最後の日 四段目 砕けた水晶

小さな喜びも、身を震わせるような感動も、

それに関わる誰かと、それを伝える誰かがいなければ、

生まれることはない。

<オーヴォ・アクイナス>


 2階から3階へ。

 大階段の続く限り駆けた。

 どれだけの距離があっても休まりはしない。

 速く。一刻も早く。

 追われる恐怖に怯えながら、目的地まで急がなければならない。

 王城ならではの長い階段は、足の力を容赦なく奪う。

 3階に上がる階段の途中で、老魔導士の足が止まった。

 腰を押さえている。

 クララと、トーマは無言で手を貸した。

 途中、2度ほど遥か階下で叫ぶような声が聞こえた。

 振り返らない。

 もう、そういった感傷が、当たり前のリアクションが許される場面ではない。

 3階に辿り着く。

 大階段で来れるのはここまでだ。

 真っ直ぐ直通で4階まで行けたらいいのだが、それでは外敵の侵入を安々と許してしまう。

 今のように。

 クララたちは老魔導士の息が落ち着くのを待つ。

 そういうクララも、相当きつい。

 肺が、喉が焼けるようだ。

 トーマが腰の水筒を一口飲むと、皆に回した。

 皆、一口ずつ口に含む。

「行くぞ」

 一番疲れているはずの老魔導士が、膝に着いた手を離し、腰を伸ばすと歩き出した。

 前の様に、強がり、とは思わない。思えない。

 それは、意志の表れだった。

 菱形を形成するような隊列で進む。

 先頭に老魔導士、左にクララ、右にキーラ。そして、最後尾にトーマ。

 3階から4階に上がる階段を目指して、真っすぐな廊下を歩く。

 大廊下、とも言える大きな廊下は、左手に複数の扉が並び、右手はガラス面。

 ガラス面の向こうに、廊下と同じぐらいの幅のバルコニーが、廊下に沿って作られている。

 所々にある、バルコニーへの出入り口は、開け放たれていた。

 バルコニーに人影も獣の姿もない。

 外からの冷たい風が、時にレースのカーテンを揺らす。

 後方から咆哮。

 そして、開け放たれた扉から、遠く爆発音が聞こえた。

 司書も、アルミスも、アイリも。

 そこで踏みとどまり、成すべきを成している。そう思うと、勇気が湧いてきた。

 摺り足だが、老魔導士の歩みは速い。

 クララは遅れないように時折小走りになった。

 締め切られた部屋側の扉の前を通るとき、扉を引っ掻くような音が聞こえた気がして、反射的に廊下の中央に寄る。

 キーラがそっと、腕を掴んで頷いた。

 クララは出来るだけ力強く見えるように頷き返した。 

 廊下の端までもう少し。

 暗闇だが、右手が全面ガラス面なおかげで、周囲の輪郭は薄ぼんやりと浮き上がって見える。

 廊下の向こう、別の廊下と交差する場所の奥に、階段が見えた。

 廊下と廊下が交差するところで、老魔導士が立ち止まり、左右を見渡した。

 何かの、音、声が聞こえた気がする。

 先ほどの扉の音の様に、空耳かもしれない。

 老魔導士は、再び歩き出した。

 4階へ続く階段を上る。ゆっくり、ゆっくりと。

 老魔導士が慎重になっているのが分かった。

 クララも音を立てないように続く。

 もうすぐ4階。

 視界が段上に辿り着きそうになると、老魔導士が伏せた。

 何か。いるのだろうか。

 老魔導士が振り返り、姿勢を低くと、手を下に振る。

 右に倣った。

 老魔導士が腰を折ったまま、下に数段降りて来た。

「いる」

 一言そう言った。

 キーラが階段に手を着き、伏せたまま段上の様子を見に行く。クララも続いた。

 トーマも、左から上がって来る。

 階段と上階の境界線から、そっと顔を出す。

 両側が部屋になった長い廊下の先が明るくなっている。

 どうやら、そこから外に出るようだ。廊下に比べて明るい。

 おそらく、王の塔に続く、空中回廊だろう。

 霧の日の月明りの様な景色の真ん中に、黒々とした塊が、あった。

 良くは見えないが、空中回廊のど真ん中にある塊は、必然、異物。

「確信はないが、ありゃ生き物じゃ。しかも、でかい。自然の生き物じゃない。神話に出てくるベヒーモスを思わせる大きさじゃ」

「あまり…動きませんね…」

 キーラが囁いた。

「そうじゃな。寝ているのかもしれん。だが、どうするか…」

「静かに、静かに近づいて、後ろを通ったらどうでしょう。僅かですが、回廊の手すりとの間に隙間があります」

「んんむむ。しかし、後ろを通っている間に目を覚ましたら厄介じゃ」

「どうせ寝ているなら、眠りの呪文で、より深い眠りにつかせては?」

 キーラが提案した。

「いや…それでも相当な距離まで近づく必要があろう。それに、精神系の魔法は、体が大きければ大きいほど、効果が出るまで時間が掛かる。どのみち、その距離まで近づいて魔法を詠唱するなら、素早く後ろを通り抜けるのと変わらん」

「じゃあ」

「ああ、そうじゃな。まずは廊下の端まで行こう。廊下の出口の壁の陰に隠れて、様子を伺うんじゃ。静かに、静かにな。風は向こうから吹いている。匂いで気づかれる心配はないじゃろう。音だけ気をつけるんじゃ。万が一、塊が動いたら、すぐに手近な部屋に入れ。部屋に鍵がかかっていたら、端に寄って伏せろ。トンネルの時を思い出すんじゃ。一方通行のこの廊下で、あのでかい塊と対峙する頃だけは避けるのじゃ」

 老魔導士が言い、皆が頷いた。

 中腰のまま、そろそろと階段を上る。

 クララはほとんど四つん這いになって続いた。

 回廊まで遮蔽物はない。

 廊下と回廊の境目にある壁を目指す。

 全員、左側の壁に寄って一列で進む。

 大きな黒い塊は、近づくにつれ、生き物感が増して来た。

 気のせい、思い込みかも知れないが、脈動しているように見える。

 廊下の端に辿り着いた。

 壁に背を着けるようにして、顔だけで空中回廊を覗く。

 毛のない、黒光りする皮膚に、角と爪。丸まって寝ているようだ。足元に何かが転がっている。複数の人間の体、兜にも見える。

 あまり、友好が結べるとは思えない。

「僕から行きます」

 トーマが小声で言った。

 老魔導士が頷く。

「気をつけろ。後ろを抜けたら、回廊を抜けてしまえ。待っていてもいいが、何か起きたら塔を上れ。よいか?」

 トーマが頷いた。

 そして空中回廊に這い出る。 

 四つん這いのまま進んでいたが、腰に佩いた剣が気になるようだ。 

 回廊の手すりに捕まり立ちすると、そのまま手すりに沿うようにすり足で進む。

 速く、早く。

 手を組み、祈る。キーラも同様に手を組み、トーマの後ろ姿を見つめていた。

 トーマが、塊の後ろに辿り着いた。

 今目を覚ましたら。

 思わず目を逸らし、老魔導士の手元に視線を落とす。

 老魔導士は、首に下げた神魔器の水晶を、両手で握り閉めていた。

「よし、やった!」

 老魔導士が小声で呟いた。 

 顔を上げると、トーマが塊の向こうに抜けていた。振り向かず、前に進む。そうだ。それがいい。

「わたしも行きます」

 キーラが言った。

 キーラは二人と目を合わせ、小さく頷くと、返事を待たずに回廊に出た。

 最初から立ち上がり、杖を抱えて前に進む。

 塊の手前で、右手でローブの裾を持ち、手すりの方を向いて、横歩きで後ろを擦り抜ける。さすがの度胸だった。

「クララ」

 老魔導士がクララの肩を叩いた。

 クララは頷く。行かなくては。

 クララは決心が鈍る前に、回廊に出た。思ったより明るい。雪のせいか、高所のせいか、目が馴れきったのか、過去一番明るく感じた。

 立ち上がったまま、手すりを左手で掴む。足元は雪が積もっていて、滑るように歩けば、音はほとんどしない。

 少し、風が出て来た。

 視界の右端に見える塊を、意識しないように前に進んだ。

 脈動している。ラーフを思い出した。灰色に黒い縞の飼い猫。ラーフが寝ている時の、お腹の様だ。

 よく見ると、毛のない尻尾が動いている。お伽噺の、悪魔の尻尾に似ている。もう少しで抜けられる。

「グオオオオオオ!」

 遠く遠くから、怒りの咆哮が、響いた。

 クララの足が止まった。

 目の前の悪魔の尻尾が、バシッと地面を打った。

 黒い塊の中央に、緑の光が、4つ生まれ、クララはそれをまともに見てしまった。

 こんなの。無理だ。

「ガアアアアアアアアアアア!!」

 4つの目の下で、太い針がびっしりと生えた口が開いた。

 歯だけ銀色に光り、口の中は真っ暗だった。

「クララ!下がれ!」

 後ろから誰かに引っ張られた。

 強い力で腕を引かれ、後ろによろめき尻餅をつく。

 クララと魔獣の間に老魔導士が立ちはだかった。

「クララ!逃げろ!廊下の部屋に入れ!」

 老魔導士は叫ぶが、クララは動けなかった。

 老魔導士の掌から火球が飛ぶ。 

 魔獣の体に当たった。

「ガアアアアアアアアアアア!!」

 魔獣が叫び、老魔導士に右手を振り下ろした。

 右に避ける。そこへ、左手が掻くように横から出された。

 老魔導士は、回転して避けようとする。

 しかし、左手の爪が、その背中を掻いた。

 ローブが引き裂かれる。

 老魔導士は転びはしなかった。 

 肉を抉られるままに、その場に踏みとどまると、魔獣の左腕を回り込み、その背中にしがみ付き、右手に持った水晶を魔獣の背中目がけて突き刺した。 

「ガアアアアアアアアアアア!!」

 痛みというよりは怒り。魔獣が叫び、体を激しくゆする。

「クララ!馬鹿もん!逃げんか!」

 老魔導士の足元の雪は、血で真っ赤だった。

 クララは尻餅をついたまま、後ずさった。

「行け!廊下まで!」

 魔獣がますます激しく身を震わせる。

 水晶が。

 水晶が魔獣の血を吸い取る様に赤く染まっていく。

 水晶が完全に赤く染まった。

 そして、弾けた。

 辺りに血が飛び散った。

 その瞬間、老魔導士の体が、力を無くしたように、魔獣の背中からずり落ちた。

 魔獣が、無言で振り返り、老魔導士の体を、爪で突き刺し、回廊の手すりの向こうに投げた。

「あああああああ!」

 クララは自分が叫んでいるのが分かった。

 カゲツネを抜き、魔獣に走り寄る。

 魔獣は老魔導士に与えられたダメージのせいなのか、棒立ちしている様に見えた。

 クララの捨て身の剣が、魔獣を突き刺す、前に、魔獣の腹から剣が生えた。

「ガアアアアアアアアアアア!!」

 それは、痛みと、悲しみの叫びに聞こえた。

 トーマの剣だった。

 クララは剣が突き刺さり、トーマに当たることを想像し、後ろに下がった。

 魔獣が剣を握ったまま、膝をつき、前のめりに倒れた。

 魔獣が倒れた先に、トーマがいた。

「クララ!大丈夫か?!」

 トーマが魔獣を回り込み、走って来る。

 魔獣はもう、動かない。

 これ。こんなこと。

 クララは口が上手く回らない。

 トーマは、クララの手を取って言った。

「行こう。ここで終わる訳には行かない」

 そして魔獣を見た。 

 クララと魔獣の目が合う。

 その目は、最初に会った時と明らかに違う目立った。敵意がない。

 魔獣が半身を起こした。

 トーマが徒手で構える。

 魔獣は起き上がる力が無いようだ。

 右手を後方、回廊の出口に向け、指を差すと、微かに頷き、そのまま前に倒れこんだ。

「行こう。行くんだ」

 トーマに引かれ、クララはその場を後にした。 

 

 

   

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