最後の日 一段目 賢者の贈り物

信じましょう。裏切られても。

それで傷ついても、大切な物を失うのは、あなたじゃない。

<アイリ・シルヴィス>


 その日は、早くに目が覚めた。

 囲炉裏で湯を沸かす。

 いつもは、早起きのキーラがしていた仕事。

 沢山のお湯を沸かし、体を拭き、お茶や珈琲、温かい飲み物の用意をする。

 温かいお湯で顔を、体を、首元を拭くと、随分さっぱりした。 

 昨日はそれどころではなかったから。

 侵食内のこの地域は冬だ。

 それでも、カシュワルク城に臨むうえで、一度体を綺麗にしたかった。

 思いは重なる。

 キーラ、アイリの順で起きてくると、テントの隅、目隠しの裏で体を拭いた。

 アルミスが起き上がり、テントの外に出る。

 クララとアイリは、アルミスの型が終わるのを待ち、熱いお湯で絞ったタオルを渡した。

 テントに戻ると、老魔導士、トーマ、司書が、それぞれ着替えていた。

 みな、さっぱりした気持ちで臨みたいのだろう

 朝食の準備がされる。

 この世で最後の食事、とは思いたくないし、思えもしない。

 ソーセージとキャベツ、ジャガイモ、根菜の切れ端を煮込み、塩と胡椒で味付けした物。ほのかにバターの香りと、なにかの酸味が加わっている。温まり、胃に優しく、食べやすい。もっちりした黒糖のパンの甘みが、スープの酸味を引き立てる。

 クララは、いつもより感謝の気持ちを込めて、食事をした。

 材料を作ってくれた、顔の見えない誰かに。材料になった生き物達に。作ってくれた、キーラに。そして、持って来てくれた司書に。

 シンベルグは久しぶりに食事の場に顔を出し、また何かの骨を齧り、いつの間に持っていたのか、竹の水筒で何か飲んでいた。

 食後の飲み物を飲む。クララはココアをもらった。とろみのある甘みが、喉を潤し、体を中から温めてくれる。

 片付けも終わり、各々準備を整える。 

 大きなテントの支柱を外そうとしたクララとトーマに、司書が言った。

「このままにしておきましょう。侵食が終わったり、万が一、撤収しなければいけない場合、役に立つでしょう。ここを目印に集まれる」

 みな、頷いた。

 囲炉裏の火だけ、灰をかけて落とし、テントを出る。

 幸か不幸か、雪は勢いを弱めつつも、降り続いていた。

 敵との遭遇は減るだろう。

 ただ、歩きづらくはある。

 王城の横の丘を下る。

 まっすぐ歩いて跳ね橋へ。

 橋を渡り切ったところで、司書とはいったんお別れだ。

 今生の別れじゃないから、悲しくない。それでも、橋までもっと距離があればいいのにと思った。もう一度、一から旅するぐらいの長さが。

 虚しいのは分かっている。ネガティブな願い、とは大概そうだ。明日学校が休みならいいのに。喧嘩した、あの子から謝ってくれたらいいのに。お父さんが死ななきゃいいのに。時間は、残酷だ。刻む、という言葉に隠された、正確さと妥協のなさ。

 雪が降ってるから。それで理由はつく。クララも、他のみんなも静かだった。

 橋を、渡り切った。

 城の外壁の内側に辿り着く。

 最後尾の司書が、荷物を下ろした。

 あらかじめ、小分けにした袋を、雪の上に置く。

「これは、食料と水、着替えなんかも入っています。お金も。後で、必要な物を取り出して、私の神魔器を置いておきます。便利な魔法の袋です。みなさん垂涎の。気づいた人が、持って行ってください」

 そう言って、両手を胸の前で組んだ。

「司書…」

 アルミスが司書に近づいた。皆、後を追い、司書を囲む様に立った。

「本当に、一人で大丈夫なのか?」

 アルミスが聞く。

「ええ。昨日お話した通り。もう一度は勘弁してくださいよ?こう寒くては、体力を消耗してしまう」

「でも…」

 アイリが言った。

「でも、じゃありません。皆さんが思うより私は強い。シンベルグ伯が助手を務めるそうですし。なおかつ、沢山の魔法の道具があるんです。それだけじゃない。実は、召喚札もかなりの数あります。アイリ殿が持っているのより、長い時間召喚できる札です。中には、伝説クラスの騎士や神獣、野獣が入っています。賢者ギルドからパクって来ました。なので、全部使って証拠隠滅です。分かったら、さっさと行ってください」

 司書は、野犬を追い払うように手を振った。

 アルミスが雪を踏みしめ、司書に右手を差し出した。

「ここを頼む。また会うだろうが、ここで礼を言わせてくれ。ありがとう」

 司書がアルミスの手を握った。

「礼を言うのはこちらです。アルミス団長。あなたに会えて、本当に良かった。また、会いましょう」

 二人は、右手で力強く握手したまま、目を合わせた。司書が頷き、アルミスが頷く。二人の手が離れた。

「司書…」

 アイリが右手を差し出す。

「アイリ殿」

 司書が手を握る。

「いろいろありがとう。アタシ、もっと本を読めばよかった。そうしたら、もっと多くの知識を得て、もっと多くの友人に会って、アルミス様のために、もっとなにか出来たかもしれないから。それを教えてくれて、ありがとうございます」

 暗闇でも涙は分かる。アイリの口調はしっかりしていたし、暗くて表情は読めなかったが、その頬には一筋の光が、薄明かりを反射していた。

「ええ。本はいい物です。知識と、勇気と、希望をくれる。また、読めますよ」

 アイリがフフッ、と笑って二人の手が離れた。

 老魔導士がローブの袖をめくりながら、司書に歩み寄った。

「もっと、いろんな事を語り合いたかったな。ここにいる、他の面々と共に。この歳になって言うのも恥ずかしい話だが、ざっくばらんに話し合う、語り合うことの喜びを忘れておったよ。いいもんじゃな、仲間と旅をするというんは。ありがとう」

 力強い握手。

「魔導士殿のお話は本当に面白かった。また聞かせてください。夏風の橋で会いましょう」

「そうじゃな。いつか、クララとトーマが大人に成り、酒を飲めるようになったら、夏風の橋で酌み交わそう」 

 握り合った手が離れた。

「し、司書さん…」

 これは、ヤバい。ずるい。キーラは、もう、だだ漏れ。フラフラしながら司書に近づいていく。

「キーラ殿」

 キーラが差し出したまま、ふるふるしている右手を、司書の右手が捉えた。

「わ、わたし、お山育ちなもので、ずっと神殿で暮らしてたから、こういうとき、なんて言っていいのか分からなくて、それで…わ、わたし…悲しいとかじゃなくて、なんか、涙が勝手に…」

 司書が空いている手で、キーラに布を渡す。キーラは受け取って、目に当てた。

「いいんですよ。ひと時の別れでも、悲しくなることはあります。そういう時は、思い切り泣くんです。悲しい気持ちを、涙と一緒に流すんです。そして、次に会うことを考えるんです。そしたら、泣いてたのが恥ずかしくなって、笑顔になりますよ」

「はい」

 キーラはか細く答えて、握手した手を上下に振ると、手を離した。

 トーマが、クララの横から司書に歩み寄る。

 トーマはズボンで手を拭いてから、手を差し出した。

「師匠の話を聞いてくれてありがとうございます。あと、僕の予感を信じてくれて。この旅で、師匠以外にも尊敬できる人に沢山会いました。友達も出来ました。あ、と、司書さんは、その、尊敬出来る方の知り合いです!」

 司書が笑って手を握る。

「知り合い?長老は友達で、私は知り合いですか?なんか残念だな」

「え?あ、じゃあ、友達でもいいですか?」

「いいよ。我が若き友よ。君の真っすぐさは、皆に勇気をくれたよ。大いに旅立つがいい」

「はい。ありがとうございます。我が博識の友。尊敬しています。本当に」

「それじゃあ、その尊敬に甘えてひとつお願いしてもいいかな?」

「なんです?」

「シンベルグ伯も友達と呼んでくれ。出会いが先なのに、長老は友達でいいなあ、と夜な夜なぼやいてたんだ」

「そうねんですか?!もちろん、シンベルグさんとも友達です!」

 みんなが笑った。そして、シンベルグと順に握手した。

 クララが進み出る。

 クララもズボンで手を拭いた。手汗をかいていたから。

「クララ殿」 

 司書が手を差し出した。

 クララが手を握る。その手は、ひんやりとしていたが、大きく、包み込む様で、握手の仕方がとても優しかった。

 ありがとうございます。必ず、約束は守ります。

 司書は目を細めると頷いた。

「いいことです。約束するのも、守るのも。クララ殿は沢山の人と約束しましたから、大変ですが、必ず守って下さい。それが、クララ殿の心を満たし、約束した人たちの心を温かい気持ちで満たす。約束です」

 約束します。どうか…必ずまた会うと約束してください。

 司書は意表を突かれた顔をした。

「おお。そう来るとは…参りました。約束します。どのような形であれ、また会います。必ず」

 手が離れた。

 みんな笑顔だった。

 ふと、昔習った詩が、頭に浮かんだ。 

 春が訪れ、花が咲き乱れる。誰が知る、花の下の悲しみを。

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