最終日 五段目 美しい靴
美しい物を美しいと言い、
素晴らしい物を素晴らしいと言う。
世界は少しだけ、いい方に傾く。
<アルミス・ガラント>
空中回廊の先に扉があり、その先を抜けると、そこは王の塔だった。
神話の蛇、アルヌストの目にも例えられるその塔は、円錐状に伸びている。
部屋があるのは6階、7階。
塔の内部は1階から5階まで吹き抜けで、内壁に沿って石段が螺旋状に続いている。
広い。
クララが全力で反対側まで石を投げて、壁に当たるかどうか。
4階から恐る恐る見下ろした先は、地獄まで際限なく続く穴のようだった。
暗くて、1階の床は見えない。
螺旋階段に沿って、明り取りが配置されているが、階段を照らすほどの光量しか入って来ていない。
近くの明り取りの外、遠くから、微かに破裂音が聞こえた。
司書は、まだ、戦い続けているのだろう。
「行きましょう」
少しだけ、扉の内側で休むと、キーラが言った。
あと3階。
前に進むしかない道だ。
トーマ、クララ、キーラの順で階段を上る。
先を行くトーマの靴が、七色に光るのが、少し頼もしく感じる。
「この石の階段、手すりは石じゃないんですね」
トーマが言った。
キーラが答える。
「ええ。私も詳しくは存じ上げないのですが、この塔は、今の王家が作った物ではないそうです。百日砦のように、遠い昔から、ここにあった物に、くっ付ける形でお城を作ったとか。司書さんが言ってました」
そうなんだ。だから、立派な石段に対して、貧相とも思える木の手すりなのか。
もちろん、無いよりはあった方がいいが、なんとも心細い。
クララは石の壁側に手を沿わせて上った。
簡単にあと3階と言っても。
長い。
6階の踊り場まで、王城の階段の3倍はある。
まだ目標の三分の一も上っていない。
冷えた空気が喉の乾燥を早める。
クララは腰の水筒から水を飲んだ。
後ろのキーラに水筒を差し出す。
キーラは首を振って断った。
辛そうだ。
闇との境界に、只置かれたような木の手すりを掴み、体を引き上げるように上っている。
少し先にいるトーマが、振り返った。クララと目が合う。クララは頷いた。トーマが頷いて、足を止めた。
クララもしんどい。
太ももが張り、膝の上とふくらはぎが強張って痛みがある。
体を解すように、背中を真っすぐにしようとしたら、腰がなった。
肩の下辺りに圧迫感。
温かいお湯に浸かりたい、そう思った。
キーラが追いつく。
トーマが再び上り始めた。
そこからは無言。
5階と6階の半分ほどの場所に到着した。
クララは無言で膝を着き、膝の上とふくらはぎを揉んだ。
弱音を吐いてはいけない。そんなもの吐けない。ただ、目的地まで歩く。
足が、足がもてばいい。
真横にある明り取りから冷気が流れ込むのを感じる。
それと、やはり遠くの音。マキス川の時の様に、遠くで何かがボウッ、と光ったように見えた。
キーラが膝を抱えるように座り、その白く細い足を、ローブから出して揉んでいる。
休み過ぎると良くない。そう思って立ち上がる。キーラもきれいな足をローブに仕舞い、手すりを使って立ち上がった。
トーマに先に進む様に促す。
トーマが次の石段に足をかけた。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ。
地鳴りがした。
地震。うそ。なんで。
クララは必死で壁に掴まろうとする。
壁はつるつるして、掴みどころがない。
まともに立っていられない。
思わずしゃがみ込み、地面に手を着いた。
遠く踊り場の付近で、石段が崩れていく。
「あっ!」
キーラの声がした。
見ると、キーラの掴まっていた木の手すりが、境界線を外れて、外の闇に踏み出している。杖がその手から離れ、宙に浮いている。
キーラの体は、足以外、闇の中に投げ出されていた。
クララは、揺れが続く中、キーラの足に向かってダイブした。
折れそうなほど細い足首の腱を掴む。
そして。
腹ばいのまま一緒に引きずられた。
クララの視界に闇が、どん欲に全てを飲み込むその大きな口を開けていた。
爪先がこすれながら石段から離れそうになる。
落下する感覚に、クララは目を閉じた。
目の奥で頭痛がする。
あたし。
お尻と腰が痛い。
床が角ばっている。
死んでない。いや、死んだのか。それにしては、痛みがリアルだ。
目を開けると、石の天井。
これは。どこだ。確か、地震があって、キーラさんが落ちかけて、それに飛びついて、闇を見つめて。そこから先が分からない。意識を失っていたようだ。
お尻と腰の痛みの原因は分かった。
階段の縁だ。
石段に肘をつき、体を起こす。
そうだ。キーラさん。それに、トーマ。
まだ床にいることが半信半疑なので、石段に手をついたまま左右を見る。
足元、少し下の階段壁際に、キーラが横向きで横たわっていた。
クララは急いで立ち上がり、階段を下ると、名前を呼びながら揺さぶった。
「んっ…」
キーラが呻き、目を開けた。
良かった。生きている。
でも、なんで。二人共、階段から落ちたはず。
それが、今、ほとんど6階の踊り場近く。
「クララ…ちゃん?」
キーラが名前を呼んだ。
クララは、キーラの手を握り、聞いた。
大丈夫ですか。どこか痛みますか。
「いいえ。ツッ!」
大丈夫ですか?!
「ええ。本当に大丈夫。少し、背中が引きつっただけ。クララちゃんは大丈夫?わたし、地震で揺られて、落ちたはずじゃ…」
クララは頷く。そうなのだ。
「でも…ここは…夢…ではないわね。トーマさんは?」
クララはキーラが立ち上がるのを助けた。
分かりません。あたしも、今目が覚めて。
「そう…とりあえず、登り切りましょう。もう、先に行っているのかもしれない。それはそうと…」
なんです?
「手すり…ここだけ丈夫になってる…」
見ると確かに、キーラが倒れていた場所の手すりは、他の場所より厚く、何重にも撒いた縄で縛られている。
ふと振り返って見ると、クララが倒れていた場所も、そうだった。
分からない。
「行きましょう。慎重に。なるべく壁に沿って」
クララは頷いて、ほとんど階段に手を着くようにして上った。
少し上ると、踊り場が見えた。
もう少し。
しかし。
踊り場へあと10段ほどの所で止まる。
階段が変だ。
普通の石段ではない。
なんか、デコボコしている。規則正しい石の積み上げではなく、どこからか適当に運んで来た石を積み上げて階段にしたようだ。なんでここだけ。
クララは、足場が不安定な山道を登るように、一歩一歩、一層慎重に階段を上った。
踊り場まであと2段ほどだが、足元が滑りそうで踏み出せない。もし滑って、でこぼこの石を崩してしまったら。もしくは、滑った石が転がって、キーラに当たったら。
首だけ挙げて上を見上げる。
目の前少し先に。
何かが突き出ているのが見える。
石の棒?
クララは藁にも縋る思いで、宙に浮く石の棒に手を伸ばした。
軽く引いてみる。
重い。
これなら大丈夫。
その石の棒を引くように、体を引き上げた。
踊り場に倒れこむ。
着いた。
すぐに振り返って、キーラに手を貸した。
クララが引き、キーラが斜面を蹴った。
抱き合うように踊り場に転がった。
「大変な階段ね」
キーラが言った。
踊り場の明り取りは、階段脇の窓より大きく、踊り場全体を照らすのに十分な大きさだった。
次第に目が馴れる。
踊り場の上り縁に石像があった。
クララが掴んだ石の棒は、石像の右手だったようだ。
トーマ、いませんね。
キーラはクララの問に答えず、石像の顔に指を滑らせた。
「これっ!こんな…こんなことって…」
キーラの目に涙が溢れた。
クララは石像に近づいた。
石像は剣を佩いていた。
クララの指が震える。
石像は光る靴を履いていた。
クララの足が震える。
石像は中腰で右手を差し出し、左手に紙を筒状にして優しく握っていた。
クララの目頭が熱くなり、頬を、温かい液体が流れた。
石像は、トーマ、その人だった。
クララはその石の背中に手をかけ、額を当てた。
体全体が震えた。
嗚咽をこらえきれなかった。
正面から石像の顔を抱きしめていたキーラが、何も言わずに首を振り、トーマが握りしめていた紙を、左手からそっと引き抜き、開いた。
「クララちゃん」
キーラの呼びかけに、クララは両手を顔に当て、涙を拭った。
キーラがクララの横に立った。
明り取りの光で、茶色の羊皮紙に書かれた文章を読んだ。
〈からだがすこしづついしに なっていく やるだけの ことは
やつた もう みぎても うごかない くなる どうか さいごまで
あきらめずに さよう〉
字は乱れ、かすんでいた。
キーラが羊皮紙を差し出した。
クララはそれを受け取り、革袋にしまった。
「さようなら、トーマ。あなたは立派な剣士だったわ。お師匠様によろしく伝えてね。また、会いましょう。さようなら」
キーラが言い、奥の扉に歩き出した。
クララは最後にトーマの顔を目に焼き付けた。
さようなら、トーマ。
トーマの顔は、前を見て、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
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