にも余はセル・エクス・カシュワルク1世なる。ここまで来たことを褒めて遣わす。下がり、世界が染まるのを座して待つが良い』
「それは出来ない。あたしは約束を果たしにここに来たのです。その箱から漏れ出る闇の空気が、人々を、大切な人たちを苦しめている」
『なんだと?苦しめている?余は苦しみからそなたたちを救おうとしているのだぞ?』
「救う?誰も救われていないし、そんなこと、お願いしていないです。その闇のおかげで、多くの命が奪われ、悲しみが生まれた。だからもう、断ち切らなくては」
『愚かな小娘よ。知った風な口を聞くな。聞け。この世は苦しみで溢れておる。生きることに対する苦しみ。貧しさ、暴力、争い。老いる苦しみ。動かぬ体、疎外、孤独。病の苦しみ。付きまとう痛み、満たされぬ心、生活の不安。死の苦しみ。死への恐怖、過ぎていく時、未練。余は王として、その苦しみから貴様らを救おうというのだ。有難く思うがいい』
「そんなことは、どうでもいい。いえ、違う。それは人として生まれたからには、どうしようもない、いえ、当たり前に受け入れること。それが、生きるということ。どんな状況でも、前を向き、必死に歩いていく。いつか死ぬまで。あなたにそれを勝手に決める権利はない」
『分からぬか。余は王位を継ぎ30年、国を憂い民を憂い、政を行ってきた。国は富み、生活は豊かになった。ところがどうじゃ。誰も余に感謝せず、民は愚かなまま、より多くを求める。商人は己が利益のために他人を騙し、蹴落とし、貯めた財で他人の道徳まで奪う。利を失うことを恐れ、人を苦しめることを厭わぬ。地方領主は腐敗し、己が一族の繁栄のみ考え、民を顧みぬ。民は不満を口にするが、それだけで、誰かにどうにかしてもらう事ばかり。多くの者がそう考えたら、誰も何もしないだけの事。余の一族や、高官たちも同じこと。王妃はどこの出自かも分からぬ馬の骨の子を孕み、それゆえ余の死を願った。余が気づいていないと思ってな。他の妾もそうじゃ。子と名の付く者は10人いたが、どれも余の子か信用出来ぬ。高官たちは、余の権力を盾に私服を肥やし、民を家畜の様に扱った。この世は狂っておる。闇に飲まれれば、すべての苦しみと悩みから救われる。余も、それ以外の人間達もな。だから余は、あの男と契約し、この箱の口を開いたのじゃ。今は、いい気分じゃ。余はも、老いることも、死ぬこともない。狂った世の中に悩まされることも、腐敗を目にすることもない』
「分からない。分かっていないのは、あなたの方。いえ、忘れたのかもしれない。この世は苦しみに満ちているとあなたは言った。確かにそうかもしれない。でも、それだけじゃない。素敵なことも、楽しいことも、希望もある。すべての人が、あなたの言うように、腐敗している訳じゃない。あなたはただ、闇の中に闇を見つけようとしただけ。闇が訪れるのは当たり前。だから、人はそこに希望の光を探し、あるいは自ら灯す。あなたは人の悪い部分を、悪い部分だけを探して掘り出し、自己満足と自己憐憫に浸っているだけだわ。あなたの孤独は、あなたが招いたのよ。あなたにも、希望や、楽しいことはあったはずだわ」
『うるさい!だまれ!』
「いいえ、黙らない。あなたは自分の思い通りに行かない世界に嫌気がさして、それを誰かのせいにしているだけ。孤独だったのね。誰もそれを理解したり、あなたを癒してくれなかった。可哀そうに」
『うるさい!だまれだまれだまれ!』
ゴゴゴゴゴゴゴ。
地震が起きた。
「いいわ。黙るわ。あたしにも時間が無い。もう、終わりにしなきゃ。人は弱い生き物かも知れない。でも、寄り添い合えば、助け合えば、許しの心を持てば、全ては変わるはず。人生は一度。人は必ず死ぬ。だからこそ、お互いに誰かのために生きなくてはいけないの。自分を見失わないように。孤独の縁で闇を見つめないように。あなたのように、あなたが言う腐敗した人たちの様にならないために。あなたは民のためにと言った。でもきっと、途中から自分のためになっていたのよ」
カゲツネを鞘に納める。
最後の仕事をしなくてはならない。
懐から、小刀を取り出した。
希望は、暗闇の中で、わずかな光を集め、輝いた。
細く、小さな光。
『よせ!もう間に合わん。地鳴りは大地が変わりつつある予兆。それに、もうすぐ余の柔順な兵が戻って来る。そうすれば、おまえの命はない。今なら間に合う。引き返すがよい。それとも、この箱の空気を吸うか?ここまで辿り着いた褒美に、余の傍に使える名誉を与えよう!悩みも苦しみもない。好き放題。気に入らなければ殺し、腹が減れば命をむさぼる。快楽の中で永遠の夢を見られるぞ!どうだ?悪くなかろう!』
「…悪くないわ。ただ、最悪なだけ。そんなの、あたしが望む世界じゃない。そんなの、生きていない。死んでないだけ。小さな喜びも、身を震わせるような感動も、心を暖め続ける愛もない。生きてて良かったと思える瞬間も、永遠に失う。だから、お断りするわ。あたしは、一生懸命に生きて死んだ人を、大切な思い出をくれた人たちを知っているの。誰かのために、その命を燃やしてこの世を照らし、暖めた人たちを知っているから。その人たちの、意志を継がなくてはならないの。あたしの、わたしの番だから」
箱に、死んだ王にゆっくりと近づく。
小刀を逆手に握り直した。
『止めよ!止めよ!誰か!来い!来てこの小娘を!止めろおおおお!』
「誰も来ないわ。あなたが遠ざけたのよ?」
クララは希望の光を箱に突き刺し、その口を閉じた。
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