5日目 夜 踊り場にて 思い出す背中

5―4「踊り場」

過去を見つめない者は、

未来に対してもやはり盲目である

<偉大な政治家>


 湖からカシュワルク城へと続く道は、少しづつ広くなって行き、森は両側に遠ざかって行ったが、その不気味な佇まいは、浸食の入口の比ではなかった。

 道すがらアルミスが教えてくれたが、街道沿いに城に進んでいた場合、森はだんだん狭まってほとんど道のすぐ脇まで迫っていたらしい。

 カシュワルク城は城塞都市ではなく、城の向こう、湖とは反対側に市街地があり、街道は森の中の道を通って市街地へと続き、城へと延びているそうだ。

 湖側は、広い平野が広がり、湖から攻めてきた敵を水際で叩く戦法だとか。

 逆に街道側から攻めてきた場合、道の両側の森に伏兵して敵を叩くのだろう、とのこと。

 時折遠くに見える森から聞こえる、この世の物とも思えない獰猛な鳴き声に秘かに脅えながら、感心して聞き入った。

 それにしても。まだ、親指と人差し指で作った丸ほどの大きさでしかないカシュワルク城方面から吹く風はまさしく北風で、それこそ木枯らしだった。長時間冷たい風にさらされたせいで、体の節々が痛む。吐く息も、白さを増してきている。

「あとどのくらいじゃ、司書」

 老魔導士が声に疲労も露わに問いかける。

「そうですね。今日は無理でしょう。後丸2日はかかる。しかし」

「なに?」

 アイリが聞く。

「雪が降っては厄介です。思ったより季節の移り変わりが早いです」

 司書が答えた。

「雪が降っては足取りが鈍るな。だがこのままの体力で城に挑む訳にもいかんだろう」

 アルミスが司書とアイリに割って入った。

「そうですね。見てください」

 司書が右手を前方に向ける。前方には、深みを増す常闇の中に黒々とした塊が有った。

「あの大岩。今日はあそこでキャンプを張りましょう。カシュワルクまではもう少しです。明日、距離を詰めて、明後日、城に入りましょう」

 皆否応なく頷いた。「急がば回れ、ですね」キーラが囁くように言った。

 岩場まで行き、大岩に一体させるようにテントを作る。テントを作っている最中も、食事中も皆口数は少なかったが、話題がトーマと長老の話になり、司書が長老の間延びした声を真似ると、場が温まり、和んだ。

 それでも寒い中での行軍はそれぞれの体力をそれなりに奪ったようで、老魔導士、アルミス、アイリ、キーラの順に席を立つと、囲炉裏の周りには、司書、トーマ、クララが残された。シンベルグは例によって行方不明だ。

「トーマのお師匠さんは長老に似てたんですか?」

 司書が囲炉裏の中を掻き交ぜながら尋ねた。

「えっと、そうですね。似ていると言えば似ていますが、なんでしょう。のんびりしている感じは似ていますね」

 トーマは燃える火を見つめ、亀ではないし、もっと若いですけど、とはにかみながら付け加える。

「ちゃんと聞いたことないですよね。どんな人だったんです?」

 外に風、内に火が爆ぜる音。クララも是非聞いてみたかった。

「そうですね。師匠の名前はギルバルド・カシマス。言いましたよね。湖と同じ名です。南方の村、トンパス、聞いたことないでしょうね、そこで道場を開いていました」

「へえ。剣士向けの道場ですか。そこに通っていたんですね」

「ううん。通っていたという訳では」

「えっ、通っていたわけじゃないんですか?ではなぜ師匠と?」

「あっ、違います。通っていたわけじゃなく、住んでいたんです」

 へえ、と何が分かった訳でもなく、クララは相槌を打つ。ていうか、親元から離れて?と聞く。

「僕、親は知らないんです。捨て子だったから」

 クララは思わず目をきつく閉じる。ああ、やっちゃった。ごめん、と呟く。パチっと火が爆ぜた。

「いや、いいんだよ。結果として、師匠に出会えたし。僕は師匠の家の前に捨てられていたらしいんだ。師匠が二十七歳の時。何回も聞いたから歳も覚えちゃったんだけど。びっくりしたって。丁度今ぐらいの季節、いや、秋ってことだけど、お酒飲んで本を、戦場における一刀の使い方って本を読んでいた時。これも覚えちゃった。うとうとしてたら、オアーって声が聞こえて、夢かと思ったらまた聞こえて怖くなって。怖がりな人だったから。戸に耳を当てたら、またオアーって聞こえて。心臓バクバクしながら戸の隙間から外を見たら、白いモコモコが動いてて。そのモコモコを見たら、急に怖くなくなって、外に出て覗き込んだら赤ちゃんが手旗信号みたいに運動してたんだって。それを見て、これは育てなきゃなあ、って思ったらしい。まったく、師匠らしい話なんです」

 囲炉裏の中で燃える炎に照らされて、トーマの顔はひどく懐かしい笑みを浮かべている。

「目に浮かびますよ。優しい人だったんですね」

 司書が釣られたのか、懐かしい思い出を思い出すように優しい顔つきで言った。

「そうです。優しい、優しくて強い、憧れの人でした。尊敬していました。かっこよくはないんです。ずんぐりした熊みたいな。でも、僕にとっては誰よりもカッコいい人です。全然知らない僕を、ずっと大切に育ててくれました。父親を知らないですが、父みたいな。あっ、師匠に怒られますね。俺は独身なんだから、せめて兄、とよく怒られました」

 そんな師匠がいながら、なんで侵食に来たのか気になって、クララは聞いてみた。

「ううん。師匠が死んだから、かな」

 二回目。さっきよりきつく目を閉じる。ごめんなさい、と謝る。

「いいよ。ほんとに気にならない。僕にとっては、師匠が死んで悲しいことより、師匠と出会えたことと、師匠の話が出来る事の方が嬉しいことだから」

 のんびりした口調でトーマは言った。

「ご病気ですか?」

 司書が労わるような口調で聞いた。

「違います。戦って死んだんです。まあ、殺された、と言えばそうでしょうが、僕はそう思いたくないんです。師匠は戦って死んだ、と答えるようにしてます」

 強い口調でトーマが答える。頬が炎を反射して赤く染まっている。

「何かの戦いですか?侵食、ではないんでしょう?」

「そうです。トンパスの村、僕の育った村はユニスクとサマヌーという大きな町の丁度真ん中にありました。大きな町の中間なんで、だいたいの人が通り過ぎる村です。大きな建物はなくて、居酒屋とか小料理屋が何件かと、旅人用の品ぞろえの店、あとは雑貨屋と宿屋が二件ずつ。自慢というか、人に話す時は大きな牧場がある村と言ってなんとなく通じる程度の村です。師匠の道場には村の子供だけじゃなく、ユニスクとサマヌーからも剣術を習いに子供が来てて、そこそこいつも賑わっていました。二、三十人はいました。僕はその手伝いをして、させてもらって、時々みんなに交じって剣術を習っていました。師匠は剣術だけじゃなく、読み書きを教えたり、人生について語ったりして、僕らはみんな師匠が好きでした。師匠はほんといろんなこと知っていて、いろんなこと考えてて、僕、みんな師匠を尊敬してるって言ったんです。そしたら師匠頭を掻きながら、俺はなんで女にモテねんだろうなあ、って。語尾を伸ばすところは長老さんみたいですね」

 師匠の思い出を語るトーマは、ほんとに楽しそうだ。

「ほんと、今思い出しても、いや、今思い出せば思い出すほど、すごい人だったな、って思います。口癖が、世の中のためにならなきゃならんよお、で。あんな小さな村なのに、国の政治とか、人の幸せとか、ご飯食べながら、時々こぼしながら、いっつも語ってました。あのころはピンと来なかったけど、侵食に来てから良く思い出します。そして、今だったらこう答えるのになあ、って残念な気持ちになります。きっと師匠は名のある剣士だった気がします。アルミスさんみたいな。事情があって、トンパスに隠れ住んでいたんです。もう確かめられないけど。一緒にいる間は、師匠は師匠で、それだけで良かったので、考えたことなかったけど」

「誰かの、誰かのために戦ったのですね?剣士カシマスは」

「そうです。半年前になります。もう。あっという間ですね」

 少し弱くなった炎に照らされ、トーマの顔が愁いを帯びた。

「半年前ですから、侵食が始まったときの少し、前ですね。思えば、予感、なのかもしれません。予感って知ってますか?必然が漠然と感じられることらしいです。師匠が言ってました。その頃、小さな村に届く便りに、少しずつ悪い話が増え始めました。ユニスクでの通り魔事件や、サマヌーの連続放火。それまで何事もなかった日々や人に、急に禍が降りかかる。闇は流行病のように広がる、だから悪しき考えは小事の内に摘み取り、しがみつくべきルールに、訳が分からなくても信じてしがみつくべきなんです。師匠の受け売りですけど。そう、そういえば出会ったのも、拾われたのも、この季節で、お別れしたのもこの季節、秋、ですね。もうすっかり夏は終わったことに諦めが着いてしばらく経った頃です。去年の夏は短かったから少し残念でした。気づいたら終わっていたので、やり残しがそのまま未練になりました。だから、せめて秋にやるべきことをやりましょう、って師匠と話していたんです。師匠は夏は元気なんですけど、秋はしょんぼりした感じなんです。だからあの知らせが来た時も、秋にすることをあれこれ提案している僕を見て、めんどくさそうにしてました。行けば行ったで楽しいのに。あっ、話が逸れましたね。その日の稽古とか勉強会も終わってそろそろ夕飯の準備をしようかって時でした。トンパスの副村長さん、村長の義理の弟さんですが、開けっ放しの戸から走って入ってきました。『やばいやばい』ってかすれ声で言ってました。なにかあったのはすぐ分かりました。小さい村では走っている人はあんまり見ませんから。膝に手をついて、はあはあ言っているので、僕は水を汲んであげました。副村長さんは無言で受け取って飲み干すと『先生、すぐに村長の家に来てください』と言って、また走って出ていきました」

 トーマが手元の椀で温かい薬草茶を飲む。クララも釣られて飲んだ。温かい塊が、喉から胸の辺りを通っていく。

「それで?」

 司書が話を促した。確かにトーマの話は秋の夜長的スピードだ。

「はい。僕と師匠、師匠と僕は顔を見合わせて、すぐに家を出ました。村長さんの家に着くと、十人ぐらいの大人が集まっていました。薬屋さん、雑貨屋さん、宿屋のおじさん。みんな見知った顔です。師匠がのそのそ近づいていくと、ひそひそ話を止め、師匠の為に道を開けました。大人達が左右に分かれたので、村長さんの家の戸の前に村長さんが立っているのに気付きました。師匠がなにが起きたのか聞くと、村長さんが話してくれました。ユニスクの町に出かけた三人の女性が攫われて、攫った山賊から、お金と食糧を要求されていると。師匠は腕組みして聞いていましたが、村長さんの話が終わると、頭を掻き掻き、『それで?』と言いました。村長さんが言うには、それを皆で相談しよう、ということでした。師匠はイライラしたように『相談もなにも』と言いました。師匠は時々話を進み過ぎるんです。でも、周りの人はそれについて来れなくて、余計イライラするみたいです。皆黙ってしまったのに気付いて、師匠が『まず金と食糧を用意出来るのか、それと誰が持っていくのか、あと、それを渡せばちゃんと娘達が帰ってくるのか』と言いました。ある程度は話していたのでしょう。大人達は目を見合わせて最後に村長さんを見ました。村長さんはあんまり表情が豊かな人ではなかったので何を考えているのか分かりませんでしたが、ゆっくり首を振り『金も食糧もとても用意できるもんじゃない』と言いました。どうもそれで困っているようでした。師匠は目をつむったまま『じゃあどうするんです?』と聞きました。副村長さんが『だから先生、なにかアイディアはないかな?』と聞き返しました。師匠は『まず出せるだけの金と食糧を用意して、村の男総出で山賊のねぐらに行きましょう。どうせフォルス山の廃墟でしょう?人数で圧倒すれば何とかなるでしょう』とすぐに答えました。さすがだなぁ、と思いました。師匠に言われると、不思議とそれしかない気がしてくるんです。僕が横でうんうん頷いていると、村長さんがまたゆるゆると首を振りました。『先生。やつらに金は渡せんよ。噂がアッちゅう間に広がって、このあたりの山賊という山賊がこの村にたかり始める。そうなったらおしまいじゃ』そう、言いました。不思議なもので、村長さんが言った事も、なるほどなぁ、と思いました。駄目なんです。自分の意見が無くて。師匠は小首を傾げて聞いていましたが、目を開くと『じゃあせめて渡すふりして山賊をおびき出して捕まえましょう』と言いました。急に横で宿屋のおじさんが『無理だあ』と大声を出しました。『どうしてです?』と師匠が聞くと『ありゃただの山賊じゃあねえ。多分どっかの脱走兵だ。武装が半端じゃねえもんよ』と早口で捲し立てました。『しかし。それではどうするんです?』師匠が聞くと皆下を見ました。薬屋のおじさんが小声で『運が悪かったと思うしか…』と言ったのを師匠が怪訝そうな顔で見ました。『まさか見捨てるんですか?そりゃないでしょう』師匠が少し大声を出すと、皆下を向いたまま一歩下がりました。村長さんだけその場を動かないで『先生が来る前に話しておった事じゃ。それで先生、攫われた三人の娘の親に諦めるように説得してくれんか。礼はもちろんするから』と低い声で言いました。師匠は大きく息を吸って吐き出すと『嫌です』と言いました」

 トーマの声が掠れた。そりゃそうだ。随分と一人で話している。トーマの話し方は決して上手じゃないが、クララはいつしかトーマの話に引き込まれていた。司書も同じ気持ちらしく、身を乗り出してトーマの目の前の椀に薬草茶を注ぐ。トーマは黙って飲み干すと話を続けた。

「『嫌って先生』雑貨屋のおじさんが驚いたように師匠に言うと、師匠は村長さんを見たまま『何人か有志を募って下さい。俺が行きますよ。金も食糧も形ばかりでいい。なんなら酒に薬を混ぜてもいい。駄目ですよ、見捨てるのは。金より何より、もっと大切なものを失いますよ、この村は』と淡々とはっきりと言いました。もう、僕は、ジーンと来て。すいません。大丈夫です。泣いてません。なんか、鳥肌がたったんです」

 クララも鳥肌が立っていた。しばらくトーマは黙った。クララも司書も何も言わずに待った。聞きたい話がある時は、話し手の気持ちを遮ってはいけない。でないと聞けるはずだった、聞くべきだった話を聴くチャンスを逃してしまう。それは知らず知らずの後悔につながる。父さんが昔言っていたのを思い出す。そうか、こういうことなのか。再びトーマが口を開いた。

「気まずい空気が流れ、少し沈黙が辛くなってきました。いつの間にか、夕暮れから夜になっていて、すぐ傍にいる師匠の顔も見えづらくなっていました。風はなかったんですけど、急に寒気がして体が思わずぶるっと震えました。師匠はちらっと僕を見て、一人で頷くと『誰かいませんか?俺と一緒に山賊のところに行く人は。二十、いや、十人でいい。俺に任せてください。戦いましょうよ』師匠の声は穏やかで優しく、力強かったです。もちろん僕は行くつもりでしたし、きっと誰かが、いや皆が考え直すはずだと思いました。しかし、誰も何も言いませんでした。酒屋のおじさんが、前掛けをいじりながら少し身じろぎしました。皆酒屋のおじさんを見ました。おじさんは慌てたように手を振ると『いや無理だよ。俺、仕事あるし。すまん村長。配達忘れてた』と一気に言うと走るように暗闇の中に消えていきました。それを合図のように副村長さんが『しょうがないよ兄さん。先生だって気が重いさ。俺が親御さん達に言ってくるよ』と言いました。皆めいめい頷き、賛同しました。『そうか。じゃあユニスクの町の治安隊には明日の朝一番で相談に行こう。みんなご苦労さん。先生もすまんね』と村長さんが言うと、家の中に入っていきました。その後ろ姿を見て、みんな軽い挨拶だけして帰り始めました。最後に、師匠と僕だけが残りました。師匠が動かないので心配になって、恥ずかしい話、お腹も空いてました。帰りましょうと声をかけると『ああ』とだけ言って師匠は腕組みしたまま早足で歩き始めました」

 クララは喉の渇きと頬の火照り、更に胸に圧迫感を覚えて、トーマが話を区切るのと同時にぬるくなった薬草茶を飲み干した。無言で司書にお椀を差し出すと、司書も黙ってクララとトーマと自分の椀を満たす。

「ありがとうございます。それで、僕は師匠の背中を見ながら早足で歩いていましたが、だんだん速くなって、最後にはほとんど駆け足になりました。家に帰るなり、師匠は『湯漬け』と言って、奥の部屋に入っていきました。僕は火を起こして湯漬けの準備をしながら、耳を澄ましていました。奥の部屋にある押入れの扉が開く音がして、ああ、やっぱり、と思いました。奥の部屋の押入れには、師匠の鎧とか、武器が仕舞ってあるんです。湯が沸いて、冷やのご飯を盛り付けたところで師匠が奥から出て来ました。茶色で統一された鉢金、手甲脚絆。そして濃い茶色の鎧を着けて、そうです。僕が今使っているやつです。腰には右と左に二刀差して、飛刀を何本か差し込んだ皮のベルトを袈裟懸けにしていました。胸元から覗く鎖帷子を見て、師匠の決意が分かりました。一人で女の人たちを助けにいくつもりなんです。僕が用意した湯漬けを師匠が掻きこんでいる間、指示されて袋に荷物を詰めました。僕の服を上下三着、タオル、水筒、干し芋、干し葡萄。師匠は大盛りで三杯おかわりしてから、立ち上がって、突き出たお腹を鎧の上からポンと叩くと『ごちそうさん』、と大声で言ってから盛大にゲップをしました。袋を用意してから僕も湯漬けをいただいていたんですが、慌てて掻きこむと準備をしようと立ち上がりました。師匠はお腹いっぱいで頭がうまく回らないのか、お腹をさすりながら太い眉の下の細い目で僕を見ていましたが、いつの間に手にしていたのか、白い筒を僕に差し出して『これ』とだけ言い、僕が受け取ると、黙って土間に下り、鹿皮の防寒用靴を履き、口のところを紐で縛り始めました。師匠はお腹が出ているので靴を履くのに時間がかかります。僕は師匠の背中からなんだか話しかけちゃいけない空気を察して、何も言えないで筒を持ったまま立ち尽くしていました。靴を履き終わると師匠は立ち上がって『じゃあ行ってくる』と僕の方を見ないで言いました。僕は、師匠、と我ながら情けない声で言いました。師匠は『言うんじゃねえ』と大きな声で叱るように言いました。僕は泣きそうになって、いや、実際泣いたんですけど、何も言えなくなりました。『ちょっと行ってくる。明日には戻る。あと、その紙は明日の昼に開けろ』そう言って戸口に向かう師匠を、僕は黙って唇を噛みしめて見ているだけでした。何であの時、連れて行ってください、と言わなかったのか。意地でも準備して後を追わなかったのか。村長さんの家の前でもそうです。なんで僕は行きますよ、とみんなに言ってやらなかったのか。後悔してます。子供でした。子供のままで居たかっただけの、情けなくて卑怯な人間でした。そこにヒントがあるのに、子供だから、と自分で理由をつけて、責任を負うことから逃げていたんです。その時は気づかなかったけど、今回の旅が気づかせてくれました。だけどやっぱり気づいても後悔はするんですよ。僕は師匠が連れて行ってくれないのが分かって、途方に暮れてました。その間も師匠は黙って戸口に向かい、もうすっかり暗くなった外の世界に出て行こうとしていました。僕はもう一回、師匠、とさっきよりも情けない声で、半泣きで、言いました。分かるよね、クララ。その気持ち」

 クララはうん、うんと二回頷いた。クララは自分が泣いているのに気付いた。トーマの気持ち、師匠の気持ち、あるいはその両方か。司書がそっとハンカチを渡してきた。トーマは楽しかった思い出を語るように、目をキラキラさせている。うっとりと夢を見ている様なその瞳に、囲炉裏の炎が写っては消えてを繰り返している。

「師匠は戸口で立ち止まったまま、しばらく動きませんでした。ちょっと前に行きかけて、やっぱりやめて。ちらちらとこちらを見かけて止めて。こつこつと、お腹の辺りを弾く音がしばらく続いて。急にガクンと首を前に倒すと、パンっと鎧の胴部分を叩いて『行く。行ってくる』と掠れた声で言うと、出て行きました。これが、僕の見た師匠の最後の姿です」

 はあ、と首をふりふりトーマは息を吐き出した。

「その後お師匠さんがどうなったのかはご存じないのですか?」

 司書が、囲炉裏に薪をくべながら聞いた。

「知ってます。聞いた話ですけど。師匠が出て行ってから、僕はずっと立ち尽くしていました。とにかく明日を待とうと思って。今思えばいろいろ、村長さんに伝えに行くとかあったと思うんですが、その時は頭が空っぽで。とりあえず冷え切った湯漬けを食べたり食器を片づけたり、掃除したりしてました。その内やることもなくなって。それで土間の上がり縁に腰掛けて、戸の向こうの暗闇を眺めてました。そのうち、夜のひんやりした空気が、部屋の中を充満していく感じに押しつぶされそうになりました。あとはなんだか怖いというよりなんだか寂しくて悲しくなってきました。師匠とした笑い話とか、駒取ゲームとかを思い出して、脚をばたばたさせながら、朝を待っていました」

「駒取やるんですか?私も好きなんですよ。今度やりましょう」

 司書が身を乗り出す。トーマが目の前で手を振りながら身を引いた。

「いやいや、僕は弱いです。師匠は強かったです。ああ、でもいいですよ。その内お手合わせ願います」

 司書が何か言いかけたのを制止して、クララは続きをねだった。

「ああ。うん。その内、戸口から少しづつ陽が入ってきて、部屋も明るくなってきて。不思議だよね、太陽の光って。それまでの不安で悲しい気持ちが少しづつ薄れて行くのが分かるんだ。ようやくその場から動けるようになって、ようやく村長さんに伝えようって考えが浮かんできたんだ。それで外に出て、村長さんの家に向かった。村の朝は早いけど、それにしてもまだ随分早かったと思う。なのに村がいつもより、なんていうか、落ち着きがない気がした。寝てないからだと思うけど、妙にふわふわして、何かが知らされる予感のようなものが僕の周りの空気を固定させている、いや、僕にまとわりついて来る感じがして、訳も分からずイライラした。顔をこすって目をこすって村長さんの家が視界に入ったとき、前の日の夕方のように人が集まっているのが見えた。走る気力はなかったな。全然知らないけどだいたい分かっていた気もしたし。それは、早起きの村の人達と、逃げてきた三人の女の人だった」

 トーマは何かを思い出すように、視線を上にあげた。

「女の人達から話を聴けたのは十日ぐらい後。僕が荷造りしているところに訪ねて来てくれて、教えてくれたんだ。女の人達が乱暴されて監禁されている小屋に、師匠が四つん這いで現れて、服をくれて逃がしてくれたって。最初二人しかその小屋に居なくて、一人がどこにいるか聞かれたんだって。それで、さっきまで連れて行かれてた部屋を教えたらしい。そこに山賊たちもいることも。女の人は師匠に紐を渡されて、その紐を辿りながら逃げるように言われた。二人が服を着て、外に出ると、見張りは見当たらなかった。師匠は森の際まで行って、2時間だけ待って、もう一人が来なかったら逃げろ、山賊が来ても逃げろ、紐を辿るのを忘れるな、って言って廃墟に戻って行った。女の人は、マリーさんっていうんだけど、綺麗で強い目をした女性だったよ。もう一人が逃げよう、って言うのをなだめて、マリーさんは待った。しばらくしてなにか悲鳴か叫び声が聞こえた気がした。誰かが廃墟から走って出て来た。マリーさん達が身を隠して見ると、それは一緒に攫われた少女だった。なりふり構わず大声で呼んで、後は紐を辿って夜の森をなんとか逃げた。紐の先は袋に結わえられていて、大きな木の幹に結んであった。僕が用意した、師匠の持って行った袋だよ。中には服と食べ物と水。マリーさん達は泣きながらそれを食べて、村に逃げてきたんだって。マリーさんは、最初ははっきり話をしていたけど、最後の方は泣いてた。最後に逃げてきた女の人の話によると、師匠はすごい形相で部屋に押し入って来て、女の人に伸し掛かっていた山賊を切りつけて、女の人を引き起こして部屋の中から飛び出すと、門から森まで振り返らず走れって耳元で囁いてから、部屋から飛び出してくる山賊たちと戦い始めたらしい。マリーさんから聞いたのはここまで。マリーさんは、ありがとうとごめんなさいを何回も繰り返して、最後に、いつでもマリーさんの家に越してきて欲しいと言って帰りました」

「それでは、その後どうなったかは分からないんですか?」

「はい、いや、いいえ。師匠が亡くなったのは知っています。なんだかんだで合同の治安部隊が廃墟に向かったのは三日後でした。僕も一緒に行こうと思ったんですけど、子供は駄目だって言われました。はは。廃墟には十人の山賊の遺体と、師匠の遺体があったそうです。僕は師匠を一目見たかったけど、遺体の損傷が激しいから子供が見るもんじゃない、そう言われて断られました。せめて鎧と剣を返して下さいと、これだけは言いました。それだけはなんとか叶えられましたね」

 なんだか、凄い話だ。悲しくもあるし、切なくもあるし、それらをひっくるめて、なんだか、そう、感動した。

「そうですか。凄い話、いや、凄い人のお話しですね」

 司書も共感したらしい。

「それで、手紙にはなんと?」

「手紙?ああ、手紙。良く覚えてましたね」

 そうだ。すっかり忘れてた。トーマの師匠からトーマに渡された白い筒。トーマは、読みますか、と言って懐から畳まれた白い紙を取り出した。司書が黙って受け取る。司書の目だけが上下して紙の上を滑った。紙の端まで行くと、目を閉じて目頭を押さえて紙をクララに差し出す。クララも黙って受け取った。紙に書かれた文字は、クララの想像と真逆の繊細で優しかった。

〈トーマへ

 この手紙はいつかお前が旅立つ時に渡す手紙だ

 それが早いか遅いかオレには分からん

 どういうときに渡すかも分からん

 だからいろいろ書いておく

 まず、お前が生まれた、オレん家に来てくれた日から少しづつ貯めておいた金と、お前にやろうと思っていた剣、あと、お前が家に来てくれた時に握りしめていた羽は、押入れの天井だ

 可愛かったなあ

 赤ちゃんの時は

 最近生意気だぞお前

 まあとりあえず全部お前の物だ

 オレが言うのもなんだが、金は大切に使えよ

 あとはいつか旅立つまでオレがおまえにやれるものは生きていくのに必要な力とか、誰かを守れる強さだ

 この手紙を読んでいるということは多分もう大丈夫なんだろう

 それでも生きていくことに疲れたり、なにもかも嫌になって投げ出そうとするときは来るだろう

 そういうときは、とにかく誰かのためになることをしろ

 しなさい

 そうしたら、なんとか生きていける

 自分のために在るものは、だいたい大したもんじゃない

 捨てるのも自分の自由だからな

 だから人を大切にしなさい

 オレはお前を大切にしてきた

 だからなんとか生きてこれた

 ありがとう

 だからお前も誰かを大切にしなさい

 そのために強くなりなさい

 まあなんだ、オレは毎年新年にこれを書くことにしてるんだが、今年はまだお別れはないな

 だからここらへんでやめとく

 今年は海で釣りを教えようと思う

 あと、今年いや、せめて来年までに結婚したい

                                  以上〉

 クララは、言葉が出ず、丁寧に手紙を畳むと、黙ってトーマに返した。トーマは照れ臭そうに笑って受け取ると「もう寝ます。話疲れました」と言って立ち上がった。

 司書と二人で黙ったまま、囲炉裏の火で薪が爆ぜる音を聞きながら、ちょっとだけ待って、クララも寝床に向かった。

 涙が止まる頃、眠りについた。

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