6日目 雪上の舞
6―3「罪と過ち」
他人に良かれと思って行動したなら、過ちだろう。
積極的に、自らの意志で、ただ自分のために選択したのなら、罪だろう。
前者は可哀想、なんとかしたい。
後者は可哀想、でもしょうがないんだよね。
<聖ジュピター>
まだ燃えている骸骨剣士の脇を、足早に通り過ぎる。司書の一撃で吹き飛んだ一体の脇も過ぎ、一行は再び闇だけが支配する世界に舞い戻った。争いのあった場所からなるべく距離を取ろうと、しばらく無言で急ぐ。大きな岩の陰を回り、焚火のように燃える骸骨剣士が、直線上の視界から消えると、一息吐く。
隣でキーラが「あっ」と声を漏らした。クララにもその理由はすぐに分かった。瞬きしたまつ毛に、冷たく重みのある物質がちょこんと乗る。雪だ。
「行くぞ。急ごう」
アルミスが号令し、歩き出す。先ほどよりペースは遅く。でも、今までの道中よりは速く。舞い落ちるだけだった雪は、歩を進めるごとにぶつかるように降ってくる。一秒に2、3粒。十歩歩いて、一歩に十粒。倍歩いて、更に倍の粒。ちょっときつい。
後ろから駆け足で追いついてきた司書が「はい」と言ってなにか白い毛布のような物を差し出した。キーラにも渡し、そのまま駆け足で老魔導士、トーマ、アイリに順に渡していく。
一人アルミスには別の何かを渡している。クララは立ち止まって布を広げると、それは大きめのマントだった。下の方に変なでっぱりが付いている。これはなんだろう?小首を傾げてみていると、最後尾に戻りつつある司書が小声で「逆です」と言った。ああ。フードか。クララは慌てて上下を逆にし、頭から羽織る。フードを被り、前部分の布を合わせ、紐で縛る。うん。随分暖かい。
それに、フードのおかげで頭に降り積もる雪が気にかからない。一度顔を拭う。掌に水滴がびっしょり付く。濡れた手を、マントで拭き、すでに歩き始めたアルミス、アイリの先頭集団を追った。
真っ暗とは言えない、程度の薄明りの中、白い塊は、降りしきる雪に覆われ、同化している。クララは、司書がアルミスに渡した物がなにか知りたくて、早足で先頭に追い付くと、アルミスに尋ねた。
アルミスだけが、マントを羽織らず、いつもの銀の鎧に、今はフルフェイスの仮面を着けている。
アルミスは歩きながら、にっこり笑って仮面を外すと、被ってみるように言った。
足取りは止めず、フードを後ろに外し、言われるまま被ってみる。
最初は何も分からなかった。しばらく歩くと、気づいた。雪が頬に当たらない。
不思議に思って顔を撫でるように仮面の表面を触ると、透明で分からなかったが、なにか薄くて、その割にしっかりした布のようなものが、仮面の表面、顔と握りこぶしひとつ分の距離にあるのが分かった。へえ、と感心して仮面をアルミスに返す。アルミスは、頭を一撫でして雪を落とすと再び仮面を被った。
「もうあと1時間。頑張れるか」
仮面の向こうからくぐもった声で聞かれた。表情は見えないが、労わる様なその優しい声に、クララは心が温かくなった。うん、と頷いて、少し待ってキーラの隣に戻る。歩調はゆっくり―にならざるを得ない―が確実に前進を続ける。
雪はますます激しくなってきた。いつか止むのだろうか。クララは俯き加減に上目使いで前進する。頬に雪が当たるのはしょうがないが、口に入るのは何故かいやだ。口元をぎゅっと引締め、鼻で息をする。そうして螺旋状に迫ってくる雪を見続けていると、気がおかしくなりそうで、時折皆の様子を見る。
先を行くトーマと老魔導士のマントは雪で覆われて、あまり区別がつかない。老魔導士らしい右の塊が、雪に足を取られて滑った。尻もちを着く。慌てて駆け寄り、起き上がるのに手を貸した。
「すまんの」
老魔導士はいつになく小さな声で呟き、杖を突いて体を起こした。顔に血の気がなく、頬と鼻だけが赤い。辛そうだ。何とかしたいが、特に思いつかない。後ろから司書が追い付いてきた。
「もう少しです。頑張りましょう。これ、履いて下さい」
積もった雪に膝を突くと、巾着から何か取り出した。棘とげの付いた金属の輪っかだった。
「靴の裏に縛り付けると、滑りにくくなります。人数分ありますから、皆付けた方がいいでしょう。すいません。もっと早く出せば良かったのですが、考え事していて」
雪で消耗しているのか、陽気さの欠片もなく、淡々と話す。誰も軽口も叩かず、大人しく受け取ると屈んで靴に縛り付けた。一度腰を落とすと疲労が一気に腰に来る。それでもさっき励まされたばかりのクララは、一番先に立ち上がった。わたしが出来る事をする。そう思って、先頭に立って歩き始める。一歩踏み出したその時、雪と雪の隙間に、小さな塔のようなものが見えた。あれは。監視塔ではないか。振り返って皆に伝える。
「確かに」
アルミスがホッとしたように認めた。口ぐちに喜びを表現する。流石に雪の中を2時間も3時間も歩くのはしんどい。シンベルグがうへへへへ、と弛緩した笑い声を漏らした直後、キーラが怪訝そうに聞いた。
「あの。塔の方から何か近づいてませんか?」
確かに。最初、前方から降ってくる雪かと思ったが、立ち止まっている今、雪は真上から降っている。だがしかし、キーラが指さした先から、白っぽく光る何かが、まっすぐこちらに向かって来ている。久々に登場の司書の遠眼鏡が、その正体を捉えた。
「まずい!」
そんな気はしていた。このまま辿り着く気がしなかった。
「サーベルタイガー!」
「あれも君たちの友達だよ」
シンベルグが目の前で両手を筒状にして言う。
「サーベルタイガーに友達はおらんよ」
老魔導士がやれやれといった感じで応えた。
「じゃあ、元友達」
そういうことではないだろうが、言わんとしていることは理解した。城か監視塔で飼っていた犬な猫なり、それとも虎なりが闇に堕ちた変種、ということだろう。
サーベルタイガーか。雪のせいだけではない気の重さを感じる。さきほどの骸骨剣士の集団とは違い、遠目にも動きは俊敏で、しかも一体二体の数ではないようだ。
幸いにもまだ距離はある。
クララはアルミスを見た。アルミスは顎に手を当ててサーベルタイガーの群れを見ていたが、ひとつ頷くと後方に顔を戻した。
「今度は先ほどのようにはいかない、と思う。だが、ここで終わるわけにはいかない。まず、オレが先頭で距離を取る。囲まれても手助け無用。逆に近づくと危険だ。横のラインを意識して、なるべく数を引き付けるから、利き手と逆方向の敵をアイリが弓で打ってくれ。トーマはアイリの左手で、更にその打ち漏らしを頼む。正面に立たず、鼻か足を狙え。一撃で倒そうとするな。魔導士殿はなるべく連射が効いて、動きを止める効果のある魔法をお願いします。先ほどの火球は危険でしょう。燃えたまま跳ねられたら、こちらが危険です。キーラは眠りか、使えたら喪失の呪文を。対人間用のでもかまわん。多分、時間は短いが、シンベルグの言うとおり、フォーリナーだとしたら、多少は効く。一体ではなく、連続して数体にかけるよう頑張ってくれ。寒くて詠唱も大変だろうが。クララは魔導士殿とキーラの間に立って、その二人を守れ。出来るな?」
クララは頷く。今グッと来ているのは、明らかに期待されたからだ。アルミスが続ける。
「司書は遊撃。ここまで来て言うのもなんだが、多分お前さん、相当強いと見た。剣ではないかもしれんが、なにかあるのだろう。期待している。オレ以外、全員を守ってくれ」
「分かりました。ですが、ひとつ」
司書の言葉にアルミスが被せた。
「分かっている。死ぬつもりはない。死ぬ気で戦うだけのこと。そうすると、とても他人に目がいかない。だからお願いしたのみ。あと、あれか、死ぬのもそうだが、神魔器もここじゃない、そう言いたいのだろう?」
「そのとおりです。まだここじゃない。ここは、我々なら切り抜けられます」
「力強いな。さて、残るシンベルグだが」
「えっ、わたくしですか?」
「そう。シンベルグ卿にもご出馬いただく。いや、助けてくれないか。この通り」
アルミスが腰を折って頭を下げた。シンベルグは笑わなかった。その陶器のような白い顔の表面を、水滴がつたった。
「も、もちろんです!やります。でも、わたくしは、アルミス将軍に指示をいただきたい。ご命令ください」
シンベルグはマントを右手でさっと一振りすると、高さを増す雪の上に片膝を突き、頭を垂れた。
「ありがとう。シンベルグ卿。闇の貴公子。卿にはオレとクララの中間地点で、敵に水晶の手裏剣を投げて欲しい。出会った時の手裏剣の飛距離を考えると、相当遠くまで正確に飛ばせるのは分かってる。よろしく頼む」
「かしこまりました」
もう一度頭を下げて、シンベルグは姿勢よく立ち上がった。
「よし。全員近づきすぎるなよ。無理と見たら後退し、負傷したらキーラか司書を頼れ。状況に応じて安全な方を選べ。例え退いても、生き残ることを優先に行動するように。生死をかける一戦は、ここじゃない」
皆力強く頷いた。アイリが震えた声で言った。
「それは、アルミス様もそうなさる、そう信じていいのですよね?」
アルミスはクックッと笑いながら答えた。
「アイリ。忘れたか?オレは北の巨人だぞ。自分一人のことを考えた時、オレが死ぬと思うか?」
表情は見えないが、その声には凄まじい自信と真実が含まれていた。
「いえ!そうでした。あたし、アルミス様の指揮で敗けたことないですから!」
「では、やるか」
ハルクの筆頭騎士はそういうと剣を手にしたまま伸びた。降りしきる雪を背負ったその姿は、まさしく北の巨人。アルミスは頷きながら前に向き直ると滑るように雪を切り裂いて前進した。サーベルタイガーの群れは、親指と中指で作った輪っかと同じくらいの大きさにまでなっている。距離を考えるときっと牛くらいの大きさはある。ぶるぶるっと背筋が震えた。でも、エカチェリーナの時感じたような絶望はない。やるべきことをやってやる、そんな気持ちが、体を熱くする。外気とのギャップが、今の武者震いだ。アルミスはどこまで行くのか、二十体近いサーベルタイガーとの距離をどんどん詰める。あと二、三数えたらそのままぶつかるのでは、という距離で急に立ち止まると、その大剣を腰の横に引いてかまえた。正面の三体ほどが跳躍する。向かって一番右側の一体の横腹を、アルミスの大剣が叩き、空中で三体ひとかたまりに横に弾き飛ばす。弾き飛ばされた三体の進行方向には、少し遅れて走っていた十体ほどの群れがいた。ぶつかったり、避けたりで群れの半分が減速し、二体を残して止まる。跳躍して避けた二体の内一体が、空中でのけぞった。雪に紛れて良くは見えないが、額の辺りから血のような液体が噴出している。これは、アイリの弓矢の技量のなせるわざだろう。残る一体は、鬼のように大剣を振るう影を恐れたのか、単に減速出来ないだけなのか、そのままのスピードで突進し、こちらに向かってくる。左目の端で、アイリが矢を番えたのが見える。間に合ってほしい。矢が放たれた。こちらに一心不乱に駆けていたサーベルタイガーは、急に止まる。その鼻先を矢が通り過ぎた。外れた。サーベルタイガーは、あきらかにクララを見つめていたが、くるりと右を向くと、アイリとトーマに吠えた。アルミスは十体ほどの群れを、囲まれないように横と後ろの動きを組み合わせて、少しづつ削り取るようにいなしている。右斜め前の二頭の脚に切り付け、すぐに正面の一頭の目を突き、そのまま大剣を滑らせて左斜めの三頭の額辺りを横に薙ぐ。後ろは向かず、バックステップで三歩下がり怯んだ敵前衛の後ろから踊り出る二頭を剣で叩き、後退させ、跳躍の一番激しい一体の頭を真っ向唐竹割で絶命させる。それは残りの三頭の動きを躊躇させるのに十分な流れるような動きだった。すべてがあっという間で、全てがスローモーションのようだった。アルミスが相手にしている十数頭、アイリ、トーマが倒し、相対している二頭の他、後ろを走っていた七頭ばかりは、今アルミスの横を遠巻きに通り過ぎ、弧を描くような筋道でクララ達後衛に向かって来ている。個体差のせいか、少し小さく、遅いようだ。それでも十分クララよりは速い。それは分かる。右三時方向、二十メートルの距離。一瞬立ち止まり、アルミス、アイリ達とクララ達一団を見比べ、こちらに向かって大声で吠える。ごおお、とその雄たけびは空気の塊と化し、まず腕、続いて頬、耳と震えを伝える。負けじと右斜め後ろで老魔導士が大声をあげる。この老体のどこにそんな声を出すパワーがあるのか。クララは大きな気合に前後を挟まれて苦しくなる。すぐにクララの右側を、大声と共に冷たい空気の塊が通り過ぎた。地面を這うような白いボール。走りだそうとした先頭の一頭にぶつかって、空気の塊は横に弾けた。七頭のサーベルタイガーの内、ほぼ横一直線に並んでいた五頭の膝丈辺りまでが白い壁で覆われる。低空のアイスウォール。五頭は前脚を氷の壁で固められてしまった。残る二頭はすぐに状況を察したのか、壁に囚われてもがいている五頭の両脇から前に出る。待ってましたのタイミングで、今度は左斜め後ろから、吹雪でも響く鈴音のような凛とした声。キーラが鋭く「えいっ」と叫ぶと、振り向けないクララの横を、紫の炎が通り過ぎた。一瞬遅れて甘い香り。瞬く間に距離を詰め、眼前10メートルにまで迫っていた二体の頭を、紫の炎が包むと、二体は急に頭をさげ、雪に向かって突っ伏した。今だ、と分かった。躊躇したのは、一瞬の更に一瞬。もうアルミスの戦いぶりも、アイリの弓の技もトーマの勇気も眺めている場合ではない。自分がやるべきことをやる番なのだ。ぎくしゃくはするものの、右足を踏み出したらすべての動きが決まった。雪に足を取られ、転びかけて左手を前に突く。すぐに地面を叩いて走り出す。キーラの魔法で寝ている二頭。それがクララの倒すべき相手。右か、左か、どっちが先だ。剣が右だから右、いや、違う。左を先に倒せばその間に右が覚醒しても利き手で十分対処出来る。走りながら両手で剣の柄を握りしめ、頭をフリフリよろけている左の一体の頭に叩きつけるように振り下ろす。クララは自分でも意識せず叫んでいた。ぐしゃり。骸骨剣士とはあきらかに違う、肉、液体の構成する重量感を叩く反動が腕に走る。無我夢中。右手の一体が自分にのしかかり、首筋に噛み付く恐怖を妄想すると、最初の一体への止めなど確認出来ない。半狂乱の内に、右手だけで剣を横に払う。ガツン。音がして剣が固い木の幹を叩いたような感触。ぎゃうん、という鳴き声は、倒すべき相手にも関わらず、なんとなく哀愁を誘った。腕が痺れて剣を離してしまう。やばい、やられる。目をつむり両手を交差させ、くるべき衝撃に備える。きゃうん。もう一声悲しい鳴き声がすると、周りの空気が落ち着いた。恐る恐る薄く目を開くと、手を伸ばせば触れる距離に、サーベルタイガーが眠るように横たわっていた。左脚にクララの剣が斧のように刺さり、両目と額の真ん中に水晶の苦無。なるほど、シンベルグ。擦れ違いざまに後ろから肩を叩き、ローブ姿の男が走り去って行った。司書は前方の五頭を目標としているようだ。前方の五頭は、老魔導士の作った氷の壁を、皮と肉を剥ぎながら抜ける努力をし、その代価に相応しい自由を得ようとしていた。猛り狂ったその声は、おそろしい程の怒りを含んでいる。血と涎をまき散らす狂気の姿は、それだけで脅威だ。左手から聞こえる怒鳴り声と唸り声の応酬も気になるが、どうにも不安で五頭のサーベルタイガーと相対する司書から目が離せない。はっと気づいて背中に手を回す。カゲキリのひんやりした作りが、力強く触る。今はまだ。急いで倒れたサーベルタイガーに食い込んでいる自身の剣を抜き取る。司書が五体のサーベルタイガーの手前で、雪を跳ね上げながら止まった。サーベルタイガーに雪がかかり、数体が反射的に目を背ける。司書は先ほどの戦闘でも使った棒状の武器を最右翼の一頭に突き出した。ずばっ、ピカッ、キャウン。サーベルタイガーは、はるか後方闇の中に姿が消えた。続いて棒を引き戻し、横の敵に叩きつける。雪を払うように顔を振っていた一頭はグフン、と音を漏らして崩れ落ちる。三頭目、真ん中の一体は、魔法の直撃のせいか右の前脚が氷の壁から出きらず、威嚇するように咆哮した。司書は無言で左手を指を揃えて突き出す。キラリ、何かが光ったように見えた。サーベルタイガーは吼えていたその口を閉じ、ブフッと血を吐き出して頭を垂れた。仲間が順に倒されるのに臆したか、横の一体はようやく抜け出た氷の壁を跨ぎかけてあとずさる。
しかし、すぐに本能が目を醒ましたようで、司書の左足に向かって口を開き、齧りついた。司書は読んでいたように左足だけ引く。サーベルタイガーの咢が閉じられ、宙を噛む。丁度かみ合った拍子に、司書が右足でその顎を蹴った。勢い、サーベルタイガーは仰け反るように跳ね上がり、どうっと地面に倒れこんだ。瞬く間に。流れるように。すべてがシナリオのある演劇のように。クララは剣を構えるのも忘れ、司書の動きに魅せられていた。目の前で司書がサーベルタイガーの顎を蹴り飛ばし、その右足が華麗に残像を残している。それはまるで雪の舞台で舞を踊っているようだった。何者だ。意外な動きに驚きを隠せない。残る一頭をどう倒すのだろう。クララは期待と共に注視し、次の瞬間、両膝から崩れ落ちた。司書は、一回転してサーベルタイガーを蹴るでもなく、不思議な武器を使うでもなく、ゆっくりと残る一体と相対するでもなく、右足を高々上げた姿勢のまま、後ろにスっ転んだ。あれは。あの蹴りは。転んだ拍子のラッキーキックか!残る一頭が、転んだ司書に大声で吠えかかる。こころなしか、笑声に聞こえた。それどころではない。クララは片膝を立て、雪を蹴って走り出した。何かの気配が体の左右を通り過ぎる。まず左。紫の炎と、魔法の持ち主の甘い香り。続いて右。冷たい空気の塊と、老いを感じさせない気合。司書に向かって後ろ脚で立ち、今まさに振り上げた前脚を叩きつけようとしていたサーベルタイガーは、まず紫の炎に包まれ、硬直し、続いて冷気の塊を受け、そのままの姿勢で彫像のように文字通り固まった。司書は両手を後ろに着き、見上げるようにサーベルタイガーの彫像を眺めている。クララはほうっと溜息を吐き、ゆっくり司書に近づいた。司書はクララの気配に気づき、下からクララを見上げると、にこりと笑ってこう言った。
「完璧ですね」
深く深呼吸。肩から力が抜ける。クララは司書に右手を差し出した。司書は肩をすくめ、素直にクララの手を取る。司書を引き起こしながら左手を見渡すと、アルミスが血糊を落とすように剣を振り、歩いてくる。その少し後ろで、アイリ、トーマが肩を叩きあっている。司書の視線の先、クララの後方では、老魔導士が雪の上にどっかと胡坐を掻き、傍ではキーラマイが労わるようにその肩に手を置いている。シンベルグはどこで拾ったのか、長い木の棒を引きずるようにしながらその周りをグルグル回っている。木の棒が雪の上に残す跡が、魔法陣の様だ。終わったのだ。乗り切った。クララは確認を求める気持ちで司書を見た。司書は目線を下に落としている。クララは司書の視線の先を追ってハッとした。手。握りっぱなし。慌てて振るように手を引きはがした。司書は傷ついたように眉をしかめた。
その瞬間、付き合い初めのカップルのような二人の横を、なにかがゆっくりと通り過ぎた。慌てて引きはがした手にふぁさりとした触感。ぞわぞわと鳥肌が走る。
少し遅れて、立ち眩むような、際どい嫌悪感のする腐臭。猫のようであり、そして遥かに野太い喉が鳴る音。言葉にならず、司書の手を握る。怪訝そうな司書の目。気づいていない。喉が引きつって声が出ず、握った手で必死に訴える。せめて後ろなり横なり見て状況を伝えたいが、首が回らない。状況は、キーラの悲鳴で打ち破られた。
「きゃああっ」
体はまだ強張っていたが、条件反射的に声のする方を見ることは出来た。
「うおっ」
続いて老魔導士の驚きの声。
「しまった。浅かったか」
呟くと司書はつないでいたクララの手をほどいて走り始めた。クララは思わず空いた手を胸の前で組み合わせる。先ほどクララの後ろを至近で通り過ぎた生き残りのサーベルタイガーは、老魔導士の上に覆いかぶさり、その喉元に食らいつこうとしている。真横にキーラが倒れている。アルミス、アイリ、トーマ、司書は等距離でそこに駆け寄っている。サーベルタイガーが口を開き、頭を引くと老魔導士の首に噛み付こうとした。老魔導士は両腕を突き出してその咢から遠ざかる。ガチッ、と音がして、サーベルタイガーの牙が宙を噛む。サーベルタイガーは圧し掛かったまま一度首を振り、大口を開けて牙を剥くと、今度は頭を目がけて噛み付こうとした。突っ張っていた老魔導士の腕が、少しずつ体の方に押されている。駄目だ。あの距離では。クララは思わず目を閉じる。ガチン。牙と牙が合わさる音ではなく、どちらかと言うと金属質な音がした。恐る恐る目を開く。暗くてよく見えなかったが、サーベルタイガーの口が半開きのまま、老魔導士の頭のほんのちょっと上で止まっている。口元に何かを咥えている。ほとんど透明で、薄っすら光を反射している。目を瞑る前と違うのは、その口元と背中の上の黒々とした塊。あれは。シンベルグ!シンベルグはサーベルタイガーの背中に跨り、その口の両端に手を回している。サーベルタイガーは口に咥えさせられた棒を噛みきることも、吼えも、背中に乗った何者かを叩き落とすことも出来ず、もどかしげに口元を右前脚で掻き、無駄と悟ると、後脚で立ち、背中の異物を振り落そうと身を震わせた。2メートルはある巨体が立ち上がる。そこへ滑るようにアルミスが走り寄り、そのままの勢いで露わになった腹に剣を突き刺す。サーベルタイガーはビクリ、と硬直し、押されるように後ろに倒れた。いつの間に離れたのか、仰向けに倒れたサーベルタイガーの上にシンベルグがヒラリと舞い降りる。クララはよろけるように老魔導士の元へ向かった。すでに老魔導士の横には、司書が片膝をついている。キーラは、トーマの手を借りてゆっくり立ち上がった。少し前後に揺れている。ようやく辿り着いたそこは、雪を染める黒々とした液体と、獣の匂い、そして甘ったるい腐臭に満ち溢れていた。
呼吸が浅くなるが、冷たい風が吐き気を押しとどめてくれた。老魔導士のローブも、首から下が明らかに濡れているのが分かる。まさか。思うより早く、瞼が熱くなりかけたが、降りしきる雪と老魔導士の声がその熱を納めてくれた。
「いてて。ちと油断したわい」
死にそうな声、ではない。少し掠れてはいるが、音に生命力と悪態の強さが感じられた。
「大丈夫ですか?」
司書が聞く。
「ああ。引っかかれた背中が痛むが、なに、掠り傷じゃ」
よっこらしょ、と声を出して立ち上がろうとして、すぐに尻もちをついた。
「まあとりあえず見せて下さい」
老魔導士は尻もちを着いたまま、しょうがないといった風に肩を竦め、司書に背中を見せる。
「ああ。少し抉られていますね。痛むでしょう?」
「さあて。寒さのせいかなにも感じんわい」
「なるほど。薬を塗って、キーラ殿に痛みを飛ばしてもらいましょう。大丈夫ですか、キーラ殿」
「ええ。わたしは。魔導士様が庇って下さったおかげで」
キーラは老魔導士に深々と頭を下げると、その両手を傷に当て、小さな顎を動かし、治癒の魔法を詠唱し始めた。司書は、アイリとトーマに老魔導士の手当を頼むと、巾着を漁り始める。クララは察して近寄ると、何をすればいいのか聞いた。
「橇が入っているんです。でも急いだから部品がバラバラで。適当に出すから組み立てて」
いいながら、巾着から木材を取り出す。クララは自信なさげに周囲を見わたし、シンベルグ、アルミス、シンベルグと見、当然のようにアルミスに目で訴えた。アルミスはニヤニヤしながら頷いた。
「えっと。これで全部ですね。では橇を完成させて、魔導士殿を載せて早々に今日の目的地まで行きましょう。そこでなら、暖を取れますし、よりきちんと治療出来るでしょう」
皆一斉に頷いた。
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